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何が起きたのか、また何が起きているのかは、皆目、見当がつかないのだけれど、事務所にはすんなり戻れた。蛍光灯をつけ、ポールハンガーにジャケットを掛けつつ、ミカミに対して「座って」と伝えた。「ほな、遠慮なく」と言い、客人用の二人掛けに、どっかりと腰をおろした彼である。
「メイヤちゃん、コーヒー、淹れてくれるかあ?」
「はいはい。わかってるわよ」
とまで答えたところで、「あれ? わたしはどうしてミカミに対して優しいのかしら?」という疑問に駆られた。むぅと口を尖らせる。まあ、彼のように豪胆な男は嫌いじゃないけれど。かといって、マオさんとは比べようもないのだけれど。
「おぉ、イケるやんけ」
「インスタントよ」
「べっぴんさんに出されると、なんでも美味いっちゅうこっちゃ」
「ああ、そう、ありがとう。で、話って何?」
ミカミは両肘をそれぞれの膝につき、前屈みになった。見たことがない真剣な表情をしている。灯りに照らされ、両の耳たぶに付けているボディピアスがぎらりと瞬いた。
「何から話したもんかね」
「シーケンシャルに話して」
「そうさせてもらおか。実はな、一週間前に、『虎』のトップがすげ替えに遭ったんやわ」
「そうなの?」
「ああ。以前は好々爺が元締めやったんやが、クーデターが起きてな。その若造が執行部はおろか、何から何まで牛耳ってしもたんや」
「その若造とやらの名は?」
「ジュン・サクライ。日系さんらしいわ」
「アンタんとこの組織、すなわち『グウェイ・レン』はどうしたの?」
「っちゅうと?」
「そのサクライとやらに尻尾を振るのかって訊いているの」
「お生憎様。『虎』の直参からは、とっとと抜けさせてもろたわ」
「抜けた? それで良かったの?」
「執行部に入れてやるかわりに、上納金を、倍、納めろっちゅうんや。阿保抜かせって話や。何が悲しくて、ワシともあろうニンゲンが、若造相手にデカい金をこしらえたらなあかんねん」
「今度は貴方がクーデターを起こしてやれば?」
「無理やな。現実的に見て、向こうさんとこっちの戦力差は大きいさかい」
「それで、わたしが逃げ回らなくちゃならなかったのは、どういうこと?」
「サクライはどんな小さな芽でも刈り取るつもりらしくてな。シノギの邪魔するニンゲンかて、ターゲットやってことや」
「わたしの名は売れちゃってるってことね?」
「裏社会ではメイヤちゃんって、それなりに有名なんやぞ? せやさかい、狙われるのも当然や」
「そう言う貴方のほうこそ危ないんじゃないの? 親を裏切って、ただで済むわけがないでしょう?」
「それは止むを得んわな。せやけど、気に食わんもんは気に食わん。前に言うたやろ? ワシは自由でありたいこそ極道になったって。その信念だけは変わらんし、曲げようもないわ」
「自衛をはかるためにも、おとものニンゲンくらいつけるべきだと思うけど」
「んなもん、要らん要らん。なんちゅうたかて、俺は、ミカミ・カズヤなんやさかいな」
「よくわからない理屈ね」
ミカミはソファにのけぞると、両腕を背もたれの上に広げた。偉そうな態度だけれど、それほど不快感は覚えない。彼の立ち居振る舞いにはスケールの大きさがある。その肝の太さは、やっぱり好みだ。
「で、どないする、メイヤちゃん。はっきり言って、この事務所も近いうちに危険地帯になってまうぞ?」
「だからといって、誰かの世話になるのは、ごめんだわ」
「まあ、メイヤちゃんなら、そないなふうに言うとはおもてたがな。とはいえや。鉄砲持ってわんさか来られたら、防ぎようがないやろう?」
「そうね。その点は認める。人海戦術を用いられたら、どうにもならない」
「せやからやな、ウチにこぉへんかって提案したいわけや」
「極道になれっていうの?」
「そうやない。当面の避難場所として、ウチの事務所を選んだらどうやって話や」
「うーん……」
「悩んだところで始まらん。たまにはヒトに甘えるのもアリやと思うで?」
「わかったわ。しばらくは、アンタのとこの下っ端に弾よけになってもらうことにする。で、いくら払えばいいの?」
「俺とメイヤちゃんの仲やないか。金取ろうなんておもてへんわ」
「今から向かったほうがいい?」
「そらそうや。いつ攻め込まれるかわからんさかいな」
「了解。じゃあ、行きましょうか」
「夜遅くに、すまんな」
「貴方が謝ることじゃないわよ」




