31-3
その日の夜、こないだ髪を切ってもらったお礼にと、馴染みの美容師のおねえさんを食事に誘った。
中央に回転テーブルが設置されている席につき、待っていると、あれやこれやの料理が運ばれてきた。餃子にシュウマイ、麻婆豆腐に北京ダックといったところである。
「スゴいご馳走。いいの? メイヤちゃん。逃げるなら今のうちよ?」
それを聞いて、わたしは「あはは」と笑った。
「なんですか? 逃げるなら今のうちって」
「だって私、大食いだもの。たくさん食べちゃうもの」
「いいですよ。おなかが一杯になるまで食べてください」
「私は髪を切ってあげただけよ? 仕事をしただけよ?」
「このヘアスタイル、評判がいいんです。誰からもカッコ良くなったって褒められるんです。それが嬉しいなって」
「元がいいんだから、どんな髪型でも似合うわよ」
「恐縮です」
「それじゃあ、遠慮なくいただこうかしら」
「ええ。お互い、がっつきましょう」
食事の時間は一時間半ほどだった。おねえさんは椅子の背もたれに体を預け、ふーっと息を吐きつつ、おなかをぽんぽんと叩いた。
「ああ、きっつい。いくらなんでも食べっぱなしってのはやり過ぎよね」
「シメにラーメンでも頼みませんか?」
「メイヤちゃん、貴女、まだ入るの? 羨ましいわ。どれだけ食べてもそのスタイルを維持できるなんて」
「食べた分、動きますから」
「ムエタイ、私も習ってみようかしら。ダイエットになるわよね」
「ええ、是非。先輩として色々と教えて差し上げますよ」
会計を終え、店から出たところで、おねえさんに「家までお送りしましょうか?」と提案した。すると、「いいわ、ここで」という返答があった。
「これから仕事帰りの彼と会うの」
「おぉ、例のカッコいい恋人さんですか」
「カッコいいだなんて言った覚えはないわよ?」
「やっぱり、セックスをするんですか?」
「当然」
「わーお」
「メイヤちゃんは早くヴァージンを切れるといいのにね」
おねえさんはマオさんのことを知っている。彼の髪にたった一度だけ、鋏を入れたことがあるからだ。ヘアスタイルについてわたしがオーダーした。すなわち、わたし好みに仕上げてもらったということだ。パーマでひらひらになった前髪を、彼はしきりに気にしていたっけ。
「マオさんって、カッコ良かったわ」
「そうですか?」
「うん。鏡越しにね、彼の真っ黒な瞳と目を合わせると、うっとりとしそうになったの。ちょっととろけそうになっちゃったくらい。女泣かせなんだろうなって思ったわ」
「でも、マオさんは潔癖過ぎるくらい潔癖でした。わたしがどれだけ抱いてくれーってせがんでも、抱いてくださいませんでした。当時は凹みまくったものです」
「マオさんが帰ってきたら知らせて? 私がまた髪を切りたがっているって教えてあげて?」
「不思議ですよね。マオさんは誰とも親しくあろうとはしていないのに、彼の周りには彼を中心としたコミュニティが幾つも出来上がっていたんですから」
「それを人徳って言うんじゃないかなって思う。しつこいようだけれどねメイヤちゃん、マオさんが戻ってこないなんて考えちゃダメよ? いつかまた、会えるはずだから。絶対にどこかで生きていて、そして絶対に貴女のことを忘れないでいるはずだから」
わたしは両腕を広げた。おねえさんはハグに応じてくれた。「本当にいい匂い」と言ってから彼女は離れ、「バイバイ」と手を振って、立ち去った。
ボルサリーノをかぶり直し、さてとと思う。満腹ではあるものの飲み足りない。事務所の近所の『立ち飲み屋』にでも顔を出して、焼酎のお湯割りをすすりながら、主に肉体労働に従事している男性達の目の保養に一役買ってやろうかと考える。何かの拍子におしりでも撫でられるようなことがあれば、その瞬間、わたしは鬼になるだろうけれど。
が、そんな予定は前触れなく神様に剥奪された。
身を翻し、帰路の大通りを行く最中に、モーゼの十戒がごとく歩道が割れていたのだ。人々が怯えた様子で脇によけているのである。そうするに値するだけの理由があった。視線の先に白い髪をポニーテールに結った男の背中を捉えた。白いシャツに薄紫色のズボン。いわゆる”狼”を想起させる。
わたしは「待ちなさい!」と声を張り上げた。まだ懐に手を忍ばせるなんて真似はしない。まずは様子を伺うべきだと判断した。
ポニーテールの男がゆっくりと振り返った。顔立ちが”狼”に似ている。同一人物だと思わされるくらい似ている。
「待ちなさいとは、僕に言ったのかな?」
という食えない台詞を吐くあたりも彼っぽい。
「ええ、そうよ。わたしは貴方に待てと言ったの」
「待たないよ。今日は疲れた。早く家に帰って眠りたいんだ」
「名乗りなさい」
「どこにそんな必要性が?」
「いいから答えなさい」
「シノミヤ・アキラ。君は誰だい?」
「それは当たり前の問い掛けであるように思えるけれど、わたしからすれば軽率な質問だわ」
「どういうことだい?」
「貴方が模倣している”狼”は、わたしのことを知っているのよ」
「過去に君が僕と関わったことはわかった。だけどそんなこと、忘れてしまったな」
「いい答えね。”狼”の良く理解しているじゃない。彼がそう宣う可能性は捨てきれないから」
「殺してあげようか?」
男は懐から抜き払った銃を向けてきた。
「ああ。やっぱり貴方は偽物ね」
「どうしてそう言えるんだい?」
「オリジナルは銃なんていう無愛想で不格好な武器は持ち出さないからよ。彼はヒトを殺める際には必ずバタフライナイフを使う」
「例外もあるかもしれないよ?」
「そんな選択肢は存在しない。だけど、彼の名前を知っているあたり、貴方は”狼”と接触したことがあるようね」
「僕はシノミヤだ。シノミヤ・アキラだ」
「そういった主張も、本人ならしないはず。貴方は”狼”に感化されて、彼のコピーキャットを演じているだけ。顔は整形でもしたんでしょう?」
「本当に殺すよ?」
「彼ならそんな脅しもかけない。そして何より」
「なんだい?」
「本物の”狼”は、今の貴方が浮かべているような卑屈な表情を見せたりしない」
「何度だって言う。僕はシノミヤ・アキラだよ」
「だったら、わたしを駆逐してみなさいよ」
「撃つ」
「上等っ」
わたしは不規則なステップを踏む。ランダムに左右に動きながら”狼”の偽物に接近する。銃は撃たれたが命中しない。
左のフックから右のローキック。いずれもガードされた。それなりにやるようだ。だけど、”狼”ならそんな真似すらゆるさない。バタフライナイフでわたしをあっという間に一突きにすることだって可能かもしれない。
わたしは多少、距離を取った。
「痛いなあ」
というのが偽物の言葉。まだ銃口を向けてくる。わたしは再び距離を詰め、右のハイキックをぶん回した。激しくヒット。男はぶっ飛んで横倒しになった。
「やっぱり貴方は三下ね。”狼”の名を騙るなんておこがましいわ」
「僕はシノミヤだ。シノミヤ・アキラなんだ」
「それはもう聞き飽きたわよ。それでもやっぱり貴方は偽物。スケール感がまるで違う。プレッシャーも感じないし。だからここで、ジ・エンドよ」
「嫌だなあ、それは」
「大人しくお縄につきなさい」
偽物はよろよろと立ち上がるとゆるゆると退き、それからさっと動いて手近のニンゲンを人質に取った。女性の首に左腕を巻き付け、彼女のこめかみに銃をあてがったのだ。
「だから、”狼”ならそんな真似はしないのよ」
「だったら、どうしようっていうんだい?」
「言ったわ。貴方はここで、ジ・エンドだって」
「それでも僕は”狼”だ。一度決めたことは実行する」
「改めて言うわ。三下が調子に乗るな」
男は人質を前方に突き飛ばした。また銃口を寄越してくる。
「偽物さん。次は本気よ?」
わたしはジャンプ一番、男の間合いに入り、顎先に右の肘を叩き込んでやった。どっと仰向けに倒れた男。やっぱり偽物なのだ。わたしが簡単にやれたのだから。
「しくじった」
「本物の”狼”なら、とちったりしないわ」
「それでも僕は……」
男をうつ伏せに転がし、右腕を捻り上げた。悲鳴を上げないのは意地なのだろうか。
「誰か警察を呼んでください!」
わたしはそう叫んだ。
十分ほどが過ぎた時、ミン刑事が現場を訪れた。
「やっぱり騙っただけの男なのかね」
「紛れもなくそうです」
「お手柄だったな、メイヤ」
「恐縮です。尋問は徹底的に。お願いしますね?」
「任せておけ」




