29-3
明くる日の十三時頃、コウウン氏が仕事に出ている間に彼の住まいを訪ねた。路地に面したアパートの四階。質素な建物だ。細々と暮らしているらしいことが窺い知れた。
インターフォンを押すと、まもなくして、覗き窓からじっと視線を寄越される気配を感じた。身分を伝えた。「た、探偵さんですですか」という、幾分、びっくりしたような女性の声がドア越しに聞こえた。頬の傷も確認されたかもしれない。わたしはニコッと微笑んで見せた。自身の笑顔が相手の敵意や不信感を取り除けることは知っている。
中に通してもらった。ダイニングテーブルについていると、紅茶を振る舞ってもらえた。名前を訊くと、イーミンさんとのことだった。
「旦那様のことでお伺いしました」
「夫のことで?」
「はい。イーミンさん、単刀直入に言います。コウエンさんには他に好きな女性ができたようですね?」
女性は暗い顔をすると、うつむき、「そうですか…」と短く述べた。
「心中、お察しします」
「……いえ」
「わたしはゆるせないことだと思います。互いに互いのことを想い続ける。それが夫婦のあるべき姿と考えますから」
「……あの」
「なんでしょう?」
「私からすれば、夫は誠実なニンゲンなんです」
「といいますと?」
「正直にお話ししたほうがいいですか?」
「話してください」
「実は私、不倫をしているんです……」
「はい?」
「驚かれましたか?」
「それはもう。お相手は? どこの誰なんですか?」
「隣に住む一人暮らしの男性です」
「ぶっちゃけたことを訊かせていただきます。すでに肉体関係にあるんですか?」
「はい……」
「それはまた、なんというか……」
まったく呆れてしまいたくなる話だと思った。コウエン氏もコウエン氏なら、イーミンさんもイーミンさんだ。
「なるほど。コウエンさんは事実を打ち明けられた。でも、イーミンさん、貴女は打ち明けられないでいるんですね?」
「はい。それが申し訳なくて……」
「だから、いつも泣きたい思いに駆られると?」
「そういうことなんです……」
「別れるべきですね。そのほうが双方にとって幸せなはずです」
「やっぱり、そう思われますか?」
「当然です」
「でも……メイヤさん、でしたか?」
「はい。ファーストネームで結構ですよ」
「貴女はまだ、ご結婚されたことはないんですよね?」
「それが何か?」
「失礼なことを申し上げるようですけれど、そんなヒトに私や夫の気持ちはわからないと思います。最初は添い遂げるつもりでも、想いが変化してしまうことって、あるんです」
「結婚したニンゲンにしかわからないことはあると?」
「その通りです」
その点を突かれると言い返しようがないなあと思い、苦笑いが浮かんだのだった。




