夢、十一夜。
胃液で汚れてしまった口元にハンカチを当ててやる。おずおずとハンカチを掴む手にしっかりと握らせ、目線を合わせてイルフェスに問いかける。
「どうした? 怒らないから言ってみろ」
視線を少しばかり宙へ彷徨わせてからクロードを見る。
「におい」
「臭い?」
「はい、気持ち悪い臭いが……アルが入った地下室とおんなじ臭いが、しました……」
「それは何処から臭う?」
ピンときたクロードが聞くと、無言で小さな指が脇道を示した。
下水道の地図と街の地図を頭の中で照らし合わせ、一番近くの出入り口を探す。そう離れていないことを確認して立ち上がった。
釣られるようにイルフェスとアルフも立ち上がる。
流石にこんな状態のイルフェスを連れ歩くのは無理だ。
嘔吐したことで疲れてしまったらしいイルフェスの手をアルフが引いてやりながら一番近い出入り口へと向かう。暗い中で地上へ上がる出っ張りを見つけ、まずはアルフが一度登り、蓋を押し開けた。
イルフェスに一段一段ゆっくりと登らせて外へ出し、クロードも地上へ上がる。
人気の少ない道で店開けをしていた初老の男に声をかけると露骨に嫌な顔をされた。下水臭いのだろう。
「すまないが、暫くの間この子供を預かっていてもらえないか?」
懐から数枚の銀貨を取り出して握らせれば男は嫌そうな顔から一転、ニコニコと笑みを浮べる。
「他に何か用はございますか?」
「何か書くものと警察を呼んで来てもらえると助かる。……此れを渡せば事情は通じるはずだ」
「そのくらいでしたらお安い御用ですね。すぐに呼んで来ましょう」
渡された表面にザラつきのある紙に安いペンを走らせるとその紙を二つ折りにして男に渡した。
それを片手に男が閑散とした道を走って行くのを見送り、何時の間にか座り込んだイルフェスに声をかける。
「暫くの間、此処にいるように。店主に頼んで水を貰って飲んでおけ」
ぼんやりした焦げ茶色の瞳が歪む。
「……ボクも行きます」
「駄目だ」
「でも…っ」
「言うことが聞けないのなら屋敷へ戻れ!」
尚も言い募ろうとしたため、珍しくクロードは怒鳴りつけた。いや、イルフェスに怒鳴ったのは初めてだったかもしれない。
ビクリと震える小さな体にハッと我へ返る。
これ以上体調を悪くさせないよう気遣ったつもりが、逆に怯えさせてどうする。
「……怒鳴って悪かった」
イルフェスが小さく首を振った。
その頭をアルフがそっと撫でる。
「旦那様はお前の体調を心配してくださっているんだ。具合が悪いまま動き回るより、体調が戻ってから一緒に動いた方がお前のためであり、旦那様のためでもある。分かるな?」
「……はい」
「良し。心配しなくても、ちゃんと旦那様は迎えに来られる。それまでに体調を戻しておけよ」
「っ、分かりました」
三兄弟の長男だけあって年下の扱いは手慣れたものだ。
イルフェスはアルフを見上げてもう一度強く頷いた。
そうこうしている間に男が戻って来て警察に連絡した旨を告げたので礼を述べ、追加で銀貨を握らせた。
まだ少し俯くイルフェスを頼み、クロードとアルフはまた下水道へ入っていく。
滑りやすい出っ張りを下りながら舌打ちを零す。自身の不器用さが恨めしい。
幼い子供を相手にしたことがほとんどなかったせいなどというのは言い訳にしかならない。
それを理解しているからこそ不甲斐無さに嫌気がさす。苛立ちを隠しもせずに元来た道を戻っていく。それからイルフェスが指し示した脇道へ足を踏み入れた。
アルフの持つランプに照らされる道は少し狭いものの、通れないこともない。
断続的に水の落ちる音が聞こえて来る。通路の奥から響くそれに眉を顰めた。外に出た時も雨は降っていなかったし、何かに使うにしても随分と大量の水を流しているようだった。これだけ流すためにはかなりの量の水を井戸から汲む必要があり、一般家庭でこの量を流すことは滅多にないはずだ。
街の地図を思い起こしてみても、現在地の上に宿泊施設などはない。
違和感を感じつつ進んで行けば、汚水の臭いに混じって別の臭いが僅かだが漂ってきた。
それは何年も嗅いできた、だが何度嗅いでも慣れない、吐き気のする甘さが混じった腐敗臭だ。
周囲を見回し、足元を流れる汚水をラルフに言ってランプの光で照らさせる。クロードとアルフはグッと唇を引き結んだ。あまり早くない流れの中には死体の一部と思しき破片が幾つも浮かんでいる。
未だザァザァと流れ聞こえる水音とそれらを目にし、組み上げられた推測にパッと顔を上げた。水音のする方へクロードが足早に近付き、アルフが後を追う。
薄暗い下水道の奥では上から水が落ちていた。どこかの建物から管を通して落ちて来ているのだろうそれは水路へ流れ、先に流れていた汚水と共に緩やかに混ざり合う。ランプを翳すと、水は錆のような赤茶けた色をしている。
そしてその中にある先ほどと同じ欠片に頭上を見上げた。
アビの裾を翻して通路を戻る。
きちんと店主の男が警察に連絡をつけたのならば、そろそろあの刑事もやって来ている頃合いだろう。
迷うことなく道を戻ったクロードとアルフの頭上に声が降る。
「おっ!」
聞こえて来たそれに顔を上げると、先ほどの店主と共に見慣れた刑事が此方を覗き込んでいた。
その周りには更に数名の警官がいる。
「こんな朝っぱらから呼び出されて何事かと思いましたよ。こうも寝る暇がなくっちゃあ、俺らも働き過ぎで死んじまいますよ」
「そんな大柄な体で何を言っている?」
「いやあ、それとこれとは別モンってやつですぜ」
急いで来たのか刑事の顔は微かに赤い。
壁の出っ張りを登り地上へ出ると呆れ顔だった表情が歪む。臭いのだろう。
クロード自身もそんな刑事を見て眉を顰めた。
「私も好きで下にいた訳ではない」
「でしょうね。少しは俺らの苦労も分かってもらえましたかねえ?」
「お前達はそれも仕事の内だろう?」
「そりゃあそうですけど」
ガリガリと頭を掻く刑事は溜め息を一つ零す。そのやり取りを聞いていた他の警官は二人を交互に見て、どう反応すれば良いのか分からない様子だった。後続で下水道より出て来たアルフがその姿に不思議そうに目を瞬かせる。
店主はその場を離れるとすぐにイルフェスを伴って戻った。
先ほどクロードに怒鳴られた件を気にしているようで、茶色の頭は微妙に店主の後ろに隠れていた。
刑事にイルフェスの面倒を頼むと、一つ頷いて誰かの名前を呼んだ。すぐに返事をした警察の一人がイルフェスに話しかける。子供好きなのか人の好さそうな朗らかな笑みを浮べており、人見知りをするイルフェスも警戒した風もなく返事をした。
これなら問題なさそうだと一瞥して刑事に向き直る。
「また被害者が出たぞ」
「なら、すぐにでも遺体を回収して……」
「待て。死者には申し訳ないが先に犯人の確保を優先する」
早くしなければ証拠も消してしまうかもしれない。
遺体の回収も時間が経つと大変面倒だが、先に犯人を捕まえるべきだろう。
クロードの言葉に刑事が目を見開いて詰め寄った。
「犯人が判ったんですか!」
「正確に言うと犯人の潜伏先が判っただけだ。もし複数犯であれば私一人で確保は難しい。その辺りは頼んだぞ」
「お安い御用でさあ! おい、お前らもついて来い!」
歩き出したクロードに、アルフと刑事、数人の警官がついて行く。
下水道の見取り図と王都の地図を照らし合わせて着いた先にあったのは、古びた家だ。
元々はホテルだったが家主が変わるのを機に改築し、今は集合住宅になっているという刑事の話を聞きつつ建物を見上げた。古びてはいるが、傷みの少ないそこは他よりもすこしばかり綺麗だった。
そうして玄関付近を掃除していた老婆に声をかける。
そうそうお目にかかれない美しさの若い貴族の男とその付き人、それとは正反対の熊のように大柄な警官と、二人の後ろに控える数人の警官という不思議な組み合わせに酷く驚いた様子だった。
「あの、うちに何か御用でしょうか……?」
あんまりにも怖々と聞いてくるものだから、刑事が小さく苦笑した。
「すまんな、ばあさん。ちょっと中に入らせてもらっても構わねえかい?」
「え? ええ。それは構いませんけど……」
「何、ばあさんには極力迷惑かけないようにするさ」
図体はでかいが意外と人の好い笑みを浮べる刑事に老婆は少し落ち着いたのか、手に持っていた掃除道具を壁に立てかけると玄関扉を開けてクロード達を中へ招き入れた。
何年も刑事をしているだけあり、警戒心を簡単に解かせてみせた刑事に感心しながらクロードは老婆の後に続いて屋内へ足を踏み入れる。
こざっぱりとした屋内は老婆が毎日掃除しているのか綺麗だった。
不意に水の音が聞こえて来る。それも断続的にだ。老婆が顔を上げて眉を下げる。
「あらあら、またかしら? 困るわねえ」
「またとは?」
老婆の溜め息混じりの言葉にクロードが問い返す。
頬に手を当てていた老婆が振り返った。
「ああ、いえ、大したことではないんですよ? ただ二階に住む方のお部屋がね、どうも水の流れが悪くてよく水道管が詰まるみたいで、頻繁に沢山の水を流すもので他の方からうるさいと苦情が出てましてねえ」
「それはどこの部屋だ?」
「階段を上がって二つ目の、角のお部屋ですけれど……?」
「失礼」
老婆の言葉に一言断ってクロードは階段を上がる。水音はまだ鳴り止まない。
アルフと刑事達も後ろから続いてくる。階段を上がり切り、言われた通り二番目の角部屋の前に立てば、中から水音が聞こえて来る。ゴボゴボとした鈍い音も混じっていた。
顎で扉を示せば刑事が頷き、他の警官と共に扉の左右に移動する。
目配せで合図を送ると勢いよくその扉を蹴り開ける。
大きな体の前では一般家庭の扉にかけられた鍵など玩具のようなものなのだろう。バキリと音を立てて鍵が壊れる。極力迷惑はかけないと言ったがこれは仕方がないかとクロードは内心で目を瞑った。後で警察署の方から修理代が渡されることだろう。
「邪魔するぜ!」
派手な音と声を皮切りに刑事達が踏み込み、クロードとアルフも室内へ身を滑り込ませた。
中は来客用のソファーとテーブル、飾り棚のある居間で、隣りはどうやらダイニングルームらしい。
刑事が開け放たれたままのダイニングルームへ続く扉を覗き込み、一瞬動きを止めた。その後ろにいた警官達も覗き込んだ瞬間に声にならない悲鳴を上げる。
「くそっ、狂ってやがる!」
吐き捨てるように言って別の部屋へ行った刑事を見送り、ダイニングルームをクロードは覗き込んだ。
元が何色なのか判らなくなったドス黒い色の絨毯、べったりと同色の手形がついたダイニングテーブルに倒れた状態で放置された椅子が二脚。一歩入ると饐えた生臭さが鼻をつく。
キッチンにある木製のまな板らしきものに鉈にも似た包丁が放置されている。脇に置かれた大鍋からはドス黒い液体の付いた白いものが飛び出していたが、中身を見るまでもなさそうだ。
最も長く従僕を務め、側仕えとしてこういう場面を何度も目にしているはずのアルフですら顔色を悪くし、覗くだけでダイニングルームへ立ち入ることはしない。
聞こえて来た刑事の怒号と暴れる物音に振り返る。
どうやら犯人を捕まえたらしい。
刑事が一人の男を乱暴に引きずって居間にやって来た。少し痩せこけた男の頬は殴られたのか容赦なく赤く腫れ上がっており、思わず呆れた視線を刑事に向けてしまう。
「少しは加減をしてやったらどうだ」
「逃げようとしなけりゃあ、こっちも殴ったりしませんよ」
手錠をかけられても逃げようと足掻く男の背を刑事が叩く。かなりいい音がした。
犯人は法の裁きを受けるものであり、クロードは基本的に犯人確保であっても必要以上相手を傷付けるような真似はしない。無粋だとか野蛮だとか言う話ではなく、アルマン伯爵家という特殊な立場上、クロードが己の家柄や力を使って過度に誰かを虐げることは許されていない。家が興された時に取り決められた伯爵家にのみ適用する独自の法がある。それが理由の一つである。
犯人を割り出し、証拠を集め、後は刑事に任せるのがクロードの仕事だ。
自らの手で確保するのはセナが突っ込んで行ってしまった時か、他に人手や時間がない時くらいだ。
まあ良い。軽く顎を擦りながら刑事に声をかける。
「それはトイレに死体を流していただろう?」
「そうなんですよ! こいつ、血も涙もねえ野郎ですぜ!!」
「大方キッチンで細かくして流したという所だろうな。持ち運んだり焼き捨てたりするよりかは目立たんが、人一人を切って流すのはそれなりに手間と時間がかかっただろうに。御苦労な事だ」
恐らく老婆が言っていた水道管が詰まるという話も、流し過ぎた死体の破片が詰まりかけて何度も水を流して力技で管の詰まりを直した結果だろう。
流し切ってしまえば下水道では場所を特定出来ない。その辺りはなかなかに賢いと思うが、流している最中は時間がかかり、発見されれば簡単に場所が特定されてしまうとは考えなかったのか。
何はともあれ、この男が犯人で間違いなさそうだった。
「他に人は?」
「いませんぜ。単独犯でさあ」
それは重畳。クロードの仕事は無事終わったのだ。
「では私は帰るぞ」
「お疲れ様です。あ、うちの馬車が多分さっきの店の前に来てると思うんで使ってください。その臭いで街ん中は歩きたくないでしょうし、旦那のとこの馬車に臭いが移ったら困るでしょう?」
「ああ、そうさせてもらおう」
部屋の外へ出ると老婆が腰を抜かしていた。
まさか部屋を借りていた男が巷を騒がせている殺人鬼だとは露ほども思わなかったのだろう。その事に多少の同情を感じながらも、クロードは老婆に壊した扉の弁償代は警察署から支払われる旨を告げ、アルフを伴い階下へ降りて外へ出る。
馬車が来るというのだ、イルフェスの下へ戻るか。
不意にセナの顔を思い出す。
……帰ったら事の顛末を話す約束だったな
ふっと息を吐き出し、アルフを連れてイルフェスが待っているであろう店へ足を動かした。
* * * * *
「――――それは大変でしたね、イル」
ほんの僅かに湿り気を帯びている茶色の髪を撫でながら、わたしは苦笑した。
屋敷に戻ってきて、どうやら入浴したらしいイルが部屋に来たかと思うと抱き付いてきて、ぽつぽつと今日の出来事を話し出した。
伯爵の言うことを聞かずに怒られたようで、本人もかなり反省している。
とりあえず、今は落ち込んでいるイルをどうやって上向きに修正するかが問題だ。
下水道で吐いてしまって、それだけでも迷惑をかけたのに、我が侭を言って怒らせてしまったのだと酷く気に病んでいた。
帰りの馬車の中ではどうすれば良いか分からず黙ったままで、屋敷に着くと伯爵もそのまま真っ直ぐ浴室へ行ってしまったのだとか。きっとイルにとっては泣きたいくらい気まずかっただろう。
「どうしよう。ボク、追い出されたりしないよね?」
「大丈夫、旦那様はそんなことしませんよ」
「でも、言われたことは守るって約束したのに、わがまま言ったから……」
どうしよう、どうしようと泣きそうな顔をするイルを抱き寄せてやる。
入浴したばかりでふんわりと石鹸の香りがして思わず笑みが浮かんでしまった。
それを悟られないように茶色の頭を胸に抱き締め、宥めるように背中を擦る。
「旦那様はとっても不器用なんです」
「旦那様が? あんなにカッコ良くて頭もいいのに?」
「ええ、そうですよ。イルのことを心配しているのに、それをどう言えば上手く伝わるのか分からなくて困っているんだと思います。決してイルのことが嫌いになった訳ではないんですよ?」
わたしと伯爵も最初の頃は結構お互いに気を遣ってしまってガチガチだったし。
伯爵という立場上――…しかもこんな仕事をしている上で、自分より年下の子供と接する機会なんてあまりなかったはず。従僕や小姓もいるが主人と使用人の垣根を越えられない限り、硬い態度は抜けない。
大人にするのと同じ態度を取ってしまうせいで冷たく見えるだけだ。
本当は色々考えて、あれでもかなり気を遣っているんだと思う。
本人に言ったら間違いなく嫌な顔をされるだろうけれど、そういう不器用さはちょっと可愛い。
「本当に怒ってない?」
「絶対とは言えませんが。でも自分が悪いと思ったのなら、イルもごめんなさいと謝れば良いのですよ。口に出さないだけで、きっと伯爵もイルと仲直りしたいと考えていますから」
「……うん、ちゃんとボクが悪かったですって謝るよ」
「頑張ってくださいね」
意を決した様子のイルの頭を撫でていれば、控えめに扉がノックされる。
返事をすると扉が開き、タイミング良く伯爵が入って来た。
ビクリと小さな肩は震えたものの、ベッドから飛び降りて伯爵の下へ駆けて行く。珍しく走ったことへの注意がない。
かなりの身長差があるにも関わらず、しっかりブルーグレーを見上げたイルが口を開いた。
「わがまま言ってごめんなさい!」
もう一度、今度は頭を下げてイルが謝罪の言葉を紡ぐ。
「約束を破ったボクが悪いです。申し訳ありませんでした!」
すると見下ろしていたブルーグレーの瞳が微かに和らぎ、手袋に包まれた手が目の前の頭に触れた。
「私も怒鳴って悪かった。お前の具合が更に悪くなったらと思うと、つい厳しくなってしまった」
そんなに大きな声ではなかったけれど、聞こえた伯爵の呟きにイルは顔を上げた。
わたしの方からは見えないが、恐らく目を丸くしていることだろう。
お互いに見つめ合ったまま動かない二人。多分、この後どうすれば良いのか迷っているんだ。
仕方なく助け舟を出してみる。
「伯爵、お疲れ様でした」
「あ、ああ、今戻った」
伯爵がハッとした顔をしてイルの横を通り抜けた。
振り返ったイルの顔がまだちょっとだけ情けない表情をしている。
ベッドに近付き、でも何かを思い出した様子で伯爵が振り返る。
「食堂に行って来い」
「?」
「アフタヌーン用にお前の好きなクッキーを多めに作らせてある」
「! ありがとうございます!!」
今度こそ表情を明るくしたイルは元気よく返事をすると、わたしに手を振って部屋を出て行った。
ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえなくなってから、伯爵が溜め息混じりに椅子に腰掛け、ブルーグレーの瞳でジロリと睨んでくる。
「お前、私が聞いていることに気付いていたな?」
勿論、分かっていましたとも。
イルと話している途中で足音が聞こえていたのに、部屋の前で止まって入って来なかったから伯爵だとすぐに分かった。だからこそイルをああやって諭したのだけれど。
「さあ、何のことでしょうか?」
あえて惚けたわたしに伯爵は一度目を閉じる。
随分と疲れた様子にもう一度「お疲れ様です」と言えば「……疲れた、子守りは性に合わない」とぼやきが返ってきたので笑ってしまった。
伯爵にもイルにも良い経験だったと思う。これからも時折側仕えとして一緒に過ごすのなら、少しずつお互いを知っていかないと。わたし達がそうであったように。……あの頃は色々と喧嘩をしたなあ。思い起こすとくだらない内容が多かったけれども。
そんなことを考えているわたしに何かを感じ取ったのか、伯爵が嫌そうに眉を顰めた。
「今、何を考えた」
「いいえ? 特には何も」
「……どうだかな」
相変らず変なところで勘の良い伯爵にヒヤリとしながら笑みを返す。
フンと不機嫌そうに顔を背ける姿が少し子供っぽいと思ったけれど、黙っておこう。
しかし数秒もせずにわたしをチラリと横目に見て、片眉を上げ、諦めたようにこちらを向くと落ちかけていたショールを肩へかけ直してくれる。
ついでとばかりに額に触れた手は少しだけ冷たかった。
「もう大丈夫そうだな」
言って冷たい手が離れていく。
それに「よく寝ましたからね」と返事をして椅子に座り直した伯爵の顔を見る。
「それで、今回の事件の顛末はいかがでしたか?」
伯爵は不器用だけど、少し冷たいその手が沢山の事件を解決してきたことをわたしは知っている。
その裏で被害者が出る度に心を痛めていることも、自分の無力さに嘆いていることも気付いている。伯爵自身は聞いても否定するだろうから口には出さないが。
だが伯爵のお蔭で救われた遺族や誰かがいるはずなのだ。
何時か、そのことに気付いて欲しいと願わずにはいられない。
伯爵は軽く顎を擦りながら「そうだな――……」と今回の事件のあらましを語り出した。
# The third case:Remembrance.―想起― Fin.
≫題名‘想起’について
意味は『過去に経験した事物、事象やそれに関する表象を思い起すこと。特に記憶心像を再現する過程、またはそれを報告することをいう』この中では瀬那と伯爵が互いに出会った頃を思い出す意。
この二人の視点が入れ替わり立ち代わりだったので、読み難いと思わせてしまったら申し訳ございません。




