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アルマン伯爵と男装近侍  作者: 早瀬黒絵
# The third case:Remembrance.―想起―
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夢、十夜。

 



 天井には美しい絵画が描かれている。もっと具体的に言うならば、王都の街が頭上に広がっていた。


 それを眺め、アルジャーノンが髪を洗い終える頃には体も十分温まったため湯船を出る。アランに体を、アルジャーノンが髪を拭き、背凭れのない広い寝椅子の上で体と髪に二人がかりで香油を塗られた。


 あまり香油は好まないが、あれだけ酷い臭いの中にいたせいか入浴しても臭いが残っている気がしたので二人に任せることにした。


 クロードが生まれた時には既に伯爵家に仕えていたアランなどは、主人のそういった考えを読んで爽やかな柑橘系の香りのする香油を選んだのかもしれない。


 それから服を着込み、身支度を整える。さっぱりした気持ちで浴室を出たクロードはセナの休む客室へ向かった。


 まだ微かに湿り気を帯びた髪が歩く度に緩い空気に触れて少しばかり冷えるのが涼しい。


 客室の扉の前で立ち止まり、軽くノックする。中からの返事を聞いて扉を開けた。


 起きていたセナが此方を見て緩く目元を和ませながら「お帰りなさいませ。お疲れ様です」と、どこか茶化す声音で言った。


 常ならば肩で緩く編まれている黒髪が下ろされ、着古されたゆったりとしたシャツに大判のショールで一層線が細く見える。




「いかがでしたか?」




 事件が気になって仕方がないらしい。


 問いかけてきたセナに首を振る。




「遺体を検分して来たが犯人に繋がるものはなかった」


「それは珍しいですね。どんな状態でした?」


「言うと思うか?」


「え? 聞かせてくださる約束でしょう?」


「教えるのは事の顛末だと言ったはずだ。諦めろ」


「そんなあ……せめて今分かっていることだけでも……」




 落胆の色を滲ませながらも食いつくセナの額を軽く小突く。


 休めと言っているのに何を考えているのやら、どうあっても事件を聞きたいらしい。今回の事件については大雑把にこんな事件が起きている、という程度にしか伝えていないため、逆に気になるのだろう。


 詳細を教えてしまえばベッドの上で何時まででも思考の海に沈み、休息にならないのは目に見えている。


 スンと鼻を鳴らして空気の匂いを嗅ぐと、不満げに「入浴して来ましたね」などと睨んで来る始末だった。何か臭いでもすれば多少は事件に関して情報を得られるかもしれないと思ったようだ。


 無駄に嗅覚の鋭いセナに、やはり入浴を済ませてきて正解だったと思う。




「イルフェスや他の者にも聞くなよ」




 少し虚空を見た黒い瞳へ釘を刺す。案の定「聞くのも?!」とショックを受けた顔をされたが、クロードは甘やかさなかった。




「お前は休息に専念しろ。また倒れられては敵わん」


「もう気を付けますよ。仲間外れにされたくありませんし」


「そうか。まあ、解決した暁には全て話してやるからそれで我慢してくれ」


「……分かりました。今回は諦めるとします」




 ふて腐れた表情で返事をしたセナがふと此方を見つめてくる。


 黒い瞳が胡乱げに細められ「まだ少し髪が湿っていますね」と手が伸ばされた。ベッドサイドに置かれていた椅子に腰掛けていたので、その手はあっさりクロードの髪に届く。


 僅かに湿る髪を指先が撫でるように梳いた。




「きっちり乾かさないと傷みますよ」


「香油も塗ってあるから問題ない」


「大ありです。夏風邪は長引くと言いますからね」




 肩にかけていたショールを取ったかと思うと頭に被せられる。


 やや強引に腕を引き寄せられてベッドへ片手を付いてしまったが、セナは気にせず髪を拭いていく。「ショールに香油が付くぞ」と抗議しても「良い香りになって使いやすくなりますね」と受け流された。


 暫くして確かめるように手が髪に触れ、手櫛でだが整えられる。




「わたしは兎も角、伯爵が風邪を引いたら困るでしょう? 体調不良で事件に挑むつもりですか?」




「はい、乾きましたよ」とショール片手に笑う。


 歯に衣着せぬ物言いや気の強さが目立つが、基本的にセナは世話焼きなのだろう。自分のことは棚に上げて何かと他人のことばかりしてるように思う。


 香油の匂いのするショールを手から奪い、ベッドへ寝かせる。本人は眠くないと言うが横になるだけでも体は休まるのだ。


 毛布に包まった姿を確認してクロードはショール片手にセナの部屋を出た。


 自室へ戻り、アンディに渡して洗濯に出すよう言いつけ、書斎に入る。


 机に地図を広げて手紙と見比べながら被害者が発見された現場を頭に叩き込む。明日は下水に下りて調べてみよう。


 犯人に繋がる手掛かりが見つかると信じたいものだ。






* * * * *






 翌朝、起床を促す声にクロードは目を覚ました。


 厚いカーテンの隙間から明るい朝日が差し込み、室内を薄明るく照らす。


 気怠い腕を持ち上げて額に当てると、ベッドサイドにいたアランが濡らした布を手渡してくる。それは井戸水で冷えており顔に当てればヒンヤリと心地好い冷たさが睡魔を遠ざけた。


 顔に当てた布を外して上半身を起こす。




「旦那様、おはようございます」


「ああ」




 布が引き取られ、代わりに紅茶が出る。


 此方もアイスティーで一口飲むと体の中からじわりと冷える感覚がした。


 欠伸を噛み殺しながら新聞を受け取る。




「セナはどうだ?」


「ベティが一度部屋の扉をノックしましたが、まだ休んでいるようです」


「そうか。起きるまで寝かせておけ」


「畏まりました」




 心得ているとばかりに執事がより一層笑みを深くする。それが妙に落ち着かない。眉を顰めてクロードは新聞を広げた。


 アランは笑みをそのままに一礼して寝室を後にした。


 紙面に目を落とした視線で文字を追う。


 下水道で見付かった細切れ死体の事件は既に新聞記者に伝わっているらしく、その記事が書かれている。


 一般市民の恐怖を煽るような文章に自然とクロードは片眉が上がる。このような文章を載せては犯人を付け上がらせるだけだと呆れながらも最後まで目を通した。


 ……今日はイルフェスも連れて行こう。


 あれはセナに劣らぬ鼻の良さを持っているからな。


 暫くの後、アランとアルフがクロードの身支度のためにやって来た。


 洗顔と顔剃りを行い、外出の予定があるために外行きの服へ着替え、髪を整えたら食堂へ移動して朝食を摂る。


 つい視界の中にセナを探してしまうのは、この一年でついてしまった癖だ。


 朝食後にアルフへ「今日はイルフェスも連れて行く」と告げれば真面目な長男は「畏まりました。直ぐに伝えて参ります」と食堂を出て行った。


 アランと今日の予定を擦り合わせ、席を立つ。


 玄関ホールには既にアルフとイルフェスが待つ。初めて見る組み合わせだが髪の色が同じ茶で、歳の離れた兄弟に見えた。


 アルフはイルフェスにあれやこれやと注意を口にする。主人から勝手に離れない、現場の物は触らない、気になったことは主人へ報告する、危険だと感じたらアルフに言うなど様々だ。


 イルフェスは一つ一つに頷きながら返事をした。




「出掛けるぞ」




 話しかければ二人が振り返る。イルフェスの表情があからさまに明るくなる。セナを呼ぶ時もたまにそうだが、その様子は主人によく懐く犬を連想させた。


「いってらっしゃいませ」と見送る執事に屋敷を任せてアルフとイルフェスと共に馬車へ乗り込む。


 御者に目的地を告げ、場所が走り出した。


 上機嫌に座るイルフェスに不安が募る。




「良いか、アルフが言ったことは絶対に守れ。一つでも破った時は即刻屋敷へ帰すからな」


「はい!」




 ハキハキとした返事だけは一人前だった。


 隠し切れない好奇心と期待の浮かぶ大きな茶の瞳が輝いていた。




「今から行く場所の物には触るな。落ちている物や気になる物があったら私に言うように。先ほど注意されて分かっているだろうが出来る限り私達から離れるな。知らん人間にも寄るな」


「他の人にもですか?」


「ああ、現場にいるのは大抵は警官だが邪魔すると後が煩い。稀に犯人が様子を見に戻ってくることもある」


「分かりましたっ」




 頷くイルフェスを今はとりあえず信用しておくしかない。


 朝から疲れ気味になっている己に喉元まで上がった溜め息を飲み込んだ。


 屋敷から馬車で数十分の場所にある下水道の出入り口へ着くと御者が声をかけてくる。


 それに返事をして外に出ようとすれば、イルフェスが場所からヒョイと飛び降りた。高さがあるとは言え勢いをつける必要はない。


 そのヤンチャな姿に()()()()()という言葉を思い出した。当初の頃のセナもこうして馬車を降りていたし、一度階段の手摺を滑り降りてアランが類を見ないほど叱り付けたこともあった。その姿が頭に浮かんで思わず額に手を当てる。


 最近はそういった光景を目にしていないけれど、ただ単に自分見ていないだけで、イルフェスの前ではやっているのではないかとすら考えてしまう。


 やっと近侍が板に付いたのに。


 じゃじゃ馬なセナのことだ、どうせ自分の目を盗んで色々とやらかしているに違いない。


 そのうちイルフェスも飄々とした笑みを浮べて悪戯好きな子供のように人をからかってくるのでは……。嫌な未来を想像し、即座にそれを切り捨てた。冗談じゃない。




「セナの真似はあまりするな」


「?」




 一歩後ろを歩くイルフェスへ言えば、不思議そうに首を傾げて見上げてくる。


 何でもないと視線を外したが、背後で珍しくアルフの小さく吹き出す音がした。


 それを無視して掃除夫達が使う下水道の出入り口の蓋をアルフに開けるよう指示を出す。


 慌てて表情を引き締めたアルフが地面にある重い蓋を引っ張り上げて開けた。


 途端に感じる不快な臭気に口元を手で覆う。イルフェスも鼻を摘み、アルフは両手が塞がっていたため顔を顰めた。


 馬車に杖と帽子を置いてきたのは正解だった。特に杖はこんな臭いの下水がうっかり染みたら使えない。


 昼間でも暗い中は地下の下水道へ繋がっているので、壁に一定間隔で点在する出っ張りを足場に、地上から差し込む明かりを頼りに下りるしかない。


 悪臭と暗さに辟易しながら下りたらアルフが腰に吊るした小さなランプに火を灯す。


 最後に来たイルフェスは手が届く場所まで来るとアルフが抱え下ろした。一番下の出っ張りが欠けていたのでイルフェスには危ないと判断したのだろう。


 アルフが持ち直したランプを前方へ翳しながら地図を基に発見現場まで歩き始めた。一歩一歩進むごとに臭いは強烈さを増す気がした。


 死体を捨てるにしても、もっとまともな場所にして欲しいものだ。


「ねずみ!」というイルフェスの言葉と同時に、やや離れた位置から聞きたくもない鼠の声と足音が響く。


 ここ数日は雨も降っていない。


 お陰で下水の量は少なかった。


 生活用水が流れているのは下水道の中央で、左右は人が歩くために一段高くなっている。大雨でも降らない限り、そうそう此処まで水は上がって来ないのだけれど、汚水で濡れたくないので中央に近付かないに越したことはない。


 じっとりと肌に纏わり付く気持ちの悪い湿気が不快感を更に押し上げる下水道を進む。


 地図は頭の中にしっかり入っているので方向感覚さえ見失わなければ迷わないだろう。所々の壁に頭上を通っているであろう道の名前などが書かれているのも良い道標となり、クロード達は無事第一の死体発見現場に辿り着く。


 やや離れた場所に別の下水道へ繋がる排水口が見えるが、遠目に見てもそれは小さなもので、大人が出入りするには少々無理がありそうだ。


 一際酷い臭いのする場所でアルフがランプを掲げて周囲の床を照らし出した。


 遺体が放置された場所特有の生臭さと汚水の臭いのキツさは堪ったものではない。


 イルフェスは臭いに慣れてきたらしくキョロキョロと照らされる下水道内を見回している。


 クロードも汚水の流れる中央部分を覗き見た。濁り、汚れた水の通るそこはやはり汚れている。パッと見ただけではゴミと汚水が流れているようにしか感じられない。


 ……この中に入って調べた警官達には感謝せんとな。


 もし入れと言われても、クロードは絶対に首を縦に振らないだろう。


 特に事件と関係のありそうな物が見付からなかった三人は更に歩き出す。時折周りばかり見て遅れそうになるイルフェスの襟首をアルフが引っ掴みながら、狭い道のりと悪臭に頭が痛くなりそうだった。


 迷路にも似た内部は水音と鼠の鳴き声がする程度で、自分達の足音がいやに反響する。


 足元に気を付けながら歩いていたイルフェスが突然呻いた。




「うぇっ……」


「イルフェス?」




 振り返ってみると二、三歩離れたところに(うずくま)っている。


 すぐさまアルフが戻り小さな背を軽く撫でてやる。


 しかしイルフェスの体は微かに震えていた。




「こんな場所だし、やっぱ気分悪くなったか?」




 こんな臭いの中にずっといたせいかとアルフが問うも茶の頭が左右に振られる。


 何か言おうとしたのか開いた口は嘔吐(えず)くばかりで苦しげに閉じられてしまう。


 その姿に促すようアルフが背を叩き「我慢するな、吐け」と言えば、イルフェスが耐え切れずに胃の中のものを中央の流れる汚水へ吐き戻した。胃の中のものを全て出し切っても尚、小さく咳き込んだ。


 先ほどまでは平然としていたのに。


 何故吐き戻してしまったのかは分からないが地上(うえ)へ戻った方が良さそうだ。




「歩けそうか?」


「だ、いじょぶ……です」


「では一度上に――……」




 戻るぞ、と立ち上がりかけたアビの裾が引かれる。


 中途半端な体勢になりながらも見下ろせば、大きな瞳が涙混じりに見上げてくる。


 物言いたげなその目に、もう一度腰を落とした。



 

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