夢、二夜。
時折あれは何、これは何と質問をしてくるイルに答えていれば馬車が止まる。
暫しの間があった後、御者の「御到着です」という声と共に馬車の扉が開く。
イル、わたしの順に降りて、最後に主人である伯爵が出た。
伯爵の屋敷も十分広く大きいけれど、リディングストン侯爵家はそれを遥かに上回る敷地と屋敷を持つ。
建国当初から存在したといわれる名門貴族なのだから当たり前か。
本来はもっと広大な敷地を有していたそうだが土地を売り払って教会や孤児院、警察署を建てたり、憩いの広場や一般人が気軽に入れる大衆向けの劇場を設けたりと街の人々のために色々なことをしているうちに今の広さに落ち着いたという。
屋敷も絢爛豪華とは言い難いが、華美になり過ぎず気品溢れる佇まいだ。
それを見上げたイルが口を開け放して「うわあ……!」と歓声を上げる。初めてココを訪れた時はわたしも思わず声を上げてしまったので、その気持ちはとてもよく分かった。
屋敷を見上げていたイルの後頭部を伯爵がポンと叩いて「行くぞ」と促した。
観音開きの大きな玄関扉の前に立ってわたしがノッカーを叩く。
ライオンを模したノッカーをイルが輝いた目で見た。
「カッコイイ~っ、ボクもやりたい!」
「では、次回はイルに叩いてもらいましょうか」
「それは背が届かないんじゃないか?」
「……がんばって大きくなります……」
残念そうに返事をするイルの頭を撫でつつ伯爵より一歩下がれば目の前の扉のノブが回る。
一拍の間を置いて扉が開かれ、リディングストン家の執事が姿を現した。
伯爵とわたし達を見ると穏やかに微笑んで中へ招き入れてくれる。
そうしてすぐに傍にいた使用人へグロリア様とキースに来訪を伝えるよう声をかけた。
ホールから客間に案内され、伯爵はソファーに腰を下ろす。私とイルはその傍に立っていた。
程なくしてグロリア様とキースが客間に現れた。
「いらっしゃい、急な招待なのに来てくれて嬉しいわ」
「歓迎しますよ伯爵。セナもこの間ぶり」
二人の快い言葉に自然と笑みが浮かぶ。
だが横に居たイルは僅かに身を強張らせた。
伯爵以外の貴族に会うのはこれが初めてだし緊張しているのかもしれない。わたしの前では明るく活発的なイルだが、人見知りが消えた訳ではないので仕方がない。
小さな存在に気付いた二人にわたしはそっとイルの背を押して半歩前に出し、不安を和らげるためにその両肩に優しく手を添えて励ます。
伯爵がイルを手で示して「これが新しい使用人だ」と紹介した。
「初めまして、イルフェス・ハーパーといいますっ。よ、よろしくお願いいたします!」
緊張で若干上擦っていたものの、元気な挨拶にシャロン様がニコリと微笑んだ。
「初めまして、小さな使用人さん。私はグロリア・シャロン=アクスファルムですわ」
「俺はキース・エンバー=アクスファルム。よろしくな」
イルの頭をキースが少々乱暴なくらいに撫でる。せっかく整えた茶色の髪が大分乱れてしまったけれど、イルは嫌がる様子もなく照れた風に笑って「はい!」と返事をした。
わたしがイルの髪を手櫛で整えてやっている間にメイドが来て、テーブルにティーセットが置かれた。
本来であれば従者であるわたしとイルは立っているのが常識だけれど、グロリア様とキースに座るよう促されてしまう。
伯爵も「良いと言うのだから座れ」なんて言う始末で、イルは素直に頷いて伯爵の右隣に座った。
わたしは慣れてしまって正直立っている方が楽なのだが、誘われてしまった手前断れなくて、結局消去法でイルとは反対側――――つまり伯爵の左隣に腰掛けた。大きなソファーは三人で座っても余りあるほど広い。
グロリア様とキースがまず一口食べて見せ、次に伯爵が、それからわたしとイルがクッキーを摘まむ。サクサクとした食感と控えめな甘さが食べやすくて美味しい。
一枚食べたイルもそう思ったのだろう。
クッキーの皿をチラチラ見ては手を伸ばすべきか躊躇っている。
それに気付いたキースが「遠慮してないでもっと食べろって」と小皿に半分近く移し、その小皿ごとクッキーをイルの前へ置いた。
反射的に顔を上げたイルの戸惑い気味な目がこちらを窺うので頷き返した。
「せっかくですから頂きましょう」
食べて良いのだと分かったイルが笑顔になる。
「うん!」
「けれど帰ったらきちんと歯を磨きましょうね。綺麗にしておかないと痛くなってしまいますから」
「セナも歯磨きするの?」
「ええ。わたしだけでなく、他の皆も、もちろん伯爵も毎晩ちゃんと歯を磨いていらっしゃいますよ」
わたしの言葉に紅茶を飲んでいた伯爵が軽く咽て、グロリア様が鈴のような笑い声を上げた。
イルはイルで何故だか伯爵に尊敬の目を向けている。
ハンカチを渡すと伯爵はそれで口許を押さえたけれど、気管に入ったのか数回咳き込んだ。伯爵がジロリと此方を睨みながら「……くだらんことを」と掠れた声でぼやく。
歯磨きの習慣はわたしが伯爵に伝えたものだ。元々、布で磨く、歯の隙間の汚れを爪楊枝のようなもので取るといったことはしていたが歯磨きの重要性を語ったら伯爵は自分で馬の毛で作った歯ブラシを用意したので少なからず口内問題は気にしていたらしい。
馬の毛の歯ブラシはわたしも欲しいけれど値段が馬鹿にならないので諦めた。
代わりに丁寧に歯を拭いたりミントや塩を使ったりしてる。
歯医者の技術なんてなく、虫歯イコール抜くという恐ろしい治療は受けたくない。
クッキーを食べるイルから視線を正面へ戻せばキースも笑っていた。
「セナも相変らずだな~」
「それはお互い様ではございませんか? あなたも十分、貴族の子息らしくない振る舞いをなさっているかと」
「そうよ、キース。貴方は何れこの家を出る身とは言え、貴族の品格を持ちなさい」
「ええ? 無理言わないでくれよ、姉さん。俺は貴族の矜持だとか社交だとかはあんまり好きじゃないし、頭も良くないし、姉さんが当主になるんだから俺は多少緩くても問題ないだろ」
そうあっけらかんと言うキースにグロリア様は溜め息を零した。
伯爵がやっとハンカチを口許から外す。もう大丈夫らしい。
「キース。グロリアが当主になるとしても、もう少し‘それらしい振る舞い’は心掛けろ。お前をリディングストン家の嫡男として見る者もいまだ多い」
伯爵の言葉にキースがバツの悪そうな顔をする。
やはり幼い頃から付き合いがあるため、お互いに対して遠慮がない。
「うーん、まあ、善処はします」
肩を竦め、へらりと緩く笑うキースにグロリア様と伯爵が小さく息を吐いた。
キースのマイペースにはわたしも敵わないが、のらりくらりとしたこの感じは結構好きだ。
二人も諦めたのか紅茶を一口飲んでから話を軌道修正した。
「それで、この間の件についてなのだけれど……」
チラリとグロリア様がイルを見た。
この話をイルの前でするのは憚られると思ったようだ。
やっと新しい生活に慣れてきたのに、わざわざ哀しい記憶を引っ張り出す必要はないし、悪戯に恐怖心を思い出させることもするべきではない。
クッキーを食べているイルにキースが声をかける。
「なあ、庭でも見に行かないか?」
「?」
キョトンと焦げ茶の瞳が瞬く。
キースから目配せを受けて、わたしも乗った。
「リディングストン家の庭園はとても綺麗ですよ。一緒に見に行きません?」
「……うん、見てみたい! です!」
「よし、じゃあ三人で行こうぜ」
少し考えた後にイルが頷くとキースが立ち上がり、わたしもクッキーで汚れていたイルの手を拭いてやってから手を繋ぐ。
グロリア様と伯爵に断りを入れて三人で客間を後にした。
何度かリディングストン家にお邪魔しているけれど屋敷が伯爵のところよりも広いので、一人になったらまず間違いなく迷う。逸れないよう気をつけないと。
しっかり手を握り直すと嬉しそうにイルが笑う。その笑顔を見ているだけで心が安らぐ。
庭園に出ると、そこかしこで花が咲いているのが遠目にも見える。
ここの庭園は何時見ても溜め息が出るほど美しい。
イルに「花や植物を勝手に触らないこと」「遠くへ行かないこと」をしっかり伝えてから、手を離した。
一目散に花へ駆けて行く後ろ姿をキースと共にゆっくりと追いかける。
「キースは話を聞かなくて良かったんですか?」
さっそく綺麗に咲いている花の前でイルは座り込み、興味津々といった体で花の中を覗き込む。
先に言い含めたお蔭で手を出す様子はない。
「んー、伯爵からの報告書で大体知ってるし、セナだけじゃ屋敷ん中歩きづらいだろ? 細かいことや何か気になった時は姉さんに聞くよ」
「……ありがとうございます」
「別に感謝されることはしてないけどな」
ニッと笑みを浮べたキースはわたしの横を離れてイルの傍まで近付き、一緒になって花の中を覗き見る。
そうしてすぐに慌てた様子でイルを花から引き離した。
二人が花から離れると虫が一匹飛んで行った。
目で追いかければ、それは蜂だった。
「お前やんちゃなのは良いけど、危ないだろーが」
キースがイルの頭をやや乱暴に撫で回し、イルは「ごめんなさいっ」と楽しげに笑う。
その姿は少し年の離れた兄弟のようでそのまま庭園の奥へ入って行った。
穏やかとも言えるはずなのに酷く物悲しい気持ちになる。
何とも表現し難いこの感情は、きっと一生わたしの中に燻り続けるのだろう。仕方のないことだと割り切ってしまえば楽になれるのに、それが出来ない自分の面倒臭さが鬱陶しいことこの上ない。
「セナー!」
名前を呼ぶイルの声に意識を戻せば、手に小さな白い花を数本持って駆けて来る。花を手折ってしまったのかと思ったけれど、歩いて来るキースが何も言わないのでしっかり許可を得たのだろう。
息を切らせて戻ってきたイルがニッコリ笑って「屈んで!」と言う。
言われた通りに屈んだわたしの右側頭部に手を伸ばし、暫し触れた後、とても満足そうに数度頷いて庭園に戻るように走り去った。
それを屈んだまま見送ったわたしにキースが笑った。
「ははっ、似合ってるじゃん。それ」
「?」
「触ってみろよ」
言われるまま右側頭部に触れてみる。何か柔らかい感触が指先に触れた。
キースに視線を向けると愉快そうな笑みで「さっき持ってた花だよ」と応えた。
聞いてみればあの小さな花は庭師が植えた花ではなく、庭園の隅にひっそりと咲いていたものらしい。どこに生える名前も知らないような雑草の花だそうだ。
頭に花をつけるなんて十七年間生きてきて生まれて初めてだ。
慣れないものがあるとついつい外してしまいたい気持ちになるけれど、イルがせっかくつけてくれたものをすぐに取ってしまうのも何やら忍びなくて外せない。
傍にいたキースのニヤニヤとした笑みを無視して立ち上がる。
庭園を見渡せばイルは綺麗に整えられた木の裏に隠れて此方を覗っていた。手招きするとパッと出て来て半ば飛びつくようにわたしに抱き付いてくる。手にはまだ白い花を持っていた。
「セナかわいい!」
見上げて、そう言ってくるイルに「ありがとうございます」と返事を返した。イルはわたしの性別を正しく理解しているから良いのであって、普通は男の頭に花を挿して可愛いとは言わない。
「イル、男性は可愛いよりも格好良いの方が好きですので、わたし以外の男性に花を差し上げて可愛いと言ってはいけませんよ? もし言うとしたら、それは恋人だけです」
「はーい」
本当に分かっているのか、元気よく返事をするイルの頭を撫でているうちにふと悪戯心が湧く。
振り返ってわたしとイルのやり取りを見ていたキースを呼び、イルから花を一本もらう。それをキースの上着の釦部分に一つ差し込んでやった。
明るい色合いを好んで来ているキースの服に白い花は意外にも上手く溶け込み、よく似合う。
それを見たイルも「ボクにも!」と一本差し出してきた。
同じように胸ポケットに入れるだけでは芸がない。花で小さな花環を作り、それを細い手首にはめた。少々大きいかと思ったけれどピッタリだったようでイルは手首を飾るアクセサリーとなった花環を見て嬉しげに笑う。
「そろそろ戻ろうぜ。多分、もう話も終わってるだろ」
「ええ、そうしましょうか」
来た時と同じようにイルと手を繋いで屋敷内へ戻る。
余った花を持ちながらも、気に入ったのか腕の花環ばかり気にして外れていないか確認しており、そんなにイルに喜んでもらえるのは嬉しいが生花なので恐らく今日一日で萎れてしまうだろう。
帰ったら紙と重石になる物を借りて押し花にでもしようかと思う。
思い出としても残しておけるし、押し花にすれば枯れずに済む。
客間へ着くとやはり話は終わっており、伯爵とグロリア様がお茶を楽しみながらわたし達を待っていた。
戻って来たわたし達を見てグロリア様は柔らかな笑い声を上げた。
三人揃って庭園から花を付けて帰ってきたのがツボに入ったらしい。
「ふふ、皆よく似合ってるわ」
グロリア様はイルを手招いて、その手首の花環をしげしげと眺める。




