どれだけ過酷だったのかを
ここではない、どこか遠くを彼は見つめていた。
アーロンさんにとって、感慨深いことだらけなんだろう。
俺たちがここにいる意味を理解してるからこそ、これまでの軌跡を辿るように思い起こしているのかもしれないな。
「……なぁ、ハルト。
テレサのことを、憶えているか?」
呟くように発した言葉は、風にさらわれてしまいそうなほど小さく、たとえ聞こえていなくても"それでいいんだ"と言わんばかりの表情で、アーロンさんは空の彼方を見つめるように視線を向けていた。
「あぁ、薬師で薬屋も経営してるテレサさんだろ?
すごく良くしてもらった方のひとりだよ」
「……そうか。
そう思ってもらえるだけで、俺は嬉しいよ。
テレサもきっと……喜ぶだろうな……」
言葉を途切れさせたアーロンさんに、言いようのない不安を感じた。
……いや、この町に来る前から、もっと言えば世界中の人たちの記憶が巻き戻るような現象に見舞われていると知った時点から、俺はその可能性に気付いていた。
気付いていたのに、俺は考えないようにしたんだ。
これまで出会ってきた人たちの中で、どうしても引っかかる言い方をした女性のことを。
……そうだ。
彼女は……他の人とは違ったんだ。
彼女は言った。
"いい子に限って、先に逝っちまうもんさ"、と。
"見知った顔が来なくなるのは、さすがに堪えるよ"、とも言っていた。
……それはいつからだ?
いつから、繰り返しているんだ?
俺には分からない、俺は知らない。
知らず、考えず、考えようともせずにいた。
その答えを知る彼は言葉を紡ぐ。
優しく、とても悲しい言葉を。
「……テレサはな、ひと月も経たずに記憶を失う。
そのたびに失った若者を想い、悲しんでいるんだよ」
それを"呪い"と呼ばずに、なんて形容すればいいんだろうか。
その言葉以外にはない。
俺には、そうとしか思えない。
「……テレサさんは……忘れることもできずに……。
ひたすら、失った人を想って……悲しみの中を生きているのか……」
「……そんなのって……」
一条は言葉を途切れさせるが、俺も人のことは言えなかった。
いや、考えようと思えばいくらでもそこに気付けたはずだ。
世界の真実を知った瞬間から……気付けたはずなんだ。
言葉にならない俺たちへ、アーロンさんは静かに話を続けた。
それは、彼らの過ごしてきた日常がどれだけ過酷だったのかを痛感させられたような気がした。
「……そうだな。
でも、俺たちの周りじゃそれほど珍しくもないんだよ。
それがどれだけ異質でおぞましかろうと、俺たち以外には気づけない。
世界は常に正常を装いながら、狂ったように日常へと強制的に戻される。
……これが"呪い"じゃないとすれば、なんて言えば、いいんだろうな……」
アーロンさんの話に目を伏せるアイナさんとレイラ。
その気配は背後からもしっかりと感じられた。
……そう、だよな。
それが異質なことくらいは想像できても、実際にその身で体験してみなければ分からないものも多いはずだ。
俺は、そこに気付かないように目を逸らし続けていたのかもしれない。
一条も同じ気持ちみたいだ。
考え込むようにぽつりと呟いた言葉は、芯を捉えているようでその実、それしか俺たちには選択肢がないのだと改めさせられた。
「……魔王、倒さねぇとな……」
「……悪い。
そんなつもりじゃなかったんだが、どうしても言いたくなってな」
「あんたが謝ることじゃねぇよ。
俺たちは"勇者"だからな。
それが役目で、俺たちも望んでることだよ」
「……"俺たち"、か……」
空を見上げながら言葉にしたアーロンさんの表情はとても穏やかで、どこか救われたようにも見えた。
「……ありがとうな。
お前たちにすべてを託すことしかできないなんて情けない限りだが、それでも礼くらいは言わせてくれ……」
「言ったろ、"俺たちも望んでる"ってよ」
「そうだったな」
軽く笑うアーロンさん。
憲兵とは、とても多くの人たちと関係を持つ仕事だ。
それは町の巡回だけに限っての話じゃない。
街門を守護すると言えば聞こえはいい。
しかし、それだけ人の出入りを見守る仕事でもあるんだ。
小さくとも、たくさんの人たちと繋がることが多い彼が、想像もつかないほどの時間をこの町で過ごしてきた。
この世界には魔物がいる、人の命を蔑ろにする盗賊がいる。
たとえ魔物が弱く、王国騎士団が盗賊を捕縛してくれていたとしても、そのすべてを撲滅することなどできないだろう。
テレサさんとは違った形で、彼は失った人たちのことを忘れられずに記憶し続けている。
だからこそ、一条が訊ねてしまうのも仕方がないのかもしれない。
「……なぁ。
あんたはさ、どうして憲兵を続けられるんだ?」
……正直に言えば、俺も同じようなことを考えた。
俺には厳しすぎる大変な仕事でもあるが、何よりも人との別れは俺には耐えがたい苦痛にしか思えなかった。
アートスたちもそうだ。
俺との記憶がなくなっていたとしても、前向きに歩き続ける同世代の彼らがもしも帰らなかったらと思うと、俺は必ず後悔する。
あの時こうしていれば。
もっと俺自身が積極的に力を貸していれば。
もしかしたら違った未来になったんじゃないだろうか、と。
武術を何年も学んだところで、結果は変わらないこともある。
人は万能ではないし、剣術の達人でも一瞬の迷いが生死を分かつ。
護りたい人を庇ってこの世を去ることだって十分に考えられる。
冒険者なら好きにすればいい。
それこそ"自由"が約束されているんだ。
後悔はあっても、自分の未熟さが招いた結果と割り切れる人もいるだろう。
……なら、憲兵はどうなんだ?
それも彼のように記憶を失わない人は?
たとえ周りが忘れてしまっても、自分は憶えている。
その人がどんな性格で、どんな仲間を連れて、どんな仕事をしたのか。
会話がなかったとしても、目に映ればおおよそ理解できるはずだ。
俺には耐えられそうもない。
知り合いが帰らず、それでも世界は亡くなった人を忘れて動き続けるなんて。
「……真面目だな、お前らは。
まぁ、俺には"導き手"としての役目がある、なんてのは言い訳でな。
結局のところ、俺はただ、"カッコいい男"になりたかっただけなんだよ」
「……カッコいい男、か……。
……それは俺もよく分かる気がするな……。
ガキの頃からずっと憧れてるよ」
「だろ?
男ってのは馬鹿だからな。
一度はそういうもんに憧れるんだ。
きっかけなんて大したもんはないさ。
昔、憲兵のおっさんに良くしてもらった。
町を歩いて治安を護る男の背中が魅力的だった。
……そんなもんだよ」
ぶっきらぼうにも思える言葉とは裏腹に、彼の表情はどこか清々しく見えた。
それだけの理由で続けられるほど、彼が過ごしてきた歳月は軽くない。
出会いは少なく、別ればかりが強烈に目立っていたんじゃないだろうか。
今、こうして笑顔を作れるのが奇跡だと思えるほどに過酷な200年だったことは間違いないと、俺には思えてならなかった。




