いつかこうなる日が来ると
カーリナさんは俺たちを憶えていた。
つまり彼女は記憶を失っていない。
早ければ2週間、遅くても半年で記憶が戻る"呪い"の影響を受けていないのであれば、恐らくアイナさんたちと同じ状態で200年もの歳月を過ごしてきたんだ。
成立しない会話でも動き続ける、おぞましい世界を。
そしてそれは、彼女だけではないことを意味している。
そうでなければ3階の一室へ俺たちを導いたりはしない。
カーリナさんは目的の部屋の扉を軽くノックすると、室内からとても優しい声色の高齢男性が返事をした。
「入りなさい」
「失礼いたします」
かちゃりと静かに扉を開け、室内へと進む。
執務机で書類仕事をしていた男性は俺たちを見ると目を丸くし、ゆっくりと瞳を閉じて呟いた。
「……そうか……。
いつかこうなる日が来るとは思っていたが、想像とは少し違ったの」
「ハンネスのじいちゃん、久しぶりだな!」
「相変わらずじゃの、カナタ殿は」
嬉しそうに答えるハンネスさんとは違い、カーリナさんは強烈な悪感情を込めて一条へ訊ねた。
「……以前にもお伝えしましたが、その言葉遣いはいささか礼儀に欠けると思えてならないのですが?」
「んな怒るなよ。
親しみを込めて言ってるだけだって前にも言ったろ?
それと俺はあれから結構強くなったから、カーリナの威圧はもう効かねぇぞ!
残念だったな、ぶははは!」
ぶわりと悪感情がさらに膨れ上がり、今にも爆発しそうな形相で睨みつけるカーリナさん。
ここまで人を怒らせる一条もどうかと思うが、これほど彼女が怒りを見せる姿は見たことがなかった。
呆れる俺たちの横で今にも殴りかかりそうに拳を小刻みに震わせるカーリナさんに、ハンネスさんはなだめるような口調で優しく声をかけた。
「カーリナ、少し落ち着きなさい。
今こうして一堂に会することは、我らにとっては僥倖なのだからの」
「……わかり……ました……」
ものすごく不服ではあるが、ハンネスさんの願いであれば仕方がない。
そんな気持ちがはっきりと伝わる表情と気配で、彼女は渋々言葉にした。
こうなったのもすべて一条のせいなんだが、ここで口を出せば折角場を静めてくれたハンネスさんに失礼だ。
俺は話を変えるように彼へ訊ねた。
「やはり、記憶はあるのですね」
「うむ。
まぁ、話はそちらのソファーでしようかの」
ハンネスさんは立ち上がり、来客用のソファーへと向かう。
仕事が一段落するまで待つつもりだったんだが、表情から読み解かれたのか先に言われてしまった。
「かまわぬよ。
書類はもちろん、すべてに対して優先すべきことじゃからの」
……すべてに対して。
その言葉には重みを感じた。
ハンネスさんはどこまで知っているんだろうか。
「ふぅ。
ふかふかじゃのう。
さて、何から話したらよいものか……」
「おおよそは理解できました。
そう言った意味で"三月もすれば熱も冷める"とおっしゃったのですね」
「さすがじゃのう、ハルト殿は。
して、二度目のハールスはいかがじゃったかの?」
「"のんびりと町を歩かせていただきました"よ」
「そうか。
それならばワシも安堵できるの」
ハンネスさんは、とても嬉しそうな笑みを浮かべた。
もしかしなくても、ずっと俺のことを心配してくれていたんだな。
「……なぁ、じいちゃん。
"なるようになるじゃろ"って俺に言ってたけどさ、あれってつまり、魔王が何をしようとしていたのか知ってたってことじゃないのか?」
「……ふむ。
正確なところまでは分かっとらんかったよ。
確かめようのないことじゃからの」
「なら、なんであの時、俺たちに話さなかったんだ?
曖昧なものでも最悪の場合は"唯一の希望"を失いかけてた可能性に、じいちゃんなら気付いていたんだろ?」
そう思う気持ちも分からなくはない。
"闇の壁"に一条たちが到着したあの瞬間、俺が間に合わなかった未来だって十分に考えられた。
もしも俺がパルムで時間を費やしていたらと思うと血の気が引く。
仮定の話はしないほうがいいと理解してるつもりだが、それでも考えてしまう。
最悪の状況を。
そうなればこの世界は完全に崩壊し、すべての人々の魂も消滅していた。
俺たちも大罪を背負いながら、日本での生活を余儀なくされていただろう。
同時に俺は、流派継承者としての資格を失う。
人々の命を救えなかった俺がいったい何を教えるのか。
たとえそれを隠そうとしても父の目はごまかせないし、何よりも俺自身が指導する道を選ばずに別の道を進んでいくはずだ。
どこで転ぶかも分からない危険な状況下で、それでも俺たちに情報を明かさなかった理由は想像がつく。
しかし、一条の言うことも分からなくはない。
それを彼の言葉で直接聞きたい気持ちも強かった。
「カナタ殿は、この世界をどう見るかの?」
「……え、なんだよ、急に……」
「今すぐにでもカナタ殿のいた世界へ戻りたいと強く思うかの?」
「そんなわけねぇよ。
この世界は俺が憧れ続けた場所にすごく似てるんだ。
むしろ俺はこの世界で一生を終えてもいいとすら思ってるぞ」
「……それは、この世界の住人として、とても嬉しい言葉じゃのう……」
「嫁もふたりいるしな!」
一条の横から、ふたつも深いため息がつかれた。
呆れた様子で見つめるアイナさんとレイラに気付かずに笑う一条に、俺は強い疲労感を覚えた。




