紅眼の来訪者
「澄幻国将軍、島津葵仁。この場の不正──確と見届けた。……貴様らの悪行、ここで終いだ」
その名が響いた瞬間、場の空気が一変した。
先程まで下卑た笑みを浮かべていた者たちが、途端に顔を引きつらせる。
「し、将軍だと!?」
「聞いとらんぞ、なんで将軍がここに!?」
「菅原殿!貴様、謀ったのか!」
半仮面で素性を隠していた貴族たちは一斉にざわめき、狼狽したように菊堂を責め立てる。
だが、菊堂とて予期せぬ事態だった。脂ぎった顔に汗をびっしりと浮かべ、首を激しく横に振る。
「し、知らん!わしゃ知らんのだ!信じてくれ!」
だが、将軍が現場を押さえた以上、もはや逃げ場はない。
「わ、わしは菅原殿に“面白い催し”があると聞いて来ただけで!このようなものとは露ほども──!」
「私もだ!嵌められたのだ、誤解だ!」
次々と責任を菊堂へ押し付ける貴族たち。
先ほどまで女たちを玩具のように扱っていた者たちが、今度は命乞いを始める。
その光景に、ティアの胸に怒りがこみ上げた。
──どいつもこいつも、吐き気がするほど醜い。
「かっかっか!何を勘違いしとるんか。俺がここへ来たのは、菅原菊堂が“城を建て替える”と聞いたからよ。祝いの一つでも持ってきてやろうと思うたんじゃ」
葵仁は豪快に笑いながら言い放ち──次の瞬間、声の調子が低く落ちた。
「けど、来てみりゃこの有様よ。自郡の民を金儲けの道具に使い、挙げ句には禁じたはずの人身供犠まで企ておったとはな」
葵仁の視線が鋭く光る。声に圧がこもり、地を這うような威圧感が走った。
「妓楼への身売り以外の人身売買は禁止──その触れ、俺が将軍になった時に出したはずやけどな。……知らんかったとは言わせんぞ。知っていてここに居る、それが答えってことやろ?」
「ひ、ひぃっ……!」
「わ、わたしらは──!」
貴族たちは青ざめ、なおも言い訳を繰り返そうとする。
「御託は聞き飽きた。俺は見たまましか信じん。面つけて女を選ぶ下種ども……ずいぶんと楽しそうじゃなかったか?」
その一言に、貴族たちは一斉に逃げ出した。
──だが。
「逃げる暇はやらん。」
葵仁はゆっくりと右手を掲げ、静かに言葉を紡ぐ。
「この俺から逃げられると思うなよ。この地の“時”は──俺が握っとる。時揺。」
指先がひと振りされると同時に、足元に淡い金色の文様が浮かび上がる。
それは波紋のように広がり、空気そのものを震わせた。
風が止み、砂埃が宙に浮いたまま凍り付く。
声は歪み、音は遅れて響く。世界がゆっくりと、葵仁の掌の中に沈んでいく。
逃げようとした貴族たちの足が、まるで夢の中でもがくように鈍くなる。
一歩を踏み出した足が重く、時間そのものに絡め取られたように動かない。
「半蔵、奴らを一人残らず捕らえろ。千代女は女たちを保護しろ」
葵仁が空を見上げてそう告げると、影がふたつ、音もなく揺れた。
黒装束の男女――服部半蔵と望月千代女がどこからともなく姿を現し、片膝をついて一礼。次の瞬間には音もなく広場の闇へと散った。
動きは疾く、正確無比。命令を終えた葵仁は、静かに吐息をひとつこぼした。
「あははっ。相変わらず将軍様の魔法はえげつなかねぇ。……ほら、見てよあの顔。動けんまんま、どいつも醜いなぁ」
丞之助は余裕の笑みを浮かべ、まるで見世物でも眺めるように凍りついた貴族たちを見下ろした。
「貴様も……その魔法耐性は相変わらずか」
葵仁が横目で言うと、丞之助は肩を竦めて笑う。
「魔法が使えん分、鍛えただけですよ」
「はっ。使えんとは言え、剣技は澄幻国随一の剣士──稲垣龍真に匹敵するほど。現“澄幻の三剣士”の一人に名を連ねる貴様とは、できれば刃を交えたかぁなかったんやけどな」
葵仁の声音には、わずかに呆れと皮肉が混ざっていた。
丞之助は愉快そうに口角を上げる。
「私もごめんですよ。天下の将軍様に勝てるわけもなかですし。言いましたろ?此度のことは親父殿が勝手にやったこと。……私は、さっき知ったばかりですたい」
軽口に聞こえるが、その言葉の端々に嘘は感じられない。
葵仁もまた、その洞の深い眼で男を一瞥した。
「俺の情報じゃ、放蕩息子の丞之助は夜華郡に入り浸って遊び呆けとるって聞いとったが?」
面倒くさそうに言う葵仁に、丞之助は静かに笑った。
「昨夜までは花街の楼で飲んでましたからね。間違いじゃあなかですよ。ただ──親父殿が“また何か面白いことを仕掛ける”と聞きましてね」
ふと、丞之助は視線を空に向けた。
柔らかく笑いながらも、その瞳は一片の温度もなかった。
「数年前、巫女様にお灸を据えられたばかりでしょう?一人息子としては、また父がやらかさんか心配でね。」
――だが、その口ぶりに“心配”の色は微塵もなかった。
その笑みの裏には、底の見えぬ闇がちらつく。
ティアは思わず背筋を正し、無意識に距離を取った。
「それに、私はこの娘を逃がそうとしとったんですよ。……完全に無実です」
そう言いながら、丞之助は軽々しくティアの肩を抱き寄せた。
葵仁が眉をひそめる前に、ティアがぴしゃりと言い返した。
「わたくしに気安く触らないで。他の娘たちが泣いて縋り、望まず買われるのを傍観していたくせに──よく言えますわね。」
ティアは令嬢然とした鋭い目つきで丞之助を睨み、肩にかけられた腕を強く振り払った。
その瞬間、空気がひび割れたような音を立てる。
……彼女が、動いたのだ。
時間の揺りかごに閉ざされたはずの空間で。
止まった砂埃の中、ティアの言動は制限されることなく動いた。
葵仁と丞之助、ふたりの男の目が見開かれる。
「あんた……この空間で動けるんか」
葵仁の低い声が響いた。
ティアはしまったと思ったが、もう遅い。
時間の理を歪ませる葵仁の結界内で動けるなど、常識ではありえない。
丞之助の口元が、ゆっくりと笑みに歪んだ。
「……これは、ますます面白くなってきたな」
丞之助は口角を上げながら小さく呟くと、懲りもせずティアの腰へと手を回し、強引に引き寄せた。
何度振り払ってもまとわりつくその手に、ティアのこめかみがぴくりと跳ねた。
「将軍様はお忙しいでしょう?この娘の身の振り方は私が引き受けます。将軍様はどうぞ、物取りの続きでもなさってください」
にやりと笑いながら、丞之助はティアを連れてその場を離れようとする。
ティアが腕を振りほどこうとも、男の握力は鉄のように強く、びくともしない。
怒りと羞恥と恐怖が胸の中でせめぎ合い、ティアの指先が震えた。
──その時。
別の手が、ティアの手首を掴んだ。
「その娘、嫌がっているようだが?」
低く響く声。
ティアが顔を上げると、そこには葵仁がいた。
鋭い眼光が、丞之助の手元を真っ直ぐに射抜く。
「ははは、将軍様。怖がっているだけですよ。私も連中の一味と思われとったみたいですしね。誤解が解ければ──」
「黙れ」
葵仁の短い一言が、空気を裂いた。
丞之助の言葉がその場で凍りつく。
「この娘は俺が預かる。先程の騒ぎを起こしたのは彼女だろう?もし“他国の令嬢”というのが事実なら、丁重に扱わねばならん。……それに、どうにも気になることがある」
そう言って、葵仁はティアの手首を少しだけ強く握り直した。
その掌から伝わる熱に、ティアの心臓が跳ねる。
彼の目が、真っ直ぐに彼女を見据えていた。
怒気も敵意もない。ただ、鋭い洞察と静かな圧。
何かを見抜かれるよなそんな感覚があった。
蛇に睨まれた蛙のように、息が詰まる。
だが同時に、不思議な安心感もあった。
その視線の奥には、怒りでも欲でもない、“守る者の覚悟”のようなものがあった。
突如、ティアの耳元で第三者の声がした。
その声には妙な艶と、底知れぬ響きがあった。
「丞之助を媒体に、ずっと傍観していたけれど……将軍である君に、この子を連れて行かれるのは、少々困るんだよね。」
その瞬間、丞之助の影が歪み、闇が滲み出るように揺らめいた。
そこから現れたのは、漆黒の長髪を持ち、紅の瞳に妖しい紋様を宿す男──ラズフェルド。
その姿はあまりにも美しく、人の形をしていながらも“人ではない”と誰もが直感するほどだった。
ただ立っているだけで、空気が震え、周囲の光さえ歪む。
葵仁はその気配を感じ取るや否や、ティアから手を離し、即座に距離を取った。
わずかに遅れて、ラズフェルドの紅い瞳が細められる。
「賢明だね。……あと二秒、彼女の手を離すのが遅かったら──君の腕、切り落としていたところだった」
その声音は穏やかでありながら、底に凍てつく殺意を孕んでいた。
葵仁の眉間に皺が寄る。
「貴様……何者だ。丞之助、きさん──鬼と手を組んどるんかッ!」
「葵仁様!お下がりください!」
瞬時に葵仁の前へと跳び出したのは、服部半蔵と望月千代女だった。
ふたりは同時に印を切り、周囲に警戒結界を張る。
空気が一瞬にして張り詰め、ラズフェルドの髪がふわりと風を孕んだ。
「手を組んだ、ねぇ……その表現は少し違うかな。」
丞之助は肩を竦めて微笑む。
「彼は私の“友人”ですよ。……昔からの」
ラズフェルドが、くすりと愉快そうに笑った。
「そうそう。丞之助には“友人”として、色々と力を貸してもらってるんだ。彼は実に、人間らしい──欲と矛盾の塊でね。見ていて飽きないんだよ」
その笑みは、炎のように妖しく、美しく、そして恐ろしかった。
周囲の空気が、まるで沸騰するように震える。
「その娘はなんだ!お前たちの仲間なのか!」
葵仁の怒声が広場に響いた。
ティアもまた、目まぐるしく変わる状況に思考が追いつかずにいたが、すぐに首を横に振る。
「ちがっ、私は──」
「この子は、僕の大切な子だよ。」
ラズフェルドが柔らかく言葉を挟む。
次の瞬間、丞之助の腕からティアを引き剥がすように抱き寄せた。
腰を掴み、体を正面から密着させ、彼女の顎をそっと指先で持ち上げる。
「全く……せっかく綺麗な髪にこんなことをして。傷んだらどうするんだい?君はもっと、自分を大切にしなくちゃ。──これからは僕が、嫌って言うほど甘やかしてあげる」
その声は、甘く優しく、耳の奥を溶かすようだった。
放たれる一言一言が、媚薬のように意識を侵食していく。
紅い瞳が細まり、まるで心の奥を覗き込むようにティアを見つめる。
──動けない。
魔法でも、力でもない。
ただ、その瞳に見入られて、視線を逸らすことすらできなかった。
思考が霞み、心臓の音だけがやけに大きく響く。
ラズフェルドの指先が耳をなぞり、柔らかく髪を撫で上げる。
手が後頭部へと滑り、彼の顔が静かに近づいた。
そして──。
唇が触れた。
熱と共に、思考がぷつりと途切れる。
世界が遠のき、音が消え、すべてが白く溶けていく。
ラズフェルドが唇を離したとき、ティアの体はふっと力を失い、彼の腕の中に崩れ落ちた。
その髪は、もう黒ではなかった。
月光のように淡く輝く──本来の銀色へと戻っていた。
「その髪色──もしかして、翠琴……」
「違うよ」
短く、しかし確信に満ちた声だった。
「その娘も、翠琴と同じ“白の種族”なのか?お前たちは……何なんだ!」
葵仁の声には、困惑と警戒が入り混じっていた。
だがラズフェルドは、彼に視線を向けることすらしない。
ただ、腕の中で静かに眠るティアの頬を、壊れ物に触れるように指先でなぞった。
「君たち人間は……この子たちを種族という枠でしか見ない。けれど、僕たちにとってはそんなもの、どうでもいいんだ。僕にとってのこの子が、朧雅にとっての翠琴が、白の末裔だったというだけの話さ」
その声音は穏やかで、しかしどこか氷のように冷たかった。
葵仁の眉間に皺が寄る。
「……どういう、ことだ」
「人間ごときに、僕らの理を理解してもらおうなんて思ってないよ」
ラズフェルドの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「やっと──ティアを手に入れたんだ。だから、僕たちはそろそろお暇させてもらう」
そう言った瞬間、ラズフェルドとティア、そして丞之助の足元に黒い靄が滲み出した。
それは見る間に濃くなり、渦を巻くように三人を包み込む。
「待て!!!」
葵仁の叫びが広場に響く。
しかし靄は音を飲み込み、空気ごと空間を裂くように掻き消えた。
次の瞬間、そこにはもう──誰の姿もなかった。




