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柳に風

 微かな涼風が障子の隙間から忍び込み、袖口をそっと揺らした。

 肘掛けに預けた腕がじんわりと痺れ、翠琴はゆるく首を持ち上げる。


「ふふっ」


 とある座敷の一室。香の淡い薫りが漂う中、翠琴は笑いながらゆっくりと上体を起こした。

 窓辺近くに控えていたラズフェルドが、様子をうかがうように問いかける。


「あの子には……会えたかい?」

「うん、ちゃんと会ってきたよ」


 翠琴は、袖で口元を隠しながら愉しそうに目を細める。


「彼女の過去を覗くつもりだったんだけど、精神が繋がっちゃってね。おかげで私の過去も少し見られちゃった」


 その声音には、困惑よりも面白がる響きがあった。


「翠琴様、精神への干渉は危険を伴います」


 隣に立つ朧雅が、低くも鋭い声音で諫める。


「ですから、場所の特定だけにしろと、あれほど──」

「あーはいはい」


 と、翠琴は手をひらひらと振った。


「もうやっちゃったんだから仕方ないでしょ。それより……朧雅、みんなを呼んできてくれる?」


 有無を言わせぬ調子に、朧雅は一瞬だけ険しい目を向けたが、言葉を飲み込み、代わりに溜息をひとつ漏らす。そして無造作にラズフェルドの襟を掴み、部屋の外へ向かおうとする。


「え?僕も?」

「当たり前だろ。お前と翠琴様を二人きりにしておけるか」

「あっはは。心配しなくても、君の大事な子をとって食ったりしないよ」


 ラズフェルドはにやりと笑い、からかうように目を細めた。


「あ、それとも……翠琴っちが僕に惚れちゃうかもって心配してる?」


 次の瞬間、朧雅の瞳が紅く光り、瞳の中に紋様が浮かび上がる。


「変な呼び方をするな!それに、翠琴様が貴様なんぞに惚れるわけが無いだろうッ」

「えー?分かんないよー?だってほら、僕たち仲良しだし」

「万が一にもあり得ん。だが……億が一にもそのような事態になったら──」


 朧雅は低く、しかし刃のように鋭い声で告げた。


「貴様を消す。そして翠琴様の記憶からも貴様の存在を消す」


 その言葉に、ラズフェルドは目を瞬き、そして大きく笑い声を上げた。


「あはははは!あのロウガが冗談を言えるなんてね。……記憶操作は、僕ら高位魔族でも成功率の低い魔法だよ?下手に弄れば、相手は廃人になる可能性が高い」

「それでもだ」


 朧雅は一歩、ラズフェルドに迫る。


「貴様ごときに翠琴様を渡すくらいなら──廃人になった翠琴様を、一生俺が護り、世話していく」


 その眼差しは、炎のように燃え、氷のように冷えていた。

 冗談でも虚勢でもない。本気の殺気が、肌を刺す。


「朧雅。ラズフェルドとは私も話があるの。……構わないから、行って」

「なっ──翠琴様!いけません!」

「彼が私に手を出すことは出来ないわ。忌々しい、この紋様が私に刻まれている限りね」


 翠琴はゆるりと袖を捲り上げた。

 現れたのは、墨色の蔓が肌を這うような刺青の紋様。それは腕だけではなく、顔へ、背へ──全身へと広がっている。


「この束縛呪がある限り、私はこの国から出られない。……同時に、誰も私を害することは出来ない。忌まわしいけれど、これは護りでもあるの」


 指先に力がこもり、爪が肌を食むほど握りしめる。

 翠琴の瞳には、深い憎悪と諦念が、静かに揺れていた。


「へぇ……それが魔法じゃない、この国特有の呪術ってやつか。……面白い。どういう仕組みか、ちょっと確かめたくなるなァ」


 ラズフェルドの口元が愉悦に歪む。次の瞬間、軽く片手を掲げ魔法が放たれた。


「貴様、何を──!」


 朧雅の声が届くより早く、光弾が一直線に翠琴へ迫る。

 だが、彼女はまるで石像のように動かず、ただ正面からそれを見据えた。


 魔法は翠琴の眼前で溶けるように消えた。そして、倍以上の威力と質量を纏い、轟音と共にラズフェルドへと叩き返された。


「ははっ……詠唱も魔力も要らないとか……チート過ぎでしょ」


 反射された光弾に、ラズフェルドの長い髪が大きく舞う。

 彼は笑みを崩さぬまま、その手のひらで攻撃を受け止め、握り潰した。


「確かに……これじゃ、翠琴ちゃんに手出しするのは無理かな。下手をすれば、僕が殺されそうだ」


 笑顔は軽やかだが、瞳だけが冷たく細められている。


「朧雅、見たでしょう。私なら大丈夫。だから──早くみんなを呼んで、集会の準備をしてきて」

「……分かり、ました」


 朧雅はなおも渋い顔でラズフェルドを一睨みし、足音も固く部屋をあとにした。

 残された空間には、束縛呪の紋様がわずかに揺らめくような気配と、二人の静かな火花だけが残っていた。


「あまり、朧雅をからかわないでくれる?」


 翠琴は、息をひとつ吐きながら低く言った。その吐息は、苛立ちを押し殺した証のように冷えていた。


「だって、彼の反応が面白くて。つい、ね」

「朧雅は私のものなの。彼を困らせていいのは、私だけよ」


 翠琴の瞳が鋭く細まり、先程までの柔らかい表情は影も形もない。刃のような視線がラズフェルドを射抜く。その空気は、真冬の夜気より冷たい。


 ラズフェルドは、わざとらしく両手を広げて肩をすくめた。やれやれ、とでも言いたげな仕草。

 そしてゆっくりと翠琴の間合いへ踏み込み、顔を耳元へ近づける。


「……あまり図に乗るなよ、小娘」


 低く、湿った声が響く。直後、背筋を氷柱で撫でられたような殺気が肌を這った。

 翠琴にかけられた呪術が、主の危機に反応し自動で光を弾く。

 しかし放たれた魔法は、ラズフェルドに届く前に、軽く身をひねっただけでかわされる。


「呪術に護られてるとはいえ、殺す方法が無いわけじゃない」


 そう言いながら、彼はあっさりと間合いを離れ、何事もなかったかのように笑みを戻す。


「僕は君とは良き友人でいたいんだ。それに、僕たちは人間が嫌いじゃないから君たちの話に乗っただけで、君の下についたわけじゃないことだけは覚えておいてね」


 その声色は穏やかだが、言葉の棘は残る。


「とはいえ、確かに自分のものを他人にどうこうされるのは気分が良くないな」


 顎に手を添え、ふむ、と一つ頷く。

 そして再び、翠琴の前に歩み寄った。


「僕が悪かったよ。はい、仲直りの握手~」


 膝を折り、蹲踞の姿勢で右手を差し出す。翠琴の手を取ると、そのまま軽く握る。


「もう、いいから。離して」


 翠琴は半ば呆れたように息を吐き、振り払うように手を放した。しっしっ、と追い払うように。


「ところでさ。翠琴ちゃんは、あのロウガをどうやって手懐けたの?」


 手を払われたことなど意にも介さず、ラズフェルドは軽い調子で言う。

 しかし、その瞳には微かな探る色が滲んでいた。


「魔界じゃ“狂犬”と恐れられたロウガが、誰かの下に着くだけじゃなく、あんなに丸くなっちゃうなんて。君が小さい頃は主従関係ではなかったはずだよね?むしろ……君がロウガに付き纏って、彼が君を飼っているように見えたくらいだ」


 柔らかい笑顔。けれど、その奥が読めない。好奇心か、警戒か、それとも試すような意図か。

 翠琴はじっとその顔を見つめたが、探りたい真意は、薄い霧の向こうに隠されたままだった。


「彼が変わったのは……その紋様が原因かな?」


 微笑む唇。けれど瞳の奥は、笑みの形を拒む氷を秘めていた。


「そう。ラズフェルドの言う通りよ。この紋様を刻まれた日から、彼は変わったの。一生を私に捧げる、と──そう言ってくれたわ」


 翠琴の指先が紋様をなぞり、優しく撫でる。

 だがその動きは次第に爪を立て、皮膚を紋様に沿って引き裂く軌跡へと変わる。

 唇は、血が滲むほどに噛み締められていた。


「……私を殺せるって、言ったわよね?いいわ、殺して。そうすれば──朧雅は私という呪縛から解き放たれて、自由になれる。でもね、私は性格が悪いの。自分から朧雅を手放してやる気なんてない。私が生きている限り、彼を縛り続ける。奪う者が現れたら、その者を殺してでも……朧雅は、私のものよ」


 その声音は凪いでいたが、瞳の奥には波打つ執念が潜んでいた。

 ラズフェルドの口角がゆるりと吊り上がり、やがて耐えきれないとばかりに腹を抱えて笑い声をあげる。


「くっ、はははは!やっぱりいいね!僕、翠琴ちゃんのそういうところ……好きだなァ」


 深紅の瞳が、玩具を得た子どものように愉しげに揺れた。


「翠琴ちゃんに縛られるロウガを見てるの、面白くて好きだよ。他の奴らが君たちをどう思っているのか、どう見てるのかは知らないけどね」

「ゼルヴァンには嫌われてるよ。会うたびに目を釣り上げて、こーんな顔で睨んでくるんだもの」


 翠琴は両手の人差し指で目尻を引き上げ、眉を寄せ、鋭い目つきを作ってみせた。


「ぶはははは!そっくり!最高!──ゼルヴァンとロウガは特に仲が良かったからね。……けど、あれは君を嫌っているというより、君とロウガの関係を観察しているんだろうね」

「観察?」

「そう。僕もゼルヴァンも、人間について知りたいだけなんだ。魔王様や、君の父でありロウガの兄だった、ロウエイさん。そして、あの人が人間に魅了された理由をね」

「知ってどうするの?彼らは愛する人を見つけた。ただそれだけのことでしょ?それに、貴方たちは人間と魔族を区別するけど……私から見れば、貴方たち魔族も同じ人間よ。同じ人間だから、心を寄せ合い、惹かれ合うんでしょ?」


 翠琴の声は柔らかく、しかしその裏には、確信にも似た響きが宿っていた。


「その“愛”ってものが、僕らには分からないんだよ」


 ラズフェルドは淡々と告げた。


「極稀に伴侶と生涯を共にする者もいるけど、大抵の魔族は生殖本能で子孫を残すだけ。それも、他の種族よりかなり長命だから生殖本能も薄く、長い時間を紛らわせるための退屈しのぎや娯楽に対する欲求の方が強い」


 翠琴は、その言葉の意味を理解できた気がした。

 何千年という永遠にも似た時を生きる魔族。

 それに比べれば、長命とされるドワーフやエルフでさえ寿命は数百年から千年ほど。

 ヒト族に至っては、多くが百年と生きられない。


 だからこそ、世界の六割はヒト族が占めている。

 短く儚い命であるがゆえに、清く美しく正しく生きようとする者がいる一方、意地汚く、ずる賢く、悪どく振る舞う者もまた多い。


 その中でも、最も美しいと感じるのは──“情”だ。

 「愛情」「友情」「慕情」「恋情」「人情」。

 人間は情に溢れ、その感情は時に鮮烈で、時に痛ましいほど純粋だ。


 魔族は長い時の中で、他人に心を奪われることは稀だ。

 彼らは常に自分を中心に世界を見据え、退屈を払うために争いを好み、他者を虐げ、蹂躙する──そんな残虐さを抱えて生きている。


「人と、他人と接することで、貴方たちにも見えてくると思うわ」


 翠琴はゆっくりと、相手の目を逃さずに言った。


「人間のことを知りたい──そう思ったから、貴方たちは朧雅の元を訪れ、そして私に会いに来たのでしょう?」


 柔らかな微笑みが、その言葉に添えられた。挑発ではない。押しつけでもない。ただ、相手の中にある答えを、静かに待つような微笑だった。


「どう?世界を巡って、少しは“情”ってものが分かったかしら?」


 ラズフェルドはわずかに目を伏せ、緩やかに首を振った。


「いや。ただ……人間は見ていて飽きない。愚かだと思うし、無意味とも思える努力をする姿は滑稽にも映るが──何故か気になるんだ」


 その声音には、わずかな戸惑いと興味が入り混じっていた。自覚していない感情が、言葉の端々から滲み出ている。


「そう思うのは、相手に興味があるからじゃない?」


 翠琴は、からかうような笑みを浮かべた。


「それに……ティア?レティシア?や、彼女の仲間たちの話をしている時の貴方、とても楽しそうだったわ」

「そうだね。特に彼等は見ていて飽きない。常に他人のことを考えていて、他人のために限界を超えた力を発揮する。初めは、ただあの人の指示で仕方なく来た現世だったけど……」


 ラズフェルドは小さく笑い、視線を遠くにやった。


「うん。何だかんだ楽しくて、この世界が気に入ったよ」

「気に入ってくれて良かったわ」


 翠琴は少しだけ目を細めたが、その次の言葉は冷たく落ちる。


「──だけど、私はこの世界が大っ嫌い。だから、この世界を変えるわ。そのためには、彼女と貴方たち魔族の力が必要なの。彼等も、貴方のようにこの世界を気に入ってくれていたらいいんだけど……」


 心配そうな色を滲ませた翠琴に、ラズフェルドは淡々と告げた。


「心配ないさ。僕や朧雅が声をかけた者たちは、君の理想に賛同した者ばかりだ。人間側でも魔王側でもない、新勢力──大昔、闇に消えた思想を受け継ぐ者たちだよ」

「ふふ。恐らく、やり方は全然違うけどね。初代は犠牲を嫌った。だから実現しなかった。今度は失敗させない。多少の犠牲はつきものだと……割り切らなくちゃ」


 翠琴は人差し指を口元に添え、唇の端を吊り上げる。

 その笑みは甘くも、どこか底冷えするものだった。


「そろそろ、みんなも集まる頃かな」

「そうね。真面目な話はここまでにしましょ」


 ラズフェルドの言葉に、翠琴はパン、と軽く手を叩いた。

 張り詰めていた空気が霧のように散っていく。


「それより、朧雅が言った言葉、覚えてる!?“一生俺が護り、世話していく”ですって!はぁん、一生お世話されたい……彼がそばに居てくれるなら、廃人になってもいいかもぉ」


 恍惚とした声で言う翠琴に、ラズフェルドは引き笑いを漏らす。


「……あいかわらずだね、君は」

「翠琴様。準備が整いましてございます」


 ちょうどその時、障子の外から落ち着いた声が響いた。

 スッと開かれた障子の向こうに、朧雅が姿を現した。

 その眼差しは、二人の間にあった軽口を切り裂くように真っ直ぐだった。

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