帰る場所
いつの間にか夕陽は落ち、辺りは夜の帳に包まれていた。
「──そろそろ戻ろうか」
ジークハルトが静かに言い、御者に戻るよう指示を出す。馬車が動き出し、揺れる車内にはしばし沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのはジークハルトだった。
「ドワーフ国の復興に力を貸したい気持ちはある。だが、魔族が動いていると分かった今、一刻も早く国へ戻り、報告しなければならない」
帰国の準備などで、あと三日はこの地に滞在するという。そして──
「君が商隊を離れると決めたら、いつでも来てくれて構わない」
ジークハルトは真っ直ぐティアを見て、そう告げた。
その言葉が胸に染み入るのを感じながら、気付けば馬車は病院の前に到着していた。
馬車が止まり、ジークハルトが先に降りる。続けてティアも外へ出ると、ジークハルトが自然に手を差し出した。
乗り込むときには戸惑いと緊張があった。しかし今は違う。ティアはその手を素直に取り、エスコートを受け入れた。
そしてちょうどその時、病院の入口から声が響いた。
「ティア!」
顔を向けると、エリー、ノア、ルゥナがティアの帰りを心配して外で待っていた。
夜風に髪を揺らしながら、不安そうにこちらを見つめている。
そして──その傍らには、見慣れた二人の姿があった。
「……カイ!レイ!」
声が震えた。けれど、涙が込み上げるのを止められなかった。
「治ったのね……!」
駆け出そうとしたティアに、隣のジークハルトがやわらかく声をかける。
「見たところ後遺症もないようだね。良かったじゃないか」
その一言に、ティアは双眸に涙を滲ませ、ジークハルトへ深く頭を下げた。
「……彼らを治してくださり、本当に……ありがとうございます」
顔を上げると、瞳から涙が一筋、頬を伝った。
「殿下のおかげです……!」
それは、初めてジークハルトに向けて見せた、安堵と感謝が混じる心からの笑顔だった。
ジークハルトは一瞬、瞠目した。
──こんな顔をする子だったんだな……
すぐに柔らかく微笑むと、指先でそっとティアの涙を拭い、ポンと頭を撫でた。
「君の笑顔が見られて……私も嬉しいよ」
温かな手のひらに、幼い頃憧れた人の面影が重なる。
ティアは驚きと照れで目を丸くし、胸が熱くなるのを感じた。
「行っておいで」
そう言われ、ティアは力強く頷き、待っていた仲間たちの元へと駆け出した。
ジークハルトはその後ろ姿を、静かに見送った。
ティアが駆け寄ると、カイとレイは少し驚いた表情を見せたが、ティアは迷うことなく二人に飛びついた。
「……良かった、本当に良かった……私……何もできなくて……!目が覚めたら二人とも重症で、生きた心地がしなかった……もし二人が死んじゃったらって……!」
涙声で震えながら、必死に言葉を紡ぐティア。
カイとレイはそんなティアを強く抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「……心配かけたな」
低く、安心させるような声でカイが言い、レイもまた無言のままティアを支えた。
カイはティアを抱きしめながら、ふと視線を上げ、ジークハルトを鋭い瞳で見つめる。
──あんたがティアを泣かせたことも、助けたことも、全部忘れてはいない。
そんな複雑な感情が、その瞳に宿っていた。
だが、カイはほんのわずかに顔を下げ、ぺこりと頭を下げた。
それは敵意を捨てたわけではない。
ただ、ティアを救ってくれたことへの礼だった。
夜の空気の中、ティアは仲間たちの温もりに包まれ、ようやく張りつめていたものがほどけていくのを感じていた。
それでも、その胸にはまだ話さねばならないことがあった。
「カイ、レイ……話があるの。それと、団長にも……」
ティアは真剣な面持ちで言った。
カイとレイ、そして団長とともに、ティアに与えられていた病室へと場所を移す。
扉が閉まり、静寂が落ちる中、ティアは小さく息を吸い込むと、三人をまっすぐに見つめて言った。
「……私、商隊を抜けます」
カイとレイが驚いたように目を見張る。
団長は動じず、けれども真意を探るようにティアを見据え、静かに問いかけた。
「理由を聞かせてくれるか」
ティアは視線を落とし、少し唇を噛んでから過去や生い立ちについて語り出した。
「……今日、ジークハルト殿下と話したことで、ある疑いが浮かびました。私の実父は、もしかしたら魔族に近しい存在かもしれない……そう考えています」
声が少し震える。
「このまま商隊にいれば、私のせいでみんなを巻き込んでしまうかもしれません。だから……」
団長は少し黙ってから、低く、けれどもはっきりと問いかけた。
「──で、お前自身はどうしたいんだ?」
ティアは言葉に詰まった。
“迷惑をかけたくない”、それが本心だと思っていた。だが、それは本当に自分の想いなのか。
「……私は……」
ゆっくりと顔を上げる。
「みんなと一緒にいたい。それが本音です」
すると団長は静かに頷き、微笑んだ。
「ならば、いればいい」
その一言は、とてもあたたかく、重みがあった。
「しかし……」
ティアが言い淀むと、今度はカイが前に出た。
「……俺は国を出て、こうして自由にさせてもらってるが、一つだけ任務を言い渡されてる」
ティアは驚いてカイを見る。
「それが──魔族の調査だ」
カイの声は落ち着いていて、しかし確かな覚悟が感じられた。
「世界のダンジョンを巡りながら、魔族の動向を探ってる。お前が魔族に狙われてるなら、それは俺の任務としても意味があるし……何より、お前を魔族から守ることが出来る」
ティアの胸が強く打つ。
団長は腕を組んだまま、ゆっくりと言った。
「自分の意志で抜ける者を引き止めるつもりはない。だが、本当は抜けたくないと思ってる者を──一度仲間として迎え入れた者を、儂らは放っておいたり、突き放したりはしない」
ティアは目頭が熱くなるのを感じた。
──私は……本当に、一人じゃないんだ。
胸の奥で、強くそう思った。
#
「明日、この国を発つのか」
低く、石壁に反響するような声が玉座の間に響いた。
襲撃からひと月。崩れた城壁や倒壊した街並みには修復の手が入り、王都は徐々に活気を取り戻しつつあった。
ティアたち商隊は、翌日にはドワーフ国を発つ予定で、再び王宮へと招かれていた。
玉座に座るのは、新たに国を治めることとなった次期国王──ベルデガル・ハルヴィン。
前王・ボルグラムの息子である。
齢八十を数えるとはいえ、その体躯はなお頑健で、鍛えられた腕や深い声からは衰えを感じさせない。老齢ながら、その瞳には鋭い光が宿り、厳かさと威厳を纏っていた。
「はい。明朝には王都を離れる予定でございます」
団長が落ち着いた声で答える。
ベルデガルは大きくうなずき、目を細めると、しばし商隊の面々を見渡した。
「もう少し、ゆっくりしていっても良いのだぞ。この国で根を張り、商売を広げるのも悪くあるまい。場所ならいくらでも用意してやれる」
老王の声音には真心が滲んでいた。
商隊のこれまでの功績を思えば、その言葉はただの外交辞令ではないのだと、誰もが感じ取っていた。
しかし、団長は静かに微笑み、首を横に振る。
「ありがたいお言葉でございます。ですが、我々はひと所に留まらずに旅を続ける流れ者。放浪こそが性分に合っておりますので……」
その言葉には、長い歳月の中で育まれた旅商としての誇りがあった。
「次に向かう先も、既に決まっておりますゆえ」
ベルデガルはわずかに息を吐き、深い瞳を細めた。
「……そうか」
名残惜しさを隠しきれない声で、だがその決断を尊重するように頷く。
「二度もこの国を救ってくれたこと、国を代表して礼を言おう」
その言葉と共に、玉座から立ち上がったベルデガルの背はまっすぐで、鍛え上げられた腕には今も揺るぎない力強さがあった。
「ささやかだが、感謝の宴を用意した。今宵はどうか、余計なことは考えず心ゆくまで楽しんでくれ」
言葉と共に、王の瞳にはわずかに優しい光が宿る。
団長もまた深く一礼し、ティアたち商隊の面々も頭を下げた。
厳かな玉座の間に、温かな空気が漂う。
そして、王宮での宴……否、送別の宴は、この夜開かれることとなった。
王宮の大広間では、夜が更けてもなお賑わいが続いていた。
宴が開かれると聞きつけた国民たちが、国を救った英雄たちに少しでも英気を養ってもらおうと、次々に食料や酒を差し入れてくれた。まだ街には戦いの爪痕が残っているというのに、豪勢と言っていいほどの料理や酒がテーブルに並べられている。
ティアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
──自分たちは本当に、この国の人々の役に立てたのだろうか。
商隊の仲間たちは笑顔で杯を掲げ合い、男たちは大声で乾杯を交わし、女性たちも華やかな料理を味わいながら談笑している。
ティアはエリー、ノア、ルゥナと一緒に、目の前に並べられた料理を口に運びながらも、ふと団長の言葉を思い出した。
次の行き先がもう決まっていると言っていたけれど、自分はその行き先を聞いていない。
「ねえ、次ってどこに行くのか知ってる?」
ティアが小さく問いかけると、ルゥナもエリーもノアも顔を見合わせてから首を振った。
「ううん、聞いてないよ」
「私も知らないなあ」
「団長、何も言ってなかったからね」
少し肩を落としつつも、ティアは近くにいた年上の商隊の女性に声をかけた。
「あの……次の行き先って、どこなんでしょうか?」
「え?聞いてなかったの?水の都・澄幻国に行くんじゃないの?」
意外そうに答えた女性に、すぐ隣の別の女性が首をかしげる。
「えー?でもフォルセリア帝国だって聞いたけど?」
「フォルセリア?この間行ったばっかりじゃない?」
「でもフォルセリアはお得意様だし、定期的に顔を出してるんだよ。それに新しい商品も入ったから、予定を変えてまたフォルセリアに行くんじゃない?」
そんな会話を耳にしながら、ティアは少し笑みをこぼした。
──本当に、この商隊は風のように行き先が変わるんだな。
それでも、不思議と不安はなかった。
どこに行くとしても、自分には帰る場所があり、一緒に笑い合える仲間がいる。
そんな当たり前のことに、あらためて胸が温かくなるのを感じていた。
いつも拙作をお読み頂きありがとうございます!
次回から新章突入です。




