王都より遠く
アモンの巨体が、戦斧の一撃で真っ二つに裂けた。
地を割るような轟音のあと、残されたのは沈黙だけだった。
その静寂を破ったのは、軽やかで、どこか皮肉の混じった声だった。
「うーん、やっぱり不完全召喚じゃボルグラム王には勝てなかったか」
その声に、ボルグラムは即座に振り返る。
あまりにも突然だった。しかも背後から。
殺気も気配もない。気づけば、男がそこに“立っていた”。
「……いつの間に!」
ボルグラムが警戒の目を向ける。だが男は、まるで散歩にでも来たかのような気楽さで口角を上げた。
黒髪。紅い瞳。夜に溶けるような存在。
その姿は、闇の中に赤い硝子玉が浮かんでいるかのようで、不気味な美しさをたたえていた。
スピナは、その場に「現れた」とすら言えない。まるで、最初からそこにいたかのように自然に佇んでいた。
彼は興味なさげに、裂かれたアモンの亡骸へと手を翳す。
掌から零れた淡い影が、ゆらりとアモンの体へと伸びた。
「おつかれさま。無駄じゃなかったよ、アモン。ちゃんとデータは取れたから」
次の瞬間──アモンの骸は、塵が風に溶けるように、音もなく消えていった。
ボルグラムは戦斧を構え直しながら、無言でスピナを見据える。
その視線の先、スピナはただ紅い瞳でじっと彼を見ている。
挑発の笑みを浮かべたまま、一歩も引かない。
「ボルグラム王。今度は僕と遊んでよ」
軽やかな口調だったが、そこに漂うのは確かに“殺意”だった。
ボルグラムは戦斧を構えたまま、スピナを鋭く睨む。
「……ダンジョンが頻繁に出現するようになって、もしやとは思っていたが」
低く、静かな声。
スピナの一挙手一投足を逃さぬよう、鋭い眼光を向けながら言葉を継ぐ。
「やはり……魔族がこちらの世界に現れていたか。魔界へ封じられたはずの貴様らが、なぜこちらにいる」
問いかけに、スピナはくつくつと喉の奥で笑った。
「封印ね。それって、三千年も前の話じゃないか。古いよ、さすがに」
黒髪をかきあげ、紅い瞳が楽しげに揺れる。
「そもそも、僕たち魔族はね。どの種族よりも魔力が高い。高位魔法だって、君たちが崇めてるほど特別なものじゃない。転移も治癒も、僕たちにとっては日常の手段だよ」
唇の端を吊り上げ、スピナはにやりと笑った。
「そんな連中が、果たして──いつまでも大人しく封印なんかされていると思ったのかい?」
その言葉には、あからさまな“嘲笑”が滲んでいた。
ボルグラムは無言のまま戦斧を構え直す。
その視線は、一分の揺らぎもなくスピナを見据えている。
言葉は不要。ただ、敵を斬る覚悟のみが、鉄の意志となって全身にみなぎっていた。
「くひひ、いいねいいね!やる気満々って感じだ」
スピナは楽しげに笑った。まるで命を賭けることすら遊戯のように。
その時、遠く王都の方角から、鈍い爆発音が響いた。
──ドォン……
夜の空を、紅い閃光が切り裂いた。
それは王都の西区──工場群と鍛冶場が集まる地域が、炎に包まれた証だった。
「貴様らの狙いは……これか!!」
怒りを押し殺したような声が、地を震わせた。
西区は、王都グラントハルドの武器生産と物資供給の中枢。まさにドワーフ国家の命脈だ。そこが焼かれれば、今後の戦への備えはおろか、国そのものが立ち行かなくなる。
そして今、魔族と対峙した現実が、若者カイの言葉を裏付けた。
「……そういうことか」
確信と怒りを込めて呟いたボルグラムは、踵を返し、王都へと戻るべく足を踏み出した。
「おっと、行かせるわけにはいかないな」
スピナが、まるで用意していたかのように声をかけた。
「せっかく作戦通りに誘き出すことに成功したんだからさ──」
その瞬間、ボルグラムの足元が淡く光を帯びた。
光の陣が広がり、空間の位相が捻じ曲げられる。
「離れてるとはいえ、君の足ならすぐに王都へ戻れちゃいそうだからね。少し、場所を変えさせてもらったよ」
次の瞬間──視界が弾けるように切り替わった。
気がつけば、ボルグラムは荒野の真ん中に立っていた。
周囲に人工物はなく、ただ風の音だけが耳に届く。
だが、遥か遠くの空。かすかに赤く明滅する光を目にして、ボルグラムは位置を悟る。
「……大分、遠くへ飛ばされたな」
赤光は見えるが、爆音は届かない。音の伝播から、距離は相当あるとわかる。
──余の足で、十五分といったところか。
一分一秒が命運を分ける戦場において、十五分はあまりに致命的だ。
今すぐにでも戻らなければならない。だが──
「そう簡単には行かせないよ」
スピナが一歩、前に出る。
その紅い瞳が、薄笑いの奥に隠された“敵意”を隠しもしない。
ボルグラムはゆっくりと戦斧を構え直す。
戦況を見極めるまでもない。ここでの戦いは、避けられぬ運命となった。
先に動いたのは、ボルグラムだった。
斧を肩から振り下ろす。その一撃は、地を割る雷のような勢いだった。
スピナの姿が、霧のように掻き消える。
だが、ボルグラムの斧は地を穿ち、荒野に亀裂を走らせた。
「わあ、いきなりか。さすが戦の王。好戦的なその態度、嫌いじゃないよ」
声が右に跳ねた瞬間、ボルグラムは足を地に打ちつけ、瞬時に向きを変えた。
斧を片手で回し、横薙ぎに振り払う。
今度は風が切り裂かれる音とともに、スピナの衣が裂ける。
「……っと、危ないなぁ。殺る気満々だね?」
スピナが数歩後退し、紅い瞳を細める。その瞳の奥に、楽しげな火が灯った。
「じゃあ、僕もちゃんとやらなきゃね」
スピナの影が、ぼとりと地に落ちる。
その影から、黒い触手のようなものが何本も伸び、地を這いながらボルグラムに襲いかかる。
だが、ボルグラムはそれを物ともせず、斧を両手で構え直す。
「小手先の奇術で、余を止められると思うなよッ!」
斧がうねる。一本、また一本、影の触手が叩き斬られる。
そのたびに土煙が舞い、荒野の空気が重くなっていく。
風が止み、空が震え、魔力の奔流が地を這った。
「じゃあ、これはどうかな──」
スピナの影が爆ぜる。そこから現れたのは、幾十にも分岐した魔力の刃だった。
だが、ボルグラムは一歩も退かない。
「効かぬわッ!」
彼は地面を蹴り、一直線にスピナへと突撃した。
その斧が振るわれた瞬間、空気が裂け、重圧が周囲を押し潰す。
スピナは紙一重で身を引いた。だが、肩口に浅く傷が走る。
「っ……なるほど。やっぱり手加減できない相手だね、君は」
頬を吊り上げるように笑うスピナ。その表情は、興奮と殺意に満ちていた。




