一斧、断滅
──《眠れ、無価値な者どもよ。》
アモンの巨脚が、雷鳴のごとき音とともにカイたちの頭上へと振り下ろされた。その瞬間。
ズシャッ!!
空気を裂く鈍い斬撃音。直後、重々しい肉の塊が地面に落ちる轟音。
アモンの脚が、膝から下ごと斬り飛ばされたのだ。
──《が……ああアァァァッ!!?》
アモンが絶叫する。巨体を揺らし、痛みと怒りにまみれた声で叫ぶ。
──《誰だ……何奴だァア!!?》
視線を彷徨わせた先。現れたのは一人の巨漢。
分厚い胸板、鉄をも砕く戦斧。堂々たる体躯に、風を裂く気迫。
その男──ボルグラムは、黙って斧を肩に担ぎ上げると、意識を失いかけた若者たちの前に立ち塞がった。
「前途ある若木を今、狩られては困るんでな」
低く、地の底から響くような声が戦場にこだまする。
ボルグラムはちらりと、血と泥に塗れた三人を見やる。
「よくやった。お前たちのおかげで、住民への被害は最小で済んだ」
その声は無骨だが、どこか労う色があった。
だがすぐに、鋭い視線がアモンへと戻る。
「貴様の断末魔は……さぞや騒々しかろう。これ以上、無駄に地を荒らされては敵わん。場所を移すぞ」
その言葉と同時に、ボルグラムの両足が地を踏みしめた。
膝を沈ませ、全身の力を斧へと集中させる。
次の瞬間──
戦斧が、空気ごと切り裂く。
風が後を追うように音を置き去りにし、天地を揺らすような斬撃がアモンを襲った。
──《フン……舐めるなァ!!》
アモンが幾本もの尾を集束させ、迎撃の構えを取る。
ぶつかり合う金属音。尾と斧の衝突から、火花が四散した。
だが──抗いは長くは続かなかった。
咆哮のような衝撃音と共に、アモンの巨体が地面を離れる。
ボルグラムよりも遥かに大きいその躯が、弾かれたように宙を舞い、まっすぐ東門の外へと吹き飛んでいく。
その衝撃波で、周囲の土煙が激しく舞い上がった。
その光景を遠巻きに見ていたスピナは、目を見開いたまま数秒固まると、徐々に頬を緩ませ、口元をにやつかせた。
「キタキタキタキターーー!この人、絶対ボルグラム王でしょ!?なにあれ、威力えぐっ!あんなの人間の動きじゃないって!」
彼は興奮気味に地面を蹴って立ち上がる。まるで心待ちにしていた英雄の登場を歓迎するように、両手を胸元で握りしめ、わくわくとした様子で戦場の先を見据える。
だが、すぐに思い直したように、指を立てて小さく呟いた。
「……っと、いけないいけない。“お仕事”もちゃんとしなきゃね」
ピュイ、と軽やかに口笛を吹くと、月明かりに照らされた彼の影の中から、音もなく一羽の黒い鳥が現れる。鳥はスピナの肩に一度とまると、すぐに夜空へ舞い上がり、西の空へと滑るように飛び去った。
「はい、お仕事完了っと♪」
スピナは軽く伸びをし、肩を回す。数度、屈伸をして脚に力を込めると、風を切って一気に空へと舞い上がった。飛行魔術による高速移動。
一直線に、アモンとボルグラムの戦いの行方を追っていく。
その背後──黒い鳥が消えた西の空には、静かに、しかし確実に、複数の影が王都グラントハルドに向かって接近していた。
アモンの巨体は、数十キロ先まで吹き飛ばされた。
地面を抉りながら滑っていくその途中、アモンは一本の尾を突き立てて強引に減速した。地面が裂け、岩が砕ける。
──《チッ……小癪な……》
地響きと共に立ち上がるアモン。その目には獣の本能的な警戒と怒りが宿っている。すぐに身を翻し、跳躍して戻ろうとした。
ドンッ!!
その目前。爆風のような衝撃と共に、巨大な影が空を切って現れた。
「逃げ場を探す余裕があるとはな。余も、なめられたものだ」
ボルグラムだった。人間のはずの彼が、どうやって追いついたのか。空を裂くような勢いで地を踏み締め、既にアモンの間合いに入り込んでいた。
──こやつ……本当に人間の動きか!?
アモンの脳裏に、かすかな動揺が走る。だがそれを言葉にするより早く、巨斧が容赦なく振るわれた。
地鳴りのような衝撃音が響く。アモンは瞬時に尾を盾のように展開して受け止めたが、その衝撃に全身が軋む。
──《がッ……!!》
重い。一撃の質量が、これまでの人間とは桁違いだ。力で押し返そうとしても、まるで山そのものが動いているかのような手応え。
「遅いぞ、魔獣」
ボルグラムの低い声が至近距離で響く。その声と共に、斧が大きく弾かれ、連撃へと繋がる。
回転するように斧が連続で振るわれる。一撃ごとに空気が引き裂かれ、空間が振動する。
アモンは全尾を盾として広げ、跳躍と回避で凌ぐ。しかしその動作すら、既にギリギリだった。
──この男……ただの怪力ではない。斧の軌道が……重力を逆手に取ってやがる!!
地形を崩し、岩盤すら叩き割る一撃が、戦場を刻む。
だがアモンもまた、魔族屈指の怪物。
──《吠えろ、我が尾よッ!!》
六本の尾が一斉にうねり、蛇のような挙動でボルグラムを襲う。鋭く、速く、殺意を込めて。
「遅いな」
ボルグラムはその尾を、一本、また一本と、叩き斬るように振り払う。まるで絡みつく蔦を払い落とすかのような単純で、強引で、しかし決定的な斧の使い方。
ズバッ!!
一瞬、尾の一本が宙を舞った。切断面から血飛沫が噴き上がる。
──《ぐ……あああアアッ!!》
アモンが咆哮を上げた。傷口をかばうように身を引きつつ、瞳の奥に燃え盛る怒りが灯る。
──《人間ごときが舐めるなよ!黒炎爆砕》
叫ぶと同時に、奔流のような黒炎がボルグラムを飲み込んだ。大地が焼け爛れ、炎の圧力だけで地表が爆ぜる。骨さえも残さないとされる、アモンの切り札。その火力は、広範囲を文字通り地獄へと変えた。
だが──。
火煙の中から、重々しい足音が響く。
焦げた地面に、確かな足取りで姿を現したのは、ボルグラムだった。
片腕に軽い火傷の痕を残しながらも、悠然と立っている。鎧の表面が黒く煤けているものの、戦斧はしっかりと手に握られたままだ。
「……派手な火遊びだな。だが、悪いな。焼き加減が甘い」
静かにそう呟いた声が、黒炎の熱気を切り裂いた。
アモンの顔から怒りが失せ、代わりに、初めて明確な「恐れ」が浮かぶ。
ボルグラムの生還に、アモンの表情が一瞬凍りつく。だが、獣の本能がすぐに警鐘を鳴らす。
──殺らねば、殺られる。
怒りを爆発させるように、アモンは尾を広げて突撃した。その巨体に似合わぬ速度で接近し、尾で地を抉り、口からは猛毒を含んだ咆哮を放つ。
対するボルグラムは、一歩も退かず、むしろ自ら踏み込む。
巨腕がぶつかり、拳が衝突し、尾が風を裂き、斧が受け止める。轟音と振動が周囲に拡がるたび、地面が裂け、木々が倒れ、岩が粉砕された。
アモンの鋭い尾がボルグラムの肩をかすめる。だが、ボルグラムはそれを気にする様子もなく、逆にアモンの胴体へ拳を叩き込んだ。鈍い衝撃とともに、アモンの体がよろめく。
──《くっ……!!》
アモンが踏み込み、尾を薙ぎ払う。無数の棘が鋭く伸び、避ければ別の尾が迫る──連撃。しかし、それすら読んでいたかのように、ボルグラムは斧を低く構え、次の瞬間に飛び込んだ。
刃が閃き、尾を数本まとめて叩き斬る。血が舞い、アモンの怒声が響く。
──《虫けらの分際で我にこの力を使わせたこと、後悔するがいい!》
アモンの魔力が一気に高まる。全身の尾が蠢き、禍々しい黒炎とともに周囲の大気が震え始めた。
──《断界咎音》
瞬間、空間がねじ曲がった。
耳を裂くような、「鐘」の音が鳴り響く。金属を擦り合わせたような不協和音ではない。荘厳で、それでいて破滅を告げるような、終末の鐘だった。
次の瞬間、周囲の空間が“止まった”。
ボルグラムの体が鉛のように重くなる。時間が鈍化し、魔力の流れが断たれ、重力の感覚すら狂う。
まるで、全てが死を迎えた世界のように。
──《この空間に入った以上、もはや逃れられぬ。魔法も、力も、重さすらも失え──そして絶望のまま、朽ちろ!!》
アモンが襲いかかる。尾がいくつも広がり、遅くなった時間の中で一斉にボルグラムを貫かんと迫る。
だが──
ボルグラムの口元が、わずかに動いた。
「ふん……重くなった分、叩き甲斐がある」
その声と同時に、地鳴りのような音が鳴った。明らかに、この停止した空間に逆らうような一歩。
ボルグラムが、動いたのだ。
常人であれば身動きすら叶わぬ空間を、彼は「力」で捻じ伏せる。
その一歩が、音の壁を砕き、
二歩目が、時の淀みを裂き、
三歩目で──斧を振りかぶった。
アモンの目が見開かれる。
──《馬鹿な……この空間で動ける……!? 人間ごときが……!》
「人間“だから”限界を超えられるんだよ。知らなかったか?」
そして、刃が落ちた。
断界の空間をも裂き、空気を縫い、魂を断ち割る一閃。
アモンの巨体が、今度こそ完全に、縦一文字に断たれる。
血が噴き上がり、沈黙が訪れた。
二つに割れた躯が、地に落ちる。大地が揺れた。
ボルグラムは、斧を担ぎ直し、静かに背を向けた。言葉も、振り返りもせず。ただ、前だけを見て歩き出す。
その背中が、地上に生きる者とは思えぬほどに大きく見えた。




