取り引き
ジークハルトにとって、レティシアは“悪”だった。許されざる存在だった。
だが今、彼の背にいるその女は──ティアは、民衆からも、仲間たちからも、深く慕われていた。
しかも、ドワーフたちの話によれば、ティアはドルマリスで病原体となった瘴蚊に対処するために、「霧煙炉」と「新作の石鹸」を自ら開発したという。
民を救った薬も、かつて彼女が救った小さな村で見つけた木の実がもとになっており、その村には彼女の名を冠した“ティアの泉”という場所まで存在していたらしい。
ジークハルトが知っていたレティシアとは、あまりに違いすぎる。
何者だ。
なぜ、これほどまでに変わったのか。
いや──もしかすると、最初から自分の目が曇っていただけなのではないか。
背に負った彼女の体が少しずれたのを感じ、ジークハルトは無意識にそれをしっかりと背負い直した。
「殿下。その女……やはり私が担ぎましょうか」
隣を歩くユリウスが静かに申し出る。
「……いや、いい」
ジークハルトはきっぱりと首を振った。
「しかし──」
「私は……あいつに、レティシアを必ず守ると約束した」
その言葉に、ユリウスは怪訝な表情を浮かべる。
無理もない。今の光景を、マリエルが見たらどう思うだろう。
この女は、マリエルを傷つけた“仇”でもあるのだから。
「守る、ねぇ。一度、突き放しといてよく言うよ」
どこからともなく響いた声に、ジークハルトとユリウスは即座に剣に手をかけ、臨戦態勢を取った。
声の主を探して視線を走らせると、瓦礫の上に悠然と腰掛けた男の姿が目に入る。
黒の長髪が風に揺れ、長い脚を優雅に組んで、こちらを見下ろしていた。
高位魔族の一人。ラズフェルド。
その佇まいは、どこか神秘的で美しくすらあるが、纏う空気は異様に冷たい。
「貴様、何者だ」
ジークハルトの声が鋭く飛ぶ。
ティアを背中にかばうように身を引き締め、ユリウスも前へ出て、主君を守る姿勢を取った。
ラズフェルドは、指一本動かさない。
「そんなに身構えなくていいよ。僕は戦いに来たわけじゃない。……交渉に来たのさ」
「……交渉だと?」
ジークハルトの眉がわずかに動く。警戒心を崩さぬまま、言葉の真意を探る。
ラズフェルドは微笑を浮かべ、無造作に指を向けた。
「その子を、僕に頂戴。そしたら、君たちの命は見逃してあげる」
ティアを指すその手はあまりにも軽く、まるで市場の品でも値踏みするような、そんな仕草だった。
しかし、彼の言葉に込められた悪意は、紛れもなく本物だった。
まだ何も起きていないというのに、喉が渇く。肌が粟立つ。
──これは、本能が告げている。敵だ。強大な、異質な、悪そのもの。
「……ね?悪い条件じゃないだろう?」
ラズフェルドは首を傾げて笑った。
唇は緩く微笑んでいるのに、紅の瞳の奥には一片の温もりもない。
そこには、命も情も、価値の概念すら存在しない。
ジークハルトとユリウスは、一瞬、言葉を失った。
まるで悪魔との取引だった。
「ふざけるな!」
ジークハルトの怒声が、空気を裂いた。
「ふざけてなんかいないさ」
ラズフェルドの声は、むしろ楽しそうだった。
「君たちにとってその子は憎むべき存在だろう?その彼女を……僕が引き取ってあげるって言ってるんだよ。それって、寧ろ慈悲だと思わないかい?」
ふざけた口調。だがその一語一語が、ジークハルトの心に鈍く突き刺さる。
「何故、レティシアを狙う……!」
身構えたまま、ジークハルトが低く問いかけた。
警戒と怒り、そして混乱がないまぜになった声だった。
「彼女は、もともと僕たちのものだからね」
「なに……?」
ジークハルトの目が鋭く細められる。
それはただの感情ではない。理解を超えたものに触れた時の、獣のような勘だ。
「どういう意味だ。それは……どういうことだ!」
ラズフェルドは脚を優雅に組み替え、頬杖をついたまま、にこりと微笑んだ。
まるで、これから読み聞かせでも始めるかのように、優しげな笑みだった。
「君たちが、それを知る必要はないよ。だって──君たちはその子を“捨てた”じゃないか」
その一言で、ジークハルトの顔がこわばる。
胸の奥で、何かが冷たく砕けたような気がした。
「……あのカイとかいう坊やには、暫く預けてもいいかと思ったけどね。でも、今の彼らじゃアモンには勝てない」
ラズフェルドはふいに目を細め、ジークハルトに向けて冷ややかな視線を送った。
「君はまだ、気づいていないようだけど……その子は、“救い”でもあるし、“災い”でもあるんだ」
ジークハルトの指が剣の柄を握りしめる音が、かすかに響く。
「ねえ、ジークハルト王子。君は、本当に守りきれるのかい?」
ラズフェルドが、緩やかに手を伸ばしてきた。
焦らすような、無防備なほど緩慢な動作。
それなのに、背筋に冷たい戦慄が走る。
ジークハルトは反射的に半歩、後ろへと身を引いた。
背のティアがわずかに揺れる。
理屈じゃない。
あの手に触れられてはならない──そう本能が告げていた。
「ここは私が引きつけます!殿下はお逃げください!」
ユリウスが声を張った。
彼もまた、あの男から滲み出る“何か”を肌で感じ取っていた。
抜き身の剣を握りしめ、ジークハルトの前に立つ。
その瞬間だった。
ラズフェルドの指先に、蠢くような魔が集まる。
空気がねじれ、圧が生まれる。
だが──
ぴくりと指が動いた次の瞬間、魔が霧のようにほどけ、消えた。
「……く、ははは」
ラズフェルドが、肩を揺らしながら笑い出した。
まるで、思わぬ滑稽劇でも見たかのように、楽しげに。
「なるほど、そうか。君たち……加護持ちなんだな?」
その声には、わずかに苛立ちと、興味が入り混じっていた。
「変な気配がするとは思っていたが……君たちの仲間に、精霊王の加護を受けた者がいるだろう?」
「な……ぜ、それを……!?」
ジークハルトの目が見開かれる。
それは、決して表に出ていない秘密だった。
彼らがミレナ王国からドワーフの地へ向かう旅の途上で出会った、精霊王。
マリエルと契約を交わし、その余波として、同行していた者たちの魂にも薄く加護が宿った。
だが、それを知るのはジークハルトと同伴していた、ごく一部の側近のみ──。
「その契約者に近しい者である君たちにも、微弱ながらも精霊王の護りが及んでいるらしい。気付かずに攻撃していたら手痛いしっぺ返しを喰らうところだったよ」
ラズフェルドは肩をすくめて、飄々とした笑みを浮かべた。
その顔は笑っていたが、目はまるで笑っていなかった。
「けど、そうか……精霊王と契約を結んだ“人間”がいるのか」
顎に手を当て、何かを思案するような素振りを見せる。
まるで、獲物の価値を品定めしているかのように。
その瞬間、ジークハルトとユリウスの表情が険しく変わった。
空気がぴんと張り詰め、彼らから鋭い殺気が溢れ出す。
「マリエルに手を出したら、その時は命はないと思え!」
「安心しなよ。……僕、ああいう無垢なタイプ、正直興味ないから」
ラズフェルドは目を細め、肩を揺らして笑った。
けれど、その声音はどこか侮蔑と嘲りが滲んでいた。
「けど、そうだな。選ばせてあげるよ。契約者を殺すか、背中の子を置いていくか──どっちがいい?」
一瞬、時間が止まったような錯覚が走る。
その声には、まるで選択肢があるかのように装って、選択肢など存在しないことを強調する冷酷さがあった。
そう──彼は“どちらもできる”。容易く。
だからこそ選ばせる。遊びのように、ゲームのように。
「どちらを選んでも、面白くなりそうだ。ね?王子様」
ジークハルトの奥歯が軋むほど強く噛み締められる。
「選ばせる?……ふざけるな。誰が、お前の遊びに付き合うものか!」
ジークハルトが拒絶の言葉を叩きつけたその瞬間だった。
「なかなか面白そうな話をしているな。余も交ぜてくれんか」
乾いた、地を震わすような低い声が、突如として響く。
ジークハルトもユリウスも、その存在に気づいたのは声を聞いてからだった。
いつの間にか、戦場の気配に溶け込むようにして、一人の大男が立っていた。
ボルグラム王。
ドワーフたちの長にして、戦斧を振るえば山を割ると謳われている。
その名は一部の者から、戦神の化身とまで囁かれる。
黙々とこちらへ歩を進めるその姿は、ただ存在しているだけで場を圧倒していた。
「……おや」
ラズフェルドが眉をわずかに上げた。
驚愕というよりは、珍しいものを見つけた時のような純粋な興味の色。
重々しい足取りで、ボルグラムはジークハルトたちの前に立った。
言葉の前に、ただ睨むだけで、周囲の空気が明確に変わる。
「魔族よ。よそで騒ぐならともかく、我が同胞の地に土足で入り、好き勝手してくれたな」
その声音は低く、静かだった。
だが、ひとつひとつの言葉が石を打つように重く、響いた。
「これは失礼。ドワーフの王……ボルグラムだね?」
ラズフェルドが脚を組んだまま、相変わらずの笑顔で応じる。
「噂には聞いていたけど、他の人間と違うのはその武器のお陰、というわけでもなさそうだね」
ボルグラムの背に携えた巨大な戦斧を一瞥しつつも、ラズフェルドはその目を細め、王自身が内に秘める核を見定めようとしていた。
そして、次の瞬間。
「貴様は危険だな。ここで倒し、同胞たちへの手向けとしよう」
殺気が、地を這う雷鳴のように空間を揺らした。
ボルグラムの斧が音もなく構えられ、その巨体から放たれる覇気が辺りを飲み込む。
ラズフェルドが、初めて心からの笑みを浮かべたように見えた。
二つの殺気が、ぶつかり合う。
ジークハルトとユリウスは、その圧に息をすることすら重く感じる。
「早く行け。お主らには、お主らのすべきことがあるだろう」
ボルグラムはラズフェルドから一度も目を離さずに言った。
その言葉に、ジークハルトとユリウスは即座に判断した。
今この場にとどまっても、自分たちは王の足を引っ張るだけだと。
二人は刃を収め、背のティアを庇いながら、その場を離脱する。
「困るなぁ。まだ、取り引きの最中だったのに。勝手に逃がすなんて酷いじゃないか」
ラズフェルドは肩を竦めた。だが、その口調とは裏腹に、彼らの後を追う気配はない。
むしろ、この状況すらも娯楽として愉しんでいるようだった。
「魔族との取り引きか……とても、公平なものだったとは思えんな」
ボルグラムの低音が静かに響く。
一瞬の沈黙が落ちる。
やがて、ラズフェルドはひとつ息を吐いて口を開いた。
「やる気満々なところ悪いけど、僕は君とは戦えない。今日のところは君に免じて、《《僕は》》引くとするよ」
静かに、ラズフェルドは立ち上がる。
「今日は僕の代理を用意した。彼に勝てたら遊んであげるよ──それに、早く向かわないと将来有望な戦力が失われちゃうよ」
言いながら、彼はつい、と視線を一方へ向けた。
その先。アモンのいる方向で、戦闘音が激しく響いている。
その言葉に、ボルグラムの視線も同じ方向へ向かう。
次の瞬間、目を見開いた。
気配が、明らかにおかしい。
強大な魔力の奔流。その前に、三つの魔力が掻き消されかけていた。
ボルグラムは迷わなかった。
ボルグラムは斧を背に納め、躊躇なく地を蹴る。
土が弾け、巨体が風を裂いて駆ける。
走りながらも、脳裏に浮かぶのはひとつの違和感。
──……妙だな。奴は本当に、この戦いに興味がないように感じた。
ラズフェルドの言葉が、妙に真実味を帯びていた。
だからこそ、彼を背に残し走った。
「……あの子は、もう少しだけ君たちに預けておくよ。自らの意思で、こちらへ来るのを待つのも──悪くない」
その声は、夜の闇に溶けて消える。
不穏な残響だけを、確かに残して。




