絶望の焔と不屈の意志
焼け焦げた大地からは、なおも肌を焼くような熱気が立ち上っていた。空気は灼熱にうねり、まともに息をすることすら困難だ。
レイの展開していた魔法障壁が淡く弾けると同時に、カイが地を蹴った。
「カイ!むやみに突っ込むなッ!!」
レイが咄嗟に叫ぶ。しかし、その声は既に遅かった。
熱気に皮膚を焼かれながらも、カイは全身の力を振り絞ってアモンに肉薄する。
その目には恐れも逡巡もなかった。ただ、燃えるような闘志だけが宿っていた。
「断風刃!!」
叫びと共に、カイの槍が真横から唸りを上げる。裂帛の一閃。空気を切り裂くほどの威力と速度。
槍は確かに届いた。アモンの膨大な脚部、その皮膚を僅かに裂いた。
瞬間、黒い血が弾けた──が。
「……ちっ……!」
切り裂かれた傷口から、黒い泡がぷくりと浮かび上がり、みるみるうちに皮膚を覆っていく。まるで意思を持つように蠢き、数秒のうちに傷を完全に塞いでしまった。
ヴァルゴイアであれば、一刀両断となっていたはずの威力。それすらも、この“災厄”の前ではかすり傷に過ぎない。
──《ほう……我が身に、傷を付けたか》
脳髄に染み込むような声が、再び響く。今度は先ほどよりも、わずかに抑揚を帯びていた。
──《千年の時を経ても、なお斬撃の感覚を味わうとは。貴様……その蛮勇、僅かながら興が湧く》
アモンは揺るぎない巨体をほんの少し傾け、カイを見下ろす。その双眸は焔のように赤黒く燃え、見ているだけで精神が焦げ付きそうだった。
──《だが、それでどうなる。我を殺せぬ刃に、価値などない》
アモンが口角をわずかに持ち上げる。それは明らかに「称賛」でありながらも、底なしの「侮蔑」だった。
──《踊れ、愚かなる人よ。焼ける肉の痛みに喘ぎながら、せいぜいあがけ──地に伏し、命が灰になるその時まで》
次の瞬間、アモンの尾が唸りを上げて地を薙ぎ払った。巨大な鉄塊のような尾撃が、カイを横薙ぎに襲う。
その一撃は質量の暴力そのものであり、まともに食らえばカイの身体など瞬時に粉砕されるだろう。
「若いもんに、遅れを取るとはな!」
ギルバンが咆哮と共に飛び込み、その巨体に似合わぬ速度で魔槌を振り上げた。
次の瞬間──。
重鈍な尾と魔槌が正面から激突。天地が揺れるほどの衝撃が炸裂した。爆風が地を抉り、周囲の岩盤が粉砕される中、ギルバンは全身の筋肉を軋ませながらも、一歩も退かずに尾を受け止めた。
「ぬおおおおおッ!!」
足元が裂け、土がめくれ上がる。それでも、ギルバンは魔槌を構えたまま踏み止まる。
その様子を見下ろしていたアモンの焔の目が、わずかに見開かれる。
──《……ほう》
短く、低く、確かに“驚き”が含まれていた。
──《この我が尾撃を、止めるか。小さき者よ……》
「なめんじゃねぇぞ、魔獣め」
ギルバンが歯をむき出して笑う。その身体には既に無数の火傷と裂傷が走っていたが、決して膝をつかない。彼の瞳には、まだ炎が灯っていた。
「雷鉄縛!」
レイが魔導陣を展開した。
雷光がアモンの足元に奔る。次の瞬間、地面から複数の魔力鎖が雷を帯びて出現し、アモンの四肢に巻きついた。雷鳴の奔流が巨躯を束縛し、動きを鈍らせる。
束縛されたアモンが、焔の尾を暴れさせようとするが、その動きも封じられていた。
「今だッ!!」
ギルバンが前へと跳び出す。魔槌を振りかぶり、アモンの脇腹に思い切り叩きつけた。
「──砕けろォッ!!」
衝撃音。打撃が火花を散らし、灼熱の鱗に凹みを作る。アモンの身体がわずかに傾ぎ、焔が揺らめいた。
「裂空槍陣!!」
隙を逃さず、カイが跳び上がった。
空中で槍を構え、回転しながら真空を切り裂く。
空間に幾重もの槍撃が奔る。目に見えぬ速さで繰り出される斬撃が、まるで空そのものを裂くかのようにアモンを包囲した。
風圧が鱗の隙間を抉り、斬撃が火焔を裂き、雷の鎖の内側まで貫いていく。空中に走る槍の軌道は星の雨のように煌めき、アモンの身体に細かく無数の傷痕を刻み込んだ。
そして。
「──はぁぁあッ!!」
最後の一突き。大気が断ち切られる音が響き、光の槍がアモンの胸元へ突き立てられた。
灼けた鱗が剥がれ、黒い血が弾け飛ぶ。
アモンの巨体が僅かに揺れた。
──《ぐおお……ッ!》
空を裂くような、獣の呻きが響いた。巨躯を構成する黒き外殻に、確かに斬撃と魔撃の痕が刻まれている。
その傷口からは、黒い気泡がふつふつと立ち上り、肉を再生させていく。
だが、それを見たレイの目が細く光る。
「……再生が遅い」
アモンの他の傷に比べ、胸元の損傷は明らかに回復が鈍い。
わずかながらも、確かな“変化”。それは、敵の肉体の中にある何か、核のような存在に近づいた証なのかもしれなかった。
「そこが……弱点かッ!」
レイが魔力を奔流のごとく解放する。
空間を震わせる詠唱が一瞬で走り、掌から雷が閃光の槍となってほとばしる。
「閃霆穿陣!」
咆哮のごとき雷鳴と共に、鋭く絞られた一条の雷光が、胸の裂傷を正確に貫く。
焦げた鱗の下に隠れていた肉が焼け焦げ、黒血が飛沫となって宙に舞った。
──《……っの、虫ケラが……!》
アモンが吼え、咆哮と共に空間が震える。
その巨体が一瞬揺らぎ、地を踏みしめ直す。
「カイ、今だ!!」
「任せろッ!」
カイが跳ぶ。
逆巻く熱風を裂き、雷槍の貫いた穴へ真っ直ぐに突撃。
「瞬連崩突ッ!!」
蒼い魔力が槍の穂先に収束し、突きの連打が一条の嵐と化す。
雷で裂かれた傷に、さらに精密な連突が畳みかけられ、アモンの黒血が幾筋も噴き出す。
「こいつをくらえぇッ!」
続いてギルバンが大地を踏み鳴らす。
「──砕炎轟鎚!!」
魔槌に爆炎の魔力を纏わせ、捻るようにして振り上げたその一撃は、まるで火山の噴火。
レイとカイが穿った傷を狙いすましたかのように叩き込み、轟音とともに血肉が爆ぜた。
アモンの巨体が、ぐらりと揺らぐ。
──《ぬう……!?》
わずかに後退し、脚を踏みしめ直すアモン。その巨体から今度は怒りと混濁が漏れ始める。
「へぇ。意外とやるじゃん」
遠くの鐘楼から戦場を見下ろしていたスピナは、脚を組み頬杖をついて微笑む。
「だけど……アモンの“真の姿”を解放した時、どこまでやれるかな?」
愉しげに口角を上げ、視線を戦場に戻した。
アモンの双眸が細くすぼまり、言葉を吐いた。
──《……見誤っていたようだ。我をここまで傷つけるとは……人間ごときが、よくもまあ》
黒き気流が、アモンの身体から渦を巻いて噴き出す。瘴気と熱が混ざり合い、まるで空間そのものが軋むような音を立てた。
──《よかろう。我に“本来の姿”にならせたこと……誇るがいい。せいぜい、記憶の欠片として魂に刻まれておれ》
次の瞬間、天地が引き裂かれたかのような咆哮が轟く。
アモンの肉体が膨張し、皮膚のようだった外殻が音を立てて剥がれ落ちる。中から現れたのは、煉獄の炎をまとった、六つの翼を持つ異形の魔獣だった。
その姿はもはや、かつての魔獣の枠を逸脱していた。
六枚の翼が空気を灼き、爛れた尾が地を薙ぐたびに、大地が脈打つように震えた。黒炎を纏ったその躰は、存在そのものが呪いの塊と化しているかのようだった。
レイが息を呑む。
「……化け物、だな……」
ギルバンが汗をぬぐい、ぎり、と魔槌を握り直す。
「正面から行くぞ。こちらが臆したら終わりだ」
カイも呻くように笑う。
「だったら行くしかねぇ。ぶちかますぞッ!」
三人が同時に飛び出す。
レイが雷を集中させ、手を前へ翳す。
「イグラ=ブレイク・カスケード!」
多重展開された雷槍が、一直線にアモンの頭部へと奔る。だが、翼の一撃で吹き飛ばされる。
カイがそれを見計らい、上空から急降下する。
「穿牙裂風!!」
槍が描く旋風の軌道が、アモンの首筋を削る。しかし、傷は浅く、すぐさま漆黒の再生膜が覆う。
ギルバンが地を蹴り、灼熱の魔力を纏った巨大な魔槌を振り下ろす。
「灼砕轟炎!!」
着弾と同時に地面が激しく裂け、噴き上がるマグマが戦場を焼き尽くす。炎と熱気が辺りを支配する中、アモンは微動だにせず立ち尽くしていた。
黒炎を纏った巨大な尾を大きく振り上げ、その一撃を悠然と受け流す。
次の瞬間。
岩を砕く轟音と共に、アモンの尾が三人へ叩きつけられる。
一撃、二撃、三撃——。
三人は反撃の隙を一切与えられず、宙を舞い、無惨に地面へ叩きつけられた。
血しぶきが舞い、身体中に深い傷が刻まれ、武器は手からこぼれ落ちる。
息を切らし、必死に立ち上がろうとするが、その力はもはや尽きていた。
アモンの圧倒的な力に、誰もが手も足も出ない。
地に伏す三人を見下ろしながら、アモンは嘲るように翼を広げる。
──《所詮、人間とはこの程度か》
人間の気配を感じる方へ意識を向け、飛び立とうとしたその時──。
「……待てよ」
レイが低く、しかし揺るぎない声をあげた。
「我らはまだ……生きておるぞ……」
「俺たちを倒さずに……次にいけると、思うなよ」
満身創痍の三人が、零れ落ちた武器を必死に掴み直し、立ち上がる。
だが、その体は限界を超え、攻撃する力はほとんど残っていなかった。
アモンの複数の目が細められ、嗤う気配が漂う。
──《脆弱なその身体で、まだ立ち上がるとはな……よかろう。その心意気、感心したぞ。魔族より遥かに劣る種族が、ここまでやるとは。》
一瞬の静寂。
──《ならば褒美に、“ほんの少し”だけ本気を見せてやろう。絶望の淵で悶え苦しめ!──黒炎爆砕》
地が爆ぜる。
アモンから放たれた黒炎の奔流が三人を呑み込むように迫る。
空間が焼け、時さえも軋むかのような破壊。
死を覚悟した。誰もが、これで終わると理解した。
それでも三人は咆哮した。
「──ぐ、あああッ!!」
全身を覆う魔力。限界を超えた結界。
踏みとどまる脚が砕けようとも、三人は立ち続ける。
炎が収まった後、そこに残ったのは──
ボロボロの衣。焼け爛れた皮膚。血で濡れた武器。
しかし、三人は確かに立っていた。
──《……馬鹿な。まだ……立っているだと……?》
アモンの瞳に一瞬の動揺が走る。
だが、その目に映る三人の意識はもうほとんど消えかかっていた。
気絶寸前、朦朧とした意識の中で意志だけが必死に支えている。
──《天晴。しかし、もはや戦う力は残っていまい。ならば……》
アモンが巨脚を振り上げる。
──《眠れ、無価値な者どもよ。》
影が三人を覆い尽くす。
最後の一撃。圧殺の一踏みが振り下ろされた。




