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黒き燔祭獣

 ラズフェルドの殺気が、わずかに漏れた──その瞬間、空気が一変した。


「……っ」


 冷気のような殺気が肌を刺し、背筋を這い上がる。カイとレイが、ほぼ同時に上空を見上げるが、夜の闇が広がっているばかりで、何も見えない。だが──確実に、何かがいる。


 見えずとも、感じる。あの気配は尋常ではない。

 得体の知れぬ存在の圧力。それは、ただの気配ではない。異様な濃度の“力”が、遥か上空から地上を見下ろしていた。


 カイはすぐさま振り返り、ジークハルトたちに向かって声を張った。


「俺たちはこれで失礼する。魔獣の残党を追う。お前たちも、すぐにここを離れろ。生き延びたきゃな」


 言い終えるや否や、崩れかけた建物の向こうから、重々しい号令が響き渡った。


「止まれ!中央軍が到着した!」


 ずらりと並ぶ銀の鎧、その先頭に立つのは、一際豪奢な装甲をまとった男だった。

 逞しく編まれた赤毛、背中に背負った巨大な戦槌。そして、その腰には王家の紋章が燦然と輝いていた。


「我はボルグラム王第五子、ギルバン・ロッグハンド。王国軍将軍だ。強大な魔力の揺らぎを感じ、急ぎ駆けつけた。……この戦場、お前たちが制したのか?」


 レイが一歩前に出て、手早く状況を説明する。


「五体のヴァルゴイアが出現しました。私たち三人で、応戦し、全て撃破。……ですが、まだ終わっていません」


 彼の言葉に、周囲の兵士たちがざわつく。

 五体。しかもそれを、この短時間で……。


「ほぅ。力は申し分ないようだな」


 ギルバン将軍が目を細め、微かに笑う。


「ならば頼もう。王都の民を守るため、我らに力を貸してくれ」


 カイは即座に頷いた。


「もちろんだ」


 ギルバンはうむと深く頷き、全軍に向けて命じた。


「父上──ボルグラム王も、間もなく支度を終え、ここに現れるだろう。それまでに、王都の民を一人でも多く救い出す。全隊、散開!逃げ遅れた者の保護、および魔獣残党の掃討にあたれ!」


 兵たちは号令に従い、すぐさまそれぞれの持ち場へと散っていく。

 カイたちもその動きに合わせようとした、そのとき──。


「……あれは、なんだ?」


 誰かが呟き、東門の方角を指さす。


 夜の帳の向こうから、巨大な“影”が、ゆっくりと姿を現した。

 地を這うように進むその巨体は、建物よりも高く、全身から濃厚な魔力が滲み出ている。


 カイが息を呑む。


「……見たことがない。こんな魔獣、文献にも載ってなかったはずだ」


 場がざわめき、兵士たちがざっと武器を構える。

 明らかに“異質”。この世界に属していないような、悪夢じみた魔獣の出現に、空気が張り詰める。


 それは、ただ立っているだけで、場の全てを呑み込むような存在感を放っていた。


 それは異形だった──


 東門の先から姿を現した“それ”は、確かに魔獣の類だった。だが、その存在感は、もはや魔獣という範疇で語れるものではない。建物を軽く超える高さの、黒き巨影。四足で這い出る様は、地の底から滲み出た悪夢そのものだった。


「……あれが、魔獣……?」


 黒曜石のような漆黒の装甲に覆われた巨体。その表面に走るひび割れからは、赤黒い瘴気と炎が絶え間なく噴き出している。

 歪んだ顔面には無数の瞳が蠢き、ねじれた長い角が空を裂いていた。


 そして、尾。

 蛇のようにうねるそれが、兵たちの思考に、直接、触れようとしていた。


 ──《我、災いを与える者。汝らの嘆きとともに、地を焦がすべし》


 言葉ではない“囁き”が、頭蓋の内側に響く。意味をなさぬ音の羅列が、思考を侵し、精神を蝕む。


 レイが顔を歪め、頭を押さえた。


「……クソ、こいつ……直接脳に……!」


 ティアが震え、目を逸らす。あの視線を正面から受ければ、理性が崩れる。

 ギルバンでさえ、眉を顰めて呻いた。


「く……こやつ、ただの魔獣ではない……!」


 まさに怪物──。

 その場にいた者たちがうずくまる中、怪物はどこか愉快げに喉を鳴らした。

 それは笑い声のようだった。


 ──咆哮。


 空間そのものが震え、音が地を裂いた。


「きゃあああああ!」


 ティアが絶叫し、その場に崩れ落ちた。


「ティア!?」


 駆け寄ったカイが彼女を支える。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 ティアは錯乱し、自分の髪を両手で掴み、涙を流しながら謝罪の言葉を繰り返していた。

 カイとレイが彼女の様子に戸惑っていると、背後でばたばたと人の倒れる音が響く。


 兵士たちが、次々と倒れていく。

 ある者はティアと同じように錯乱し、ある者は意識を失い、ある者は──息絶えていた。


「精神……攻撃か……っ」


 ジークハルトとユリウスも、なんとか意識を保っていたが、顔色は土気色に近く、精神攻撃に抗うだけで精一杯のようだった。


 咆哮一つで、これほどの惨状。

 この場でまともに動けるのは、カイ、レイ、ギルバン、そしてわずかな兵士だけとなっていた。


「ここは……一旦、引いて──」


 カイがティアを抱きかかえ、そう言いかけたその時だった。


「くひひひ。逃げちゃっていいのぉ?早くヤツを止めないと、もっと被害が出ちゃうよ?」


 どこか狂気を孕んだ声が、虚空から響いた。


 声の主は、いつの間にか瓦礫の上に腰を下ろしていた。

 黒い髪に紅い瞳。異様な笑みを浮かべるその人物──スピナ。


 突如現れた存在に、レイが素早く反応し、ギルバンも魔槌を構えて問いかける。


「何者だ……」


 スピナは口元を吊り上げ、楽しげに応えた。


「僕はスピナ。そして、あれはアモン=ヴァル=ゼルグ。別名、《黒き燔祭獣(はんさいじゅう)》。あんなの、放っておいたら大勢死ぬよ?」

「貴様……魔族か。あの怪物、お前が呼んだのか!」


 ギルバンが殺気を込めて睨みつける。

 だが、スピナは肩をすくめて、まるで悪びれた様子もなく言い放った。


「怪物じゃなくて“アモン”だってば。そうだよ。あれは僕が、魔界からわざわざ呼び寄せたんだ」


 涼しい顔でそう言うスピナに、ギルバンの眉がさらに吊り上がる。


 スピナは足をぶらつかせながら、指先で髪をくるくると弄び、口を尖らせた。


「いやぁ、ヤツくらいの大物になると、召喚するのも一苦労でさ……」


 まるで愚痴でもこぼすかのように、言葉を継ぐ。


「本当なら、東区の人間、ほとんど全滅させるはずだったんだよ?でも、誰かさんたちがさ、ヴァルゴイアをあっさり片付けちゃうから……」


 顔をしかめ、子どもが拗ねるように不満をこぼす。


「予定の三分の一しか魂、捧げられなかったんだよねぇ。そのせいで、アモンの力も不完全でしか呼び出せなかったんだから……ほんっと迷惑」


 唇を尖らせ、ぷいっと顔を背けるスピナ。

 場違いな仕草と口調。だがその内容は、あまりに異常だった。

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