カイの胸中
カイはティアをしっかりと抱きかかえたまま、滞在中の宿屋へと足を急がせていた。
その間、ティアは彼の肩口に顔を埋め、震える声で「ごめんなさい」「ごめんなさい」と何度も繰り返す。
微かに肩を揺らすその感触から、彼女が泣いていることは明白だった。
──謝っているのは、ジークハルトや、その隣にいたあの女に対して、か。
そう思った瞬間、カイの奥底から、どうしようもない怒りがせり上がる。
──クソっ!!何やってんだ、俺は!!
ジークハルトがティアの髪を鷲掴みにしたあの瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
もしレイ、アルセイル、リュシオンが止めてくれなければ──
あの場で槍を振るい、ジークハルトの首を刎ねていたかもしれない。
それほどまでに、我を忘れていた。
そして今もなお、怒りは収まらない。だがそれ以上に、自分の詰めの甘さに、腸が煮えくり返る。
ティアの過去に何があったのか……詳しくは知らない。
ただ、これほどまでに必死に謝罪し、許しを乞い、泣きじゃくる彼女を見る限り、「何か」を犯したのは間違いない。
それでも……それでも、カイは思う。
ティアには、笑っていて欲しかった。
おそらく彼女は、かつてミレナ王国で罪を犯し、罰として追放されたのだろう。
砂漠で死にかけたというのも、その罰の延長線にあるのかもしれない。
だが──
彼女は変わった。
いや、変わったというより、元々あった本質が浮かび上がってきただけなのかもしれない。
今のティアは、自分のことを二の次にしてでも仲間のために動き、困っている人には見返りも求めず手を差し伸べる。
自分を犠牲にしてでも、誰かの笑顔を守ろうとする。
そんなことは、一朝一夕でできることじゃない。計算でも演技でもできない。
だからこそ、彼女の行動は本物だ。
過去は消えない。だが、今のティアは間違いなく、誰かのために生きている。
その姿勢は、きっと元々、彼女の“根”にあったものなのだ。
宿に戻ると、カイは他の客の目を避けるようにして、ティアを抱えたまま二階の一室に入った。
扉を静かに閉めると、外の喧騒はまるで嘘のように遠ざかり、室内には彼女の微かな嗚咽だけが残った。
「ティア……大丈夫か?」
ベッドの端にそっと彼女を下ろす。
ティアはゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた睫毛が、部屋の灯りの下でかすかに震えている。
「……ごめんなさい。あんな形で……また、迷惑をかけてしまって」
その言葉に、カイは眉をひそめた。
迷惑なんて、そんなふうに思っていたことすら、悔しいほど悲しかった。
「謝るなよ。……俺が、止められなかった。もっと早く気づいていれば、あんな目に遭わせずに済んだのに……」
そう言って、カイは彼女の手を軽く取る。
ティアの指先は、まだ冷たく、細かく震えていた。
細くて、壊れそうな手だった。自分の手の中にすっぽり収まるその小さな手。
ただでさえ華奢な身体が、まるで怯える子猫のように、さらに小さく縮こまっている。
今すぐにでも、この小さな身体を包み込んで、力いっぱい抱き締めてやりたかった。
その震えも涙も、全部自分が受け止めてやりたかった。
しかし、カイは自分の立場上、軽率に行動してはいけないことは自覚していたので、何とか理性で押し留める。
「彼はミレナ王国の王族だろう。一度式典で、遠目にだが彼を見た事がある。……すまないが、さっきの会話、少しだけ聞いてしまった」
その一言に、ティアの肩がピクリと震えた。
恐怖とも羞恥ともつかない感情が彼女を突き動かし、俯いたまま言葉を失う。
だが、カイは静かに、はっきりと告げた。
「奴がどれだけ偉かろうが、王族だろうが……お前に手を上げていい理由にはならない」
カイの声は静かだが、内に宿す怒りは消えていない。
ティアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿るのは、自分を許せないという哀しみ。
「私は……カイや、みんなに心配してもらう資格なんてないの。商隊に拾われる前の私は……許されない罪を犯した罪人よ」
その声はか細く、けれど確かに震えていた。
まるで自分で自分を断罪するように、吐き出された告白だった。
その時、扉が勢いよく開いた。
「ティア、大丈夫!?」
駆け込んできたのは、息を切らしたエリー、ノア、ルゥナの三人だった。
その後ろから、やや遅れてレイも姿を現す。
「ティア、ごめん……私、見てることしかできなかった」
「私も……異変に気づいたのに、すぐに助けてあげられなくて、本当にごめんね」
「ティア、元気ない。ルゥナ、心配……」
三人とも今にも泣き出しそうな顔で、ティアに駆け寄る。
その真っすぐな心配の声に、ティアは目を大きく見開いた。驚きと戸惑いが混じったような表情。
けれど次の瞬間、眉根をぎゅっと寄せ、堪えていたものが一気にあふれ出した。
「あり……がと……でも、私は……誰かに、優しくしてもらっていい人間じゃ、ないの……っ」
肩を震わせ、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ティアは顔を両手で覆い堰を切ったように泣き崩れた。
彼女がこんなにも苦しそうに泣く姿を、誰も見たことがなかった。
普段のティアは、確かに笑っていた。
心から楽しそうに見えていたし、周囲を明るくしてくれる存在だった。
けれど、今思えばあの笑顔には、どこか無理をしていた部分があった。
本人すら気づかないほど自然に、けれど確かに、何かを押し殺していた。
過去の罪か、抱えてきた痛みか。
その“何か”が、彼女の心の奥に影を落とし、笑顔に薄い膜のような違和感を纏わせていたのだ。
その仮面が外れた今、ようやく本当の「ティア」が現れた気がして――胸が痛んだ。
エリーがそっとティアの隣に腰を下ろし、その背に優しく手を添える。
ノアは涙をこらえながらも、彼女の手を握りしめた。
ルゥナは小さな手でティアの腕に触れ、ぽつりと呟く。
「ティア、ルゥナの大事な人。だから泣かないで……ね?」
その純粋な一言に、ティアの嗚咽はさらに深くなる。
カイは部屋の隅で静かに立ち尽くしながら、その光景を見守っていた。
言葉にならない感情が胸の内に渦巻いている。
けれど、今は仲間たちのあたたかさに、ティアの心が少しでも救われることを願うばかりだった。
「カイ」
いつの間にか隣に立っていたレイが、低い声で名を呼んだ。
その視線は鋭く、言葉以上に多くを語っている。
「分かってる」
カイはそちらを振り返ることなく、短く返す。
それは自分自身への言い聞かせのようでもあった。
だがレイは、その言葉だけでは納得しなかった。
たとえ口にしなくても、今のカイの表情からは、理性と感情の狭間で揺れているのが痛いほど伝わってくる。
「分かってるならいい。……立場と使命さえ、忘れてなければな」
冷静なようでいて、どこか自嘲気味なレイの声。
その言葉に、カイは口元だけで薄く笑う。
「はっ。それは俺に向けた忠告か?それとも──自分にも言い聞かせてるのか?」
レイは少しだけ間を置き、目を伏せたまま呟く。
「……どっちもだよ」
互いの胸の内を覗き込むような会話。
けれどそれ以上は何も言わず、二人は再び黙ってティアたちの方へと視線を戻した。




