ティアの思いつき
刻一刻と変わる患者の容態に、医療班は一息つく暇もなかった。
とりわけ最初の一週間は、まるで戦場だった。
発熱、発汗、錯乱。
燻熱病に侵された者たちは、次々に倒れていき、わずかな希望に縋って担ぎ込まれてきた。
治療の甲斐あって回復する者もいたが、手遅れの者も少なくない。
その度、誰かの泣き声が診療所の隅から響いた。
ティアは手を休めることなく、患者の額を冷やし、薬湯を作り、汗を拭い続けた。
その手の中で、命の灯火が弱まっていく瞬間に何度も立ち会った。
目を閉じれば、泣き崩れる家族の姿が焼き付いて離れなかった。
それでも。
二週目に入る頃、状況は少しずつ動き始める。
バルニエと街の修道士たち、そしてカイたちの探索によって、瘴蚊の繁殖源が特定されたのだ。
封鎖された水場、燻煙処理された地下坑道。
数日後には患者数も減り、回復者が目に見えて増え始めた。
街に、わずかながら安堵の色が見え始めた。
その頃、ティアは薬草を干しながらぽつりとつぶやいた。
「もっと、感染を防げる手段があればいいんだけど……」
その声に、一緒に作業をしていたエリーとノアが顔を見合わせて、ほぼ同時に首を傾げた。
「手段って?」
「ティアったら、また何か思いついたんでしょ?」
二人にとって、ティアの突飛な発想はもはや日常茶飯事だった。
少し期待するような、少し呆れたような声色で、ノアが笑う。
「うん。オイルを使えば防虫効果はあるけど、今のやつって刺激が強すぎて、子供やお年寄りには使えないでしょ?街中をずっと燻煙し続けるわけにもいかないし……」
ティアは顎に指を添えたまま、どこか遠くを見つめるようにして思案を続けた。
前の世界では、電気式の虫除け器具が一般家庭にも普及していた。空間を覆うようにして虫を遠ざけるアレが、この世界にもあれば──。
「室内には魔道具式虫除け器具とか、作れないかな?」
ティアの声に、ノアとエリーが顔を見合わせる。
「魔道具式虫除け器具……?」
「また急に難しいこと言い出した」
「いや、でも案外いけるかもって思って。薬草を霧状にして部屋に広げるような仕組み。彫魔で調整できれば、安全だし火もいらない。例えば、そう……霧煙炉とかどうかな?」
ティアは指先で空中に四角を描くようにしながら、頭の中のイメージを言葉にしていく。
「日々の暮らしに寄り添う、安心の防虫魔道具。霧煙炉は、彫魔の加護によって薬草をやさしく霧化して、お部屋全体にふんわりと香気を広げるの。蚊とか羽虫、ダニも寄せつけないし、小さな子どもにもやさしい処方設計にする。使い方も簡単で、薬草を入れて蓋を閉じるだけ。火も煙も使わないから安心でしょ?」
「……なんか、もう売り文句まで出来てるじゃない……」
エリーが呆れ気味に笑うと、ノアも楽しそうに吹き出した。
「でもいいかも。それ、実用化できたら街の人たちにも喜ばれるよ」
「でしょ?試してみたい草はもう目星がついてるの」
ティアは目を輝かせながら話した。
「それともうひとつ。オイルの代わりになるものが作れたら、もっと安心できると思うんだけど」
「代わりって、どういう意味?」
「霧煙炉はあくまで室内専用でしょう?でも外で作業する人や子供たちにも使える、肌に優しい防虫アイテムがあったらいいなって。オイルだと刺激が強すぎて、小さい子やお年寄りにはちょっと心配だし」
「うーん、確かに……。子供だけじゃなくて、肌が弱い人だと赤くなったりもするもんね。そういうのがあるとすごく助かると思う」
三人はその場で顔を見合わせ、思案顔になる。
最近では、ティアのひらめきに触発されて、エリーとノアも一緒に考える癖がついていた。ふたりとも、ただ聞くだけでは終わらず、「じゃあ、どうすれば?」と前向きに考えてくれる。そんな関係がティアには心地よかった。
そのとき。
「ティア!手、洗ってきたよ!ルゥナも手伝う!」
ルゥナが元気な声とともに戻ってきた。手に少し水のしずくを残したまま、薬草干しの作業に加わる。
「ありがとう、ルゥナ。……でも、ちょっと薬草の匂いがきついから無理はしないでね」
「うわっ、ほんとに……すごい匂い」
獣人であるルゥナは、人一倍嗅覚が鋭い。そのため、乾燥中の薬草の強い香りに思わず顔をしかめた。
「私たちでも結構くるから、ルゥナには余計にキツいかもね」
エリーがくすっと笑いながら言う。
「石鹸よりもキツい~」
鼻をつまんで言うルゥナに、ノアが笑いながら声をかけた。
「無理しないで、配給の手伝いのほうに回ってもいいよ?」
その何気ない会話の中で——
「石鹸……。そうだ、石鹸!」
突然ティアが声を上げ、立ち上がるような勢いで言った。
三人は驚いて顔を見合わせ、ノアが首を傾げながら尋ねる。
「え、何か思いついたの?」
「うん!石鹸に防虫効果の薬草を混ぜて作れないかな?それに、今の石鹸をもっと質のいいものに改良できたら、子供たちもすすんで手を洗うようになるかもしれない!」
「でも今の石鹸だってけっこう高価だし、それを改良して一般にも配るって……さすがに難しくない?」
「そうだよね、材料も限られてるし」
エリーとノアが現実的な懸念を口にする。
それを聞いて、ティアは少しだけ口を引き結んだ。けれど、すぐに首を横に振って笑みを浮かべる。
「うん、たしかに今すぐは難しい。でも、無理じゃないと思うの。原料を見直せばもっと安価な作り方ができるかもしれないし、泡立ちや香りの部分だけでも改良できれば、それだけで手洗いの習慣は変えられる」
そう言って、ティアは薬草の束を見つめた。
「今は“作る”ことを考える人が少ないだけ。だったら私がやってみたい。少しでも安心できる毎日になるなら、そのための工夫はいくらでもしたいから」
ティアのまっすぐな言葉に、エリーとノアは目を合わせ、小さく笑った。
「ほんと、ティアらしいよね」
「じゃあ私たちも協力しないとだね。ね、エリー?」
「もちろん。石鹸のこと、材料とか調べてみる?」
「うん、頼れる人も探してみよう」
けれどその時、ティアは少しだけ考え込み、ゆっくりと首を振った。
「……でも、まずは今すぐできそうなことから始めよう。たとえば、さっき話した“霧煙炉”。防虫効果のある薬草を室内で使えるようにできれば、それだけで感染症の予防になるかもしれない」
「確かに。石鹸より先に、現実的かもね」
ノアが頷くと、エリーも関心を寄せるように言った。
「ティアの中ではもう具体像があるんだよね?」
ティアは自信ありげに頷いた。
「うん。彫り師のヘルマンさんに彫魔を教えてもらったこと、あったでしょ? その応用で作れないかなって思ってるの。ヘルマンさんや街の職人さんたちにも協力してもらう必要があるけど……」
ティアが思い描く霧煙炉は、術式彫魔による内部加熱機構を備えた魔道具だ。薬草を内部に入れると、自動で加温・液化・霧状拡散までを行い、香りによって蚊や羽虫、ダニといった害虫を寄せつけない。火も煙も使わず、使い方もシンプル。室内向けの衛生器具として、子どもや年配者がいる家庭でも安心して使える設計を目指していた。
「香りで虫を防ぐってことは、使う薬草にもこだわる必要があるよね?」
「うん。それも、もう目星はついてる。シトロネラとユーカリ。どちらも強い防虫効果があるし、加熱にも強くて、霧煙炉で使っても効果が期待できる。何より、香りも清涼感があってやさしいから、小さな子にも合うと思う」
「へえ……なんか、それ聞いただけでもよさそうに思えてきた」
「調合次第で、夜用や赤ちゃん向けにも調整できると思う。香りの好みや体質もあるから、そこも試していかないとだけど」
ノアとエリーが頷く。
ここはドワーフの国にある街、ドルマリス。特別な職人街ではないが、住人の多くを占めるドワーフたちは、精巧な技術と実直なものづくりで知られている。特に、彫魔のような繊細な技術にも通じた職人が多く、頼ることさえできれば、実現の可能性は十分にある。
「よし。まずはヘルマンさんに相談してみよっ。簡単な構造でいい。最初の一つを作れれば、あとは工夫と改良を重ねていけると思うから」
ティアが薬草を抱え直しながら勢いよく言うと、そばにいたルゥナがぴょんと身を乗り出した。
「話はよく分からなかったけど、ルゥナも手伝う!」
自分でも何を言っているのか分からないように首を傾げながらも、元気よく手を挙げる。
その様子に、ノアが吹き出した。
「ほんとに分かってないでしょ」
「でもティアが何か作るなら、きっとすごいものでしょ?ならルゥナも手伝いたい!」
ルゥナの目は真剣そのもので、ただのお節介ではなく、心からの応援だった。
ティアはくすりと笑い、頷く。
「ありがとう、ルゥナ。そしたら、材料を集めるときにはお願いしようかな。シトロネラとユーカリ、どちらも見分けが難しいから」
「任せて!鼻なら誰にも負けないよっ」
ルゥナが胸を張ると、また一同に笑いが広がる。
そうして、ティアの思いつきにより、暮らしを守る魔道具づくりの第一歩が始まった。




