表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/65

過呼吸

 目の前の男の姿を認識した瞬間、ティアの中で何かがはじけた。


 「……っ、かひゅっ」


 喉が奇妙な音を立て、空気を吸えない。

 息が、うまくできない。視界が狭まり、世界の輪郭がぼやけていく。


 焦点が合わず、胸の奥がざわつき、動悸が早鐘のように鳴り響く。

 息を吸おうとすればするほど、苦しさが増していく。


 ──ああ、だめだ。呼吸が、呼吸ができない。


「ティア?」


 隣にいたルゥナが、不安そうにティアを見上げた。

 彼女の声にすら反応できないまま、ティアはその場に崩れそうになる。


 無意識のうちに、傍らに立っていたカイの腕にすがりついた。

 震える手でカイの服を掴み、すがるようにしがみつく。


「ティア!?おい、大丈夫か!」


 カイがすぐに気づいて、ティアの肩を支える。


 呼吸が異常だ。浅く、速く、喉の奥で空気が擦れる音がする。


「くそ……過呼吸か!」


 カイはティアの頬に軽く手を添え、顔を覗き込んだ。

 焦点の合わない瞳、蒼白な顔色、止まらない震え――すべてが、彼女の心が極限状態にあることを示している。


「落ち着け、ティア。……ゆっくり息をしろ」


 優しい声でそう促すと、カイはティアの肩をしっかりと抱き寄せた。


 その体温が、震えるティアの背にじんわりと伝わる。

 彼女の荒れた呼吸に、自らのリズムを重ねていくように、カイはそっと背を撫でた。

 ぴくり、とティアの肩が微かに揺れた。ほんのわずかだが、彼女の呼吸がゆっくりと変わり始めている。


「ドルマリスに入れないのなら、どうするつもりだ。王都まではまだ距離があるだろう」


 喧騒の中、ジークハルトの声だけがやけに耳に残る。

 ティアの体がびくりと震えた。カイの腕の中で、息の浅さはまだ治まっていない。


「カイ、あの一行……恐らくミレナ王国の使節団だ」


 レイがそっとカイの耳元に囁いた。彼の声には、かすかな緊張と警戒が滲んでいる。


「ティアはミレナ王国の国境の砂漠に倒れていた」


 カイは、彼女と出会った時の光景を思い出す。

 当時の服装や言葉遣いから、身なりの良い貴族出身で、何らかの事情を抱えていたことは容易に想像がついた。


 そして今。

 ミレナ王国の王家の紋章を掲げた使節団と、それを率いる一際目立つ男──。


 その姿を見た直後から、ティアの様子は明らかに変わった。


 カイ自身、あまり式典などに出ることはなかったが、過去に遠目で彼を見かけたことがある。

 記憶を辿れば、その男は確か、ミレナ王国の第二王子──ジークハルト。

 ティアの意識は、完全にあの男に向けられていた。


 ジークハルトが言葉を発するたびに、ティアの体がわずかに硬直する。


「ジークハルト様、どうされたのですか?」


 馬車の中から、女の声がした。

 品のある声音と佇まいが辺りに緊張をもたらす。


 その瞬間、ティアの目が一瞬だけ大きく揺れた。

 彼女は息を呑むように目を見開いたまま、動けない。

 呼吸を忘れている。みるみる顔から血の気が引いていく。


 明らかに、強い記憶が引き金になっている。これは、トラウマの反応だ。


 ──まずい。


「ティア、呼吸をしろ!」


 カイは低く、はっきりとした声で呼びかけると、彼女の肩をしっかりと抱き寄せた。

 ティアの視線は宙をさまよい、焦点を結ばない。まるで、自分の中に閉じ込められているようだった。


 その耳元に、カイはさらに声を落とし、囁くように言った。


「──俺だけ見てろ。他の声は聞くな、見なくていい。……俺のことだけ、意識しろ」


 そう言って、カイはティアの両耳をそっと塞いだ。

 まるで外の世界と彼女を切り離すように、優しく包み込む。


 そして彼女の顔を両手で支え、強くではなく、逃げ場のない穏やかな視線でその瞳を見つめる。

 ティアの震える瞳が、徐々に、カイの瞳の中に焦点を結び始める。


「大丈夫。俺がいる。怖くない。……呼吸を、俺と合わせろ」


 彼の落ち着いた息遣いが、ティアの乱れた呼吸と重なっていく。

 やがてティアの肩の震えが、ほんの少しだけ、和らいだ。

 カイの手の中で、ティアの呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 焦点を失っていた瞳に、ゆっくりと光が戻り始めた。

 過呼吸に追い詰められた心が、確かな温もりの中で、現実へと引き戻される。


「……カイ?」


 弱々しい声が、彼の名を呼んだ。

 それは確かに、正気を取り戻したティアの声だった。


「ティア!大丈夫!?ねぇ、大丈夫?」


 ルゥナがすぐそばで、不安げに覗き込んでいた。

 泣きそうな目でティアを見つめ、今にも声を詰まらせそうな様子だった。

 じっと立ち尽くしながら、小さな両手をぎゅっと握りしめている。


 エリーとノアもすぐに近づき、心配そうに顔を覗き込む。


「ごめんね……」


 ティアは小さく笑った。涙をこぼすこともなく、ただ儚げに。

 何も語らず、それ以上は聞かないでほしいとでも言うように。


 エリーはティアの手元に視線を落としながら、そっと声をかけた。


「ティア……話ならいつでも聞くからね」


 ノアは迷いながらも、静かにその場に寄り添う。

 二人は無理に問いただそうとはしなかった。

 ティアは小さく頷いて、気丈に微笑みながら言った。


「……もう、大丈夫だから。ありがとう」


 そして少しだけ顔を上げて、カイのほうをまっすぐ見つめた。


「カイも、ありがとう。助けてくれて」


 その笑顔に混じる微かな嘘を、カイは痛いほど理解していた。

 けれど、それを無理に剥がすことはしなかった。


 視線の端で、ティアは馬車の一団が街道を進み、遠ざかっていくのを見た。

 ミレナ王国の使節団──そして、ジークハルトの姿。


 誰にも気づかれないように、ほんの一瞬だけ、ティアの表情に深い影が差す。


 けれどその影も、仲間たちの声に紛れて、すぐに霧散した。


「団長が門番と話をつけてくれたよ!中に入れるって!」


 エリーが明るく言い、ノアも「よかった……これで動けるね」と穏やかに続けた。


「行こう、急がなきゃ。ドルマリスの勲熱病を止めるために」


 エリーの言葉に皆が頷く。

 それぞれが表情を引き締め、次に進むべき目的地へ向かって歩き出す。


 ティアもまた、その後を静かに歩み始めた。

 あの影を、胸の奥にそっとしまい込みながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ