過呼吸
目の前の男の姿を認識した瞬間、ティアの中で何かがはじけた。
「……っ、かひゅっ」
喉が奇妙な音を立て、空気を吸えない。
息が、うまくできない。視界が狭まり、世界の輪郭がぼやけていく。
焦点が合わず、胸の奥がざわつき、動悸が早鐘のように鳴り響く。
息を吸おうとすればするほど、苦しさが増していく。
──ああ、だめだ。呼吸が、呼吸ができない。
「ティア?」
隣にいたルゥナが、不安そうにティアを見上げた。
彼女の声にすら反応できないまま、ティアはその場に崩れそうになる。
無意識のうちに、傍らに立っていたカイの腕にすがりついた。
震える手でカイの服を掴み、すがるようにしがみつく。
「ティア!?おい、大丈夫か!」
カイがすぐに気づいて、ティアの肩を支える。
呼吸が異常だ。浅く、速く、喉の奥で空気が擦れる音がする。
「くそ……過呼吸か!」
カイはティアの頬に軽く手を添え、顔を覗き込んだ。
焦点の合わない瞳、蒼白な顔色、止まらない震え――すべてが、彼女の心が極限状態にあることを示している。
「落ち着け、ティア。……ゆっくり息をしろ」
優しい声でそう促すと、カイはティアの肩をしっかりと抱き寄せた。
その体温が、震えるティアの背にじんわりと伝わる。
彼女の荒れた呼吸に、自らのリズムを重ねていくように、カイはそっと背を撫でた。
ぴくり、とティアの肩が微かに揺れた。ほんのわずかだが、彼女の呼吸がゆっくりと変わり始めている。
「ドルマリスに入れないのなら、どうするつもりだ。王都まではまだ距離があるだろう」
喧騒の中、ジークハルトの声だけがやけに耳に残る。
ティアの体がびくりと震えた。カイの腕の中で、息の浅さはまだ治まっていない。
「カイ、あの一行……恐らくミレナ王国の使節団だ」
レイがそっとカイの耳元に囁いた。彼の声には、かすかな緊張と警戒が滲んでいる。
「ティアはミレナ王国の国境の砂漠に倒れていた」
カイは、彼女と出会った時の光景を思い出す。
当時の服装や言葉遣いから、身なりの良い貴族出身で、何らかの事情を抱えていたことは容易に想像がついた。
そして今。
ミレナ王国の王家の紋章を掲げた使節団と、それを率いる一際目立つ男──。
その姿を見た直後から、ティアの様子は明らかに変わった。
カイ自身、あまり式典などに出ることはなかったが、過去に遠目で彼を見かけたことがある。
記憶を辿れば、その男は確か、ミレナ王国の第二王子──ジークハルト。
ティアの意識は、完全にあの男に向けられていた。
ジークハルトが言葉を発するたびに、ティアの体がわずかに硬直する。
「ジークハルト様、どうされたのですか?」
馬車の中から、女の声がした。
品のある声音と佇まいが辺りに緊張をもたらす。
その瞬間、ティアの目が一瞬だけ大きく揺れた。
彼女は息を呑むように目を見開いたまま、動けない。
呼吸を忘れている。みるみる顔から血の気が引いていく。
明らかに、強い記憶が引き金になっている。これは、トラウマの反応だ。
──まずい。
「ティア、呼吸をしろ!」
カイは低く、はっきりとした声で呼びかけると、彼女の肩をしっかりと抱き寄せた。
ティアの視線は宙をさまよい、焦点を結ばない。まるで、自分の中に閉じ込められているようだった。
その耳元に、カイはさらに声を落とし、囁くように言った。
「──俺だけ見てろ。他の声は聞くな、見なくていい。……俺のことだけ、意識しろ」
そう言って、カイはティアの両耳をそっと塞いだ。
まるで外の世界と彼女を切り離すように、優しく包み込む。
そして彼女の顔を両手で支え、強くではなく、逃げ場のない穏やかな視線でその瞳を見つめる。
ティアの震える瞳が、徐々に、カイの瞳の中に焦点を結び始める。
「大丈夫。俺がいる。怖くない。……呼吸を、俺と合わせろ」
彼の落ち着いた息遣いが、ティアの乱れた呼吸と重なっていく。
やがてティアの肩の震えが、ほんの少しだけ、和らいだ。
カイの手の中で、ティアの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
焦点を失っていた瞳に、ゆっくりと光が戻り始めた。
過呼吸に追い詰められた心が、確かな温もりの中で、現実へと引き戻される。
「……カイ?」
弱々しい声が、彼の名を呼んだ。
それは確かに、正気を取り戻したティアの声だった。
「ティア!大丈夫!?ねぇ、大丈夫?」
ルゥナがすぐそばで、不安げに覗き込んでいた。
泣きそうな目でティアを見つめ、今にも声を詰まらせそうな様子だった。
じっと立ち尽くしながら、小さな両手をぎゅっと握りしめている。
エリーとノアもすぐに近づき、心配そうに顔を覗き込む。
「ごめんね……」
ティアは小さく笑った。涙をこぼすこともなく、ただ儚げに。
何も語らず、それ以上は聞かないでほしいとでも言うように。
エリーはティアの手元に視線を落としながら、そっと声をかけた。
「ティア……話ならいつでも聞くからね」
ノアは迷いながらも、静かにその場に寄り添う。
二人は無理に問いただそうとはしなかった。
ティアは小さく頷いて、気丈に微笑みながら言った。
「……もう、大丈夫だから。ありがとう」
そして少しだけ顔を上げて、カイのほうをまっすぐ見つめた。
「カイも、ありがとう。助けてくれて」
その笑顔に混じる微かな嘘を、カイは痛いほど理解していた。
けれど、それを無理に剥がすことはしなかった。
視線の端で、ティアは馬車の一団が街道を進み、遠ざかっていくのを見た。
ミレナ王国の使節団──そして、ジークハルトの姿。
誰にも気づかれないように、ほんの一瞬だけ、ティアの表情に深い影が差す。
けれどその影も、仲間たちの声に紛れて、すぐに霧散した。
「団長が門番と話をつけてくれたよ!中に入れるって!」
エリーが明るく言い、ノアも「よかった……これで動けるね」と穏やかに続けた。
「行こう、急がなきゃ。ドルマリスの勲熱病を止めるために」
エリーの言葉に皆が頷く。
それぞれが表情を引き締め、次に進むべき目的地へ向かって歩き出す。
ティアもまた、その後を静かに歩み始めた。
あの影を、胸の奥にそっとしまい込みながら。




