夜の出立、約束の灯火
ルゥナの話によると、彼女の故郷は五十人ほどの小さな獣人の村だったという。
村には子供がルゥナ一人しかおらず、老人たちは見せしめとして殺され、“商品”として価値があると判断された年齢の獣人たちは、残らず連れ去られた。
獣人は本来、人族よりも身体能力に優れ、戦闘にも長けた種族だ。
そんな彼らが、不意打ちとはいえ、あっさりと捕らえられたということは、襲撃者は素人ではない。
計画的かつ組織的に動いた者たちであり、実力も相当だったと見て間違いない。
おそらく、大人たちは決死の覚悟で、ルゥナひとりに希望を託して逃がしたのだ。
「みんなを……助けて」
少女の願いは、あまりにも重かった。
すでに捕らわれた者たちを救うというのは、この世界では簡単なことではない。
ましてや、奴隷制度が合法として存在しているこの大陸において、一度「所有物」として扱われた者を取り戻すことは、ほぼ不可能に近い。
三人は、しばし沈黙のまま顔を見合わせた。
その表情には、それぞれに言葉にできない戸惑いと困惑が浮かんでいる。
「……捕まった人たちって、今どこにいるの?」
エリーが、慎重に言葉を選びながら尋ねた。
ルゥナは少し考えたあと、まっすぐティアたちを見つめて、はっきりと答える。
「……南にある町。名前、わかんない。でも……大きな門があって、人間がいっぱい。奴隷商って人に、みんな……連れていかれた……」
町に入る前に大人たちがルゥナを逃がしてくれたのだという。
その町には、噂に聞く合法の奴隷市場がある。
きっとルゥナの家族も、そこに売られてしまったのだろう。
胸の奥がざわつく。
ルゥナの望みを叶えようとすれば、商隊にも仲間たちにも迷惑がかかる。
もし見つかれば、ティア自身もただでは済まない。最悪、奴隷として売られる危険だってある。
それでも。
目の前の少女の訴えを、見過ごすことはできなかった。
親を奪われ、村を焼かれ、それでも生き延びた少女の、震える声。
ティアは……かつて、レティシアと呼ばれた少女は、誰からも愛されなかった。
けれど、どこか遠い前世では、たしかに誰かに愛されていた記憶がある。
それが今、ルゥナを放っておけない理由として胸の奥で脈打っていた。
「人を見捨てられない」──日本人だった頃の、偽善的でお人好しな感覚かもしれない。
けれど、泣きじゃくるルゥナの姿は、幼い頃のレティシアとしての自分と重なって見えた。
誰かに抱きしめてほしくて、愛してほしくて、ただ泣くことしかできなかった、あの夜の自分に。
ルゥナはまだまだ、親の愛情や温もりが必要な時期だ。
ティアは、ゆっくりと拳を握りしめた。
「……ルゥナ。両親のところへ行こう。助けられるかは分からない。でも、せめて……様子だけでも見に行きたい」
「ティア……!?」
エリーが驚いて声を上げ、ノアも慌ててティアの腕を掴む。
「だめだよ!危なすぎるよ!相手は奴隷商だよ?ただじゃ済まないって!」
「私もそう思う……団長や仲間たちに迷惑がかかるよ……!」
当然の反応だった。
ティアはそれでも、視線をそらさずに言葉を返す。
「わかってる。でも、それでも……私は見て見ぬふりなんてできない。たった一人の子どもから、両親まで奪われるなんて……そんなの、私には耐えられない」
エリーとノアは、ティアの目を見て、言葉を失った。
「……ティア、戻ってこれなかったらどうするの?」
「これは私の我儘だから、二人はここに残ってね。もし私が戻らなかったときは……商隊には先に進んでもらって。団長には、私が勝手な行動を取ったって伝えて謝ってほしい。それと……拾ってくれたこと、仲間にしてくれたこと、ちゃんと感謝してるって伝えて」
その眼差しに、迷いはなかった。
「エリー、ノア。あなたたちと友達になれて、本当に嬉しかった。……ありがとう」
──もう、決めている。
そんな覚悟の強さを、エリーとノアはよく知っていた。
今さら何を言っても、この頑固な友人の心は揺るがないだろう。
二人は、ただ黙って視線を交わす。
短い沈黙のあと、ノアがそっとティアに歩み寄り、強く抱きしめた。
「止めても行くんでしょ?」
ノアの問いに、ティアは無言で頷いた。
「……分かった。でも、お願い。約束して。絶対に……帰ってきて」
その声には、恐れと願いが滲んでいた。
「絶対、無事に帰ってきてよ……ティア、ルゥナ」
エリーの声もまた震えていたが、その瞳はまっすぐティアを見据えていた。
その夜。
皆が寝静まり、野営地が静寂に包まれた頃。
ティアは、ルゥナと共にそっとテントを抜け出した。
夜の闇へと足を踏み出したその瞬間だった。
「どこに行く気だ?」
低い声に足を止める。
振り返ると、テントの前にカイとレイが立っていた。
「カイ……レイ……なんで……?」
ティアが驚きに目を見開くと、レイが腕を組んで小さくため息をついた。
「夕飯の時から様子が変だったからね。エリーとノアに聞いたけど、うまく誤魔化された。でも、これは何かあるなって思ってさ。来てみたら……やっぱりね」
カイはティアを無言で見つめていたが、やがてルゥナの姿に気づくと、視線を細めた。
「……この子のことで何かあったんだな?」
ティアは小さく息を吐き、覚悟を決めるように口を開いた。
ルゥナの故郷が襲われ、彼女だけが逃げ延びたこと。
捕らわれた家族を救いたいという願い。
そして、その想いに心を動かされた自分の気持ちを、隠さずに語った。
静かな夜に、ティアの声だけが響いていた。
全てを聞き終えたカイは、しばし沈黙し──やがて、低く言った。
「無理だ。相手は奴隷商。それも、合法的に商売してる連中だ。俺たちみたいな素人が首を突っ込んだところで、どうにかできる相手じゃない」
「……それでも行くの。どうしても、ルゥナの願いを見過ごせないの」
ティアの声は震えていたが、その目は真っすぐで、強かった。
カイは眉間に皺を寄せ、短く尋ねた。
「商隊を……抜けるつもりか?」
「……うん。わがままだって、わかってる。でも……それでも、行きたいの」
カイは黙り込み、ティアと見つめ合う。
わずかの間に、いくつもの感情が交錯していた。
その瞳に宿る覚悟を見て、カイは大きく息を吐いた。
「ったく……どうしてお前は、いつもそうなんだよ……!」
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしると、カイはティアの前に歩み出た。
「もういい。俺も行く」
「えっ……!?」
今度はティアの方が目を見開いた。
「だ、だめだよカイ、これは私が勝手に──」
「バカ言うな。お前一人で乗り込んで、どうにかなる話じゃないだろうが。……それに」
カイはちらりとルゥナを見た。
「子どもの前で、仲間を見殺しにする人間にはなりたくない」
「俺たちが止めなかったら、一人ででも行ってたんだろ?なら、後悔しないように手を貸すさ」
レイも続いて言った。
ティアは言葉を失い、何度も瞬きを繰り返した。
その時、草陰から足音が聞こえた。
現れたのは、商隊に同行している獣人の三人。
狼のゼルク、虎のライガ、熊のグラド──それぞれ、鋭い目をしていた。
「俺たちも、連れてってくれないか」
先に口を開いたのは、灰色の毛並みを持つゼルクだった。
「君たちは……」
「俺たちは元々、十人ほどの仲間で旅をしていた。けど、迫害と奴隷狩りで、捕まるか、命を落とすか……今では三人だけだ」
ライガが悔しそうに語る。
「外の世界に絶望しかけてたところを、団長に拾われた……その恩はあるが、同じ獣人として、この子を放っておくことはできない」
大柄なグラドが、真剣な目でティアを見つめる。
「命を懸ける価値がある。俺たちは、そう判断した」
ゼルクの言葉は、簡潔で力強かった。
ティアは、胸がいっぱいになり、やがてそっと頷いた。
「……わかった。でも、絶対に……生きて帰ろう。全員で」
こうして、ティア、ルゥナ、カイ、レイ、ゼルク、ライガ、グラド。
七人の、小さな救出隊が結成された。
密かに野営地を離れようとしたその時だった。
「……おい」
湖畔の小道に、屈強な影が立っていた。
団長だった。
「だ、団長……!」
ティアが小さく叫ぶ。
緊張が一気に広がる。一同は、思わずその場で硬直した。
怒鳴られるか、止められるかと構える中、団長は腕を組んで静かに言った。
「この先、ドワーフの国までは、まだ一月はかかる。補給も馬の整備もあるしな。……というわけで、この湖畔で二日、滞在することにした。出発は、三日目の朝だ」
言葉の意味を理解するまで、しばし時間がかかった。
だが、団長の意図は、誰の胸にも確かに届いた。
二日間の猶予を与えてくれたのだ。
ティアは、思わず駆け寄り、深く頭を下げた。
「必ず……必ず戻ってきます。ありがとうございます、団長……!」
「夏とはいえ、夜は冷える。馬を走らせれば、なおさら体が冷えるだろう。それに──逃げた子供を追って、不穏な連中が町の外に出てきているかもしれん。……これを持っていけ」
団長が無造作に投げ渡してきたのは、商品でもあるはずの一着のケープだった。
見慣れたそれは、魔法具。身にまとう者の気配や存在感を薄め、周囲に認識されにくくする効果を持つ特殊な装備である。本来、一般人の手には決して渡らず、犯罪防止の観点から厳重に管理されており、貴族の中でも信用ある者にしか販売されない高級品だ。
それを、ためらいもなくティアたちに託した。その意味を、全員が悟った。
──馬を使え。
──絶対に、帰ってこい。
団長は直接的には何も言わない。だが、「馬を走らせれば冷える」とあえて口にしたことで、それが許可であると示していた。町までは人の足で一日以上。馬を使えば、半日で戻ってこられる。その意図を読み取れ、ということだ。
「嬢ちゃん──」
団長はそっとルゥナに歩み寄ると、そのケープを彼女の肩に優しくかけた。
「……一人で、よく耐えたな」
ごつごつとした手が、小さな頭をそっと撫でる。言葉は少ないが、その仕草には確かな労いと優しさが込められていた。ルゥナの肩がわずかに震えたのを、誰も気づかないふりをした。
「出発は三日目の朝、日の出とともにだ」
団長は背を向け、静かに言葉を続ける。
「遅れたやつは置いていく。……追いつくつもりがあるなら、それくらい自力でやってみせろ」
鼻を鳴らし、団長はそのまま暗がりに消えていった。
その背中に、ティアたちは誰一人として言葉を返せず、ただ深く頭を下げた。
不器用ながらも確かに伝わったその想いを胸に、彼らは改めて心を一つにする。




