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閑話・焚き火と恋のひそひそ話

 ティアが商隊に拾われてから、半年が過ぎた。

 真夏の陽射しは容赦なく肌を焼き、地面からもじわじわと熱が立ち上ってくる。

 だからこそ、今夜の野営地は川のほとり。涼を求めるには、絶好の場所だった。

 夜風は心地よく、木々のざわめきが静かな子守唄のように続いている。


 その傍らで、ティアは一本の糸を編んでいた。

 それは、“願糸(がんし)”と呼ばれる特別な糸。

 願いが叶うとされる、不思議なお守り。

 超常的な奇跡が起こるわけではないけれど、持つ者の心を後押ししてくれる。わずかに幸運を引き寄せる力があり、何よりも「努力しよう」とする気持ちを支えてくれる糸だ。


 ティアの指先は器用に糸を結びながら、ゆっくりと空を見上げた。

 願い──まだ、心の中で形にすることもできないそれを、そっと編み込んでいく。


 背後から、ひそひそと賑やかな声が届いた。


「ねえ、見た?あの二人。水汲みに行ってた時、手ぇ繋いでたよ」

「うそ、ほんとに?やっぱり、あのダムの時から雰囲気おかしかったよね?」

「……あれって、ミナさんとユウリ君のこと?」

「そうそう。ふたりきりで動くことも多かったし、あの時からもう……」


 焚き火のそばで洗濯物をたたんでいた女性陣の一部が、明らかに浮足立った様子で盛り上がっている。

 その中心にいるのは、お喋り好きでお節介なことで知られるメンバーたちだった。

 ティアがちらりと視線を向けると、彼女たちはすぐに寄ってきた。


「ティアちゃんはどう思う?あの二人、付き合ってると思う?」

「え?わ、わたし?」


 糸を手にしたまま、ティアは一瞬目を丸くする。

 けれど、思い出してしまう。さっき見た、あの光景。

 野営の準備をしていたミナとユウリ。彼がそっと彼女の髪に触れ、何かを耳元で囁いたあの瞬間。

 ミナが顔を赤くして笑ったのを、ティアは確かに見た。


「……うん、ちょっと、そんな感じだったかも」

「でしょー!もー、恋の旅路って感じ!ロマンチック!」

「それにしても、ミナさんはしっかりしてるし、ユウリ君も落ち着いてて優しいし。お似合いだよねえ」


 焚き火を囲んだ輪がますます盛り上がる。

 話題はどんどん広がって、とうとうティアに矛先が向いた。


「ティアちゃんはどうなの?旅の途中で恋に落ちたりとか、憧れたりしない?」

「えっ?ないない!」


 ティアは驚いて、両手を振った。首もぶんぶんと横に振ってみせる。


「自分のことで精一杯だよ……」


 そう言って笑ってみせたものの、胸の奥にじわりと疼く記憶がある。

 過去に、ジークハルトに憧れ、夢見て、報われなかった自分。


 どれだけ努力しても、届かない人がいる。選んでもらえない現実。

 あの苦しさを、もう二度と味わいたくない。

 心の中にかすかに灯る“想い”に、怖くて触れられずにいる。

 ティアは静かに編みかけの糸を見つめ、そっと目を伏せた。


 焚き火の火がぱちぱちと静かに弾ける。恋愛トークの熱は冷めやらず、話題はさらに広がっていく。


「でさ、みんなは好きな人とかいないの?旅の途中って、意外とそういうの芽生えやすいって言うし」


 火の明かりが揺らめく中、誰かが水を向けた瞬間、女性陣の輪が一瞬しんと静まる。けれど、それはすぐに笑いに変わった。


「え、私?いるよ。……彫り師さん」

「えぇ!?あの彫り師さん?うそ、意外~!」


 驚きと笑いが混じった声が飛び交う。


「だって一回り以上年上じゃない?」

「だからこそ、落ち着いてていいの。職人気質っていうか、黙々と何か作ってる男の人って、かっこよくない?」

「年の差恋愛ってなんかドラマチックでいいよねぇ」


 話題はどんどん熱を帯びていく。


「でもさ、やっぱり旅団で一番モテるのってエルフの双子と、カイとレイじゃない?」

「わかるー!あの四人は別格だよね。顔面偏差値が高すぎて、並んで歩かれると目が潰れるかと思った」

「どっかの王子様だって言われても、まったく違和感ないもんね」

「ほんとそれ~!」


 誰かが無邪気にそう言ったときだった。

 ティアの指先が、一瞬止まる。

 思わず胸がひやりとする。だが、周囲は冗談半分のトーンで笑っていて、それがただの噂話であると分かり、ティアはそっと胸をなでおろした。


──びっくりした。ただの、冗談か。


 そのときだった。


「戻ったぞー!」


 草を踏み分ける音とともに、討伐隊の一団が野営地へ戻ってくる。


 風に運ばれる血と土の匂い。狩りを終えた男たちの間から、エルフの双子アルセイルとリュシオン。そして、カイとレイの姿が見える。


「うわ、噂をすれば……!」

「帰ってきた帰ってきた!」


 女性たちの輪がざわめく。背筋を正す者、髪を慌てて整える者。それぞれがわずかに浮き立ったような空気を纏い始めた。

 その中で、ひときわ甘ったるい声が響く。


「きゃあ……アルセイル様、リュシオン様……。今日は何を倒したのぉ?」


 くねるように歩み寄ってきたのは、二ヶ月前に加入したばかりの女性、フィロメナ。

 ティアと同じ年頃の彼女は、見る者の目を引くような美貌を持っていたが、振る舞いは露骨なまでに媚びていた。

 アルセイルとリュシオンに身体を寄せ、次にはカイとレイに猫なで声で寄っていく。


「レイ様もお疲れでしょう?お水持ってきてあげよっか?」

「カイ様も……あら、泥がついてる。拭いてあげるわ」


 彼女のこうした態度に、女性たちは内心でため息をつく。


「また始まったわね、あの子……」

「全員に“様”付けしてるけど、見るからに選んでるわよね。イケメン限定」


 彼女の過去を知る者は、少ない。しかし、ティアは知っていた。

 フィロメナ。ある王国で、王子や側近たちを誑かし、婚約者たちを蹴落とすような言動で混乱を招いた女。まるで前世で読んだ、ありふれた悪役令嬢ものの小説から抜け出してきたような話だ。


 結果、婚約者たちの親や国王が激怒し、彼女は「男を惑わせる悪女」として国外追放。奴隷商に売られたが、口が悪く高飛車すぎて買い手がつかず、奴隷商人も困り果てていた。


 そんな折、孤児や身寄りのない者を受け入れる旅商人の団長に目をつけ、無理やり押し付けるように「タダでいいから引き取ってくれ」と頼み込まれた。


 「断る」と一度は言った団長だったが、エルフやカイ、レイの姿を見た彼女が即座に態度を変え、「この隊に入るわ!」と強引に宣言。その勢いに押され、受け入れざるを得なくなったのだった。


 貴族の血を引いていることに誇りを持つフィロメナは、他の女性たちを見下し、雑事にも非協力的。

 女主人に叱られてようやく動くが、すぐに男に媚びて仕事を押し付ける。

 仲間の女性たちからの評判は、最悪だった。


「働きたくないなら隊から出てけっての……」

「王子様と結婚でもしたかったのかしらね。前も同じようなことしてたって聞いたし」


 焚き火の明かりの中、そんな呆れ声がささやかれる。ティアは苦笑しつつも、ふとカイの方へ目をやった。

 彼が王子様と呼ばれても、確かに不思議ではない。整った顔立ち、自然に人を引き寄せる雰囲気。そして、どこか人離れした品格。


 次の瞬間、ティアの隣にいた年上の女性・ラナが勢いよく立ち上がり、ティアの肩を掴んで詰め寄ってきた。


「ティアちゃん、放っといていいの!?あんなのにカイたち取られて!」


 ティアは驚いて目を見開いた。


「えっ、な、なにが……?」

「見てよ、あの媚びた態度。あんな子が近付いてるの見るたびにこっちはイライラするのよ!ティアちゃんが何とも思ってないなら、まだ我慢もできるけど……!」


 ラナの目は本気だった。茶目っ気や冗談は一切なく、まるで姉のような真剣な表情。


「私たちね、ティアちゃんなら“いい”って思ってるの。カイの視線も、レイの気遣いも、あれはティアちゃんにだけ向けられるものだって……みんな、なんとなく感じてるんだから!」


 別の女性が乗っかるように声を上げる。


「で、ティアはカイとレイどっちなの!?」


 ティアは完全に言葉を失った。


「カイとレイとは……そんな関係じゃないし。それに、私……関係ないよ?」


 戸惑うティアの言葉は、燃えさしに落ちる火の粉のように頼りなく、輪の熱気を止めることはできなかった。

 火のはぜる音が一瞬だけ場を静かにし、その合間に誰かがぽつりと呟く。


「でもね。わかるんだよね、なんとなく。カイもレイも、他の女子には丁寧で平等なのに、ティアちゃんには……違うっていうか。距離、近くない?」


 さらに、別の女性が言葉を重ねる。

 ティアは誰にも言えないまま、心の奥で思う。それは、彼らの正体を知っているからだと。

 「それにね」と、また一人が静かに続けた。


「前にいたでしょ? エルフの美女。すごく綺麗で、気品もあって、誰もが振り返るような人。アルセイルとリュシオンと一緒に来た……あの子」

「ああ、セレナさんね?」

「そう、それ。アルセイルもリュシオンも彼女に本気だったのに、結局、彼女が選んだのはカイだったんだって」

「しかも、あのセレナさんが、振られたんだよね。そしたら、セレナさん『一緒にいたら辛いから』って、次に寄った街のイケメン領主にプロポーズされて、嫁いじゃった」


 火の揺らめきが、まるで昔語りのように人々の表情を照らす。皆、その話を記憶していた。


「そのカイがだよ? あのセレナさんを振ったカイが、ティアちゃんには特別なんだって、みんな思ってる」


 ティアは俯き、何も言えなかった。

 確かに、カイとレイは時折、何かを言いかけては言葉を飲み込むことがある。

 二人の中にある“距離”の取り方が、自分にだけ少し違う。そんな気がしたことも、何度かあった。


 けれど、それが“特別”だなんて、彼女には思えなかった。


──私なんかが、特別なわけないのに。


 ティアはそっと視線を落とし、手の中の願糸を、そっと握りしめた。

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