ティアの泉
ダムが完成したその夜、村ではささやかな……いや、村の規模を思えば盛大な宴が開かれた。
焚き火のまわりには山菜や獣の肉が並び、酒の香りと笑い声が満ちていた。
誰かが笛を吹き、子どもたちが手を取り合って踊る。
疲れはあっても、不思議と体は軽く、空気は清々しい。人々の頬は火の灯りと幸福で紅く染まっていた。
「この村に、こんなに声が響いたのは……何年ぶりじゃろうなあ」
長老がしみじみと呟いた。
そんな中、ティアは一人、宴の喧騒を抜けて商隊の主──頬に髭をたくわえた穏やかな中年の男のもとへ足を運んでいた。
彼は焚火のそばで静かに椅子に腰かけ、酒杯を傾けていた。
「……あの、団長。少し、お時間よろしいでしょうか」
「おう、ティア嬢。どうした?」
ティアは深く頭を下げた。
「数日も隊を足止めしてしまって……申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました」
数日間の足止めと魔獣との戦い。自分の提案が引き金になったことに、ティアはまだ責任を感じていた。
「気にすることはないよ。むしろ、あの泉のことを知れたのは君のお陰だ」
団長は酒を傾けながら、目を細めて笑った。
「時は金なり。たしかにそうだが、心ある取引は、金以上に得がたいもんだ。儂らは何も損などしとらんよ」
「でも……」
「それにな、この村に何もないと思っておるのは、村の連中だけだったらしい」
彼の目が愉快そうに細められた。
そう言って懐から小さな布包みを取り出す。中にあったのは、青白くほのかに光る花弁『蒼涙草』だった。
「これは……」
「あの泉のまわりで見つかった。【蒼涙草】というそうだ。水精霊の涙が結晶化したとも言われる神秘の花。年に数回しか咲かんらしくてな……一輪からほんの少ししか採れんが、それでも魔力を増強するポーション素材や、魔力覚醒の香料として王都ではとんでもない値がつく」
ティアは思わず息をのむ。あの、ひっそりと泉のまわりに咲いていた花が、そこまでの価値を持っていたとは。
「それだけじゃない。山の斜面で採れたこの【霧晶果】もだ」
今度は銀色の小瓶に入った果実を取り出す。かすかに霧が漂うその果実は、光の加減で輪郭すら曖昧に見えた。
「これは、水気を取り戻した土地でしか育たん珍品でな。皮が霧のようで中身が透けておるが、口に含むと実体が現れ、肺に溜まった瘴気や毒素を浄化してくれる。旅人や魔法使いにとってはまさに命綱よ。携帯食としては高額で取引されておる」
「それじゃあ、私たちがしたことは……」
「君の提案がなければ、泉の存在も、そこに生息する魔獣のことも、そしてこの資源の価値も気づけなかったろうな。交渉はすでに済んでおる。村長殿に話を通して、今後の採集・取引は我が商隊が独占的に請け負う契約を結んだ。もちろん、村にも利益が回るようにする。今後、村が自立できるようになればなおよしだ」
団長は最後に杯を掲げた。
「労力も時間も、魔法道具も魔力も全て含めて、大いに儲けさせてもらったよ。……君にも、感謝しておる」
ティアの胸に、じんわりと温かいものが広がっていった。
団長が酒をもう一杯あおると、ふと思い出したように言った。
「それと、今回の“収穫”はもうひとつあるな」
「収穫……?」
ティアが小首を傾げると、団長はニヤリと笑って親指を立てる。
「ヴァルゴイアだよ。あの魔獣、本来なら魔界にしか生息しない“異界種”だ」
「魔界!?」
周囲にいた何人かも、その言葉に顔を見合わせた。
「そうだ。こいつはただの魔獣じゃない。肉や皮は特殊な抵抗を持ってるし、骨は高強度素材として武器や防具に転用される。角や尾の棘なんか、専門の魔具店に持っていけば高値がつくぞ。何せ、地上で手に入る代物じゃないからな」
団長はすでに、その素材の一部を丁寧に解体し保管していた。
肉や脂、骨の欠片は傷ひとつつけずに保存されており、専門の業者に引き渡すだけで莫大な利益が見込めるという。
「儂としては、あのダム建設にかかった分を差し引いても、まだまだ儲けが出る。……何より、君たちと一緒にこの村を変える体験ができた。これは金には換えられんさ」
団長の言葉に、ティアは黙って頭を下げる。
自分が“何かを変えられた”という確かな実感が、胸の奥に静かに根を下ろしていた。
翌朝。
澄んだ空気と共に、旅立ちの時が訪れた。商隊の荷車には村で採れた物資と、霧晶果や魔獣の素材が積まれている。
それを見送る村人たちは、名残惜しそうにしていた。
「おかげで、水はもう枯れない。作物も育つじゃろう」
「村の子らも、風呂に入れるようになるぞ!」
「魚も戻ってくるかな!」
口々に感謝の言葉が飛び交い、ティアは照れくさそうに笑う。
だがその胸の奥には、確かなものが芽生えていた。
あの泉の水が、誰かの暮らしを変える。それだけで、十分だった。
そのとき、不意にカイがぴたりと足を止めた。
視線は村の外れ、木々が密集する山の斜面の方へ向けられている。
目を細め、何かを探るように息を殺す。
「……?」
ティアがそれに気づき、声をかける。
「どうしたの、カイ?」
「……いや、なんでもない。気のせいだ」
そう言ってカイは肩をすくめ、無理に笑った。だが、その目はどこか鋭く、遠くを警戒しているようだった。
村の外れ。霧の名残が漂う林の中──
一本の高木の上に、黒い影がひとつ、ひっそりと佇んでいた。
風が木々を揺らすたび、その姿はまるで溶けるように輪郭を失い、また浮かび上がる。
「ほう……危ない危ない。ヴァルゴイアの死骸を追ってきて正解だったが……まさか、この距離からでも気づくとはなァ」
影は木の枝に座ったまま、村を見下ろして愉しそうに笑った。
「やはり“人間”の仕業か。さて、誰がやったのやら。けど、あの娘、悪くない“目”をしてるなァ。ふふ……これは、しばらく観察の価値ありだ」
風が吹いた瞬間、影は音もなく姿を消した。
ただ、かすかな気配だけが、朝の空気に残されたまま──。
「ティアさん!」
人混みをかきわけて、一人の少年が駆けてくる。小さな手に、粗削りな木札を握っていた。
「これ……村長が!」
ティアが受け取った木札には、丁寧な字でこう刻まれていた。
《ティアの泉》
「……え?」
戸惑うティアに、今度は村長が歩み寄る。
その顔はどこか、晴れやかな決意に満ちていた。
「ダムの名前じゃよ。あの水路も、貯蔵庫も、全部あの泉の水を活かして成り立っておる。それを見つけ、繋ぎ、守ってくれたのは、間違いなくおぬしじゃ」
ティアは木札を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。
ようやく、絞るように声を出す。
「……もったいないです。私は……少し手を貸しただけで……」
「手を貸した者に救われた村が、感謝の気持ちを形にする。それが、名というものじゃよ」
村長の静かな言葉に、胸の奥がまた熱くなる。
団長が肩を叩いて豪快に笑った。
「やったな、ティア嬢。地図に名が残るかもしれんぞ?“ティアの泉”の水は癒しの霊薬の源。なんて噂が広まれば、観光地になるかもしれん」
「冗談やめてくださいよ……!」
ティアは笑って言い返しながら、こぼれそうになる涙をぐっと堪えた。
それは、かつて“努力しても報われない”と思っていた少女の、最初の足跡だった。
自分の行いが、誰かの暮らしに確かな影響を与えた。その事実だけで、心が満たされる。
「ありがとうございます」
静かに、でも力強く頭を下げるティアに、村人たちは惜しみない拍手を贈った。
その音が、朝靄の中に、確かに響いていた。
こうして、彼女の小さな旅路は、また一歩、先へと進む──
いつも拙作をお読み頂きありがとうございます!
反応とても嬉しいです!これからも、読んでるよーの感覚で反応頂けると嬉しいです!
とても執筆の活力となっております✨
次回から二話閑話が入ります




