第一章 クロドと少女 1
小鳥のさえずる声でクロドは目を覚ました。
鈍い思考を徐々に加速させながら、ゆっくりと自分の手を顔の前へと持ち上げ、眺める。
「……夢か」
己の体が現実に存在していることを確認すると、ほっとしたようにため息を吐いた。
十年前。両親を製薬商会に扮したアラウンの施設事故で失ったときの出来事。もう何年も経っているというのに今更あのときの夢を見るなんて、何か嫌なことが起きる前兆かもしれないと思った。
顔を洗い、黒い生地の上に赤いラインが入った、いつもの作業着兼ライダージャケットに着替える。階段を降り居間に入ると、既に親方は朝食を食べていた。
「よう。そこに飯置いといたぞ」
「ごめん。寝坊した。料理なんて慣れていないのに悪いな」
「何、気にすんな。こう見えてもお前をあの白砂の草原で拾う前は、ずっと自分で三食作ってたんだぜ。久しぶりで楽しかったよ」
拾ってきた新聞に目を通したまま、親方はなんでもなさそうにそう言った。
正直に言えば親方の料理はかなり下手糞だった。味付けは妙に濃いし、野菜は石のかたまりみたいにでっかく切り口が雑だ。しかしクロドは文句を言わず、かき込むようにそれらの佳作を喉に流し込んだ。
「昨日の続きをやってくる。重空機のラジェーターを直さないといけないんだ」
「ん? そんな依頼されてたか?」
「頼まれたものじゃない。店の、〝赤足〟のだよ。あれが走れないと商売出来ないだろ」
皿を流し台へ起き、隣接しているガレージへの扉を開けてそちらに移動しようとする。
「ああ、ちょっと待てクロド。ヤンさんから頼まれていたものがあるんだが、材料が足りなくてな。赤足を直したら煙場まで行っていくつか鉄パイプを取ってきてくれ」
「煙場? 重空機の修理が終わるまで結構かかるけど?」
「昼過ぎになっても構わんさ。どうせ爺さんだ。少しの遅れくらい、気にすんな」
「……酷いな」
クロドは苦笑いを浮かべるとガレージへ入り扉を閉めた。その瞬間、別世界に入ったかのように物音が消える。
正面を向くと赤い大きな塊がガレージの中央に止められていた。この〝ジャンクショップ赤足〟のトレードマークでもある重空機〝赤足〟だ。旧時代に流行っていたバイクという乗り物に形は似ているが、その走行システムはまったく違う。車輪の左右にはそれぞれ大きな三つの排圧口が付いており、これから圧縮された空気を噴射することで、どんなでこぼことした道でも高速で移動することが出来るという乗り物だ。タイヤを使っているがまるで滑空するように移動することから、滑空機と呼ぶものもいるが、この近辺では重空機という名前が定着していた。
この赤足は市販品ではなく、ガラクタ山に捨てられていた戦闘用の重空機を親方が改造し、再設計し直したものだ。フレームから手を加えているためほとんど原型の機体を留めてはおらず、世界に一台だけの重空機となっている。
犀の頭のようなフロント装甲に加え、側面にもそれぞれ防護用の分厚い装甲がつけられており、このフロント部の左右にある口の隙間から排圧用の空気を吸い込むのだ。
扉の横に立てかけてある整備棚からドライバーなどを抜き取ると、クロドは赤足の前に屈みこんだ。
「昼過ぎになっても構わないか。正直、丸一日使って修理するつもりだったんだけどな。……仕方がない。なんとか間に合わせるか」
小さくため息をつく。この機体が直らなければ品物の配達が出来ない。そして配達が出来ないということは客が取れないということだ。このスラム街ダリアに住む住民たちはみな貧困だ。生活のメインとなる客は、街はずれの富裕層か外の人間が大半となる。少し金持ちの良い人間が安く道具を買える場所。それがジャンクショップ赤足の主な商売だ。生計を立てるために、クロドは急いで修理に集中した。
荒廃した町を裂くように伸びた長い道路の上。滑走する重空機赤足に跨ったまま、クロドは首を僅かに傾け横を見た。すぐに視界いっぱいに赤茶色の景色が広がる。
スラム街ダリア。首都オラゼルの真南にあるこの町は、その産業廃棄物や不用品の処理場所として、日々多くのゴミが運び込まれていた。
たまりに溜まったゴミの中には化学反応を起こすものもあり、もっともゴミの廃棄が多い場所では常に自然発火による白色の煙が立ち上っていた。
ほんとうならば到底人が住めるような場所ではないのだが、貧しい者たちにとってそこは大切な商売道具の採掘場だった。ある者は機械をいじる材料探しのため。ある者はそのままそれを商品として転売するため。常に多くの人間が煙の中を歩き回り、宝探しをして蠢いていた。
頭を保護するための防護マスク越しに標識が見える。元々は町の中心にあった銀行を指し示すものだったが、今では錆び付き何が書いてあるかわからなくなり、どこかの誰かが「煙場」と表記したベニヤ板を貼り付けていた。
広がるゴミ山の端に赤足を止めると、クロドは鍵を抜き髑髏型のマスクを脱いだ。黒く短い髪がふわっと舞う。
「さて、親方から頼まれたのは鉄パイプだっけ? ったく、車椅子でも作る気なのか」
たかが数本の鉄パイプを取ってくるためだけに急ピッチで赤足の修理を終えたのだ。クロドは不機嫌そうにのしのしと歩いた。
金属の板や鉄柱、車の残骸などが重なって出来たゴミの山を登り、目的の物を探す。煙場にはよく来ている。記憶が正しければ、この先の窪んだ場所にあったはずだ。
崖を上るようにしてゴミ山の反対側を覗くと、思った通りそこには数本の鉄パイプが側詰まれたゴミに突き刺さっていた。
鋭利なものが多いため滑り降りるわけにもいかず、細心の注意をしつつクロドはその窪みへ
足を踏み入れた。
「うわ、結構深く刺さってるな。すぐに取れればいいけど」
グローブを嵌めた手でパイプの先端を掴む。足をゴミの上に乗せ、渾身の力で引いてみた。しかし、ほんの僅かしかそれは動かない。
「このっ……!」
さらに体重を後ろに乗せる。力が加わったことでようやくパイプは抜けた。
「よし、抜け――……」
途端、目の前のゴミ山が弾けた。空中にいくつもの鉄くずが舞い、轟音が響く。空洞となったその場所からは蛇のような頭を長く伸ばした生き物が嬉しそうに体を起こしたところだった。
「球獣っ――!?」
この世界に昔からあった空間を奪い取る謎の球体〝ヌルの眼〟。そこに引き込まれかけ、堕ちた生き物の成れの果て。
ちょうど先ほどのパイプが球獣をこの場に縫いとめていたのだろう。そのの腹部には小さな穴が開き、真っ赤な血液が漏れていた。
受身を取りながら後ろに転がり、クロドは舌打ちする。雨のように鉄くずが降る中ではっきりとお互いの目があった。
その球獣は多くの人に名を知られた種類だった。蛇のような頭部に、ひょうたんのような体、そしてそこから生えた四つの槍のような四肢――〝蛇頭〟だ。
蛇頭は口をぱっくりと開けると、酷く耳障りな声で空気の響きをもたらした。
近距離で放たれる騒音に思わずクロドは耳を塞ぐ。その隙に蛇頭は四肢を伸ばし、大きく跳躍した。
「――くそっ!」
横に逃げようとしたが、足場が悪いせいで上手く動けなかった。クロドは両手両足の服の端を蛇頭の足に貫かれた。
「うわっ、離せっ!?」
しゃがむにに暴れてみるも、相手の力のほうが圧倒的に上だ。徐々に蛇頭の大きな口が近づいてくる。
クロドは全力でもがき、そのざらざらとした口から体を離そうとした。垂れた唾液が頬に落ち、もう眼と鼻の先に迫っていた。
「このっ、やめろ!」
必死に腕に力を込める。すると運がよく服が破け右手が自由になった。
急いで開放された腕の手を開き、蛇頭の鼻頭に当てがう。別に殴るでもない軽いタッチだったが、それだけで勝敗は決した。
クロドの手を中心として、蛇頭の頭部付近の空間がネガ反転したかのように色を変えた瞬間、ピキ、ピキっと、蛇頭の鼻にひびが走っていく。そしてそれは瞬く間に全身へと広がった。
蛇頭の体から〝存在〟という〝空間〟がクロドの中へと流れ込む。全ての〝存在〟を奪われた蛇頭は、その己の形態を維持することが出来ずに自然と崩壊した。
ガラスが割れるように蛇頭の体が散らばり、体内を駆け巡っていた血が周囲に溢れる。一瞬にして怪物はただの肉屑となった。
大きなため息をはくと、クロドは服の上に散らばった蛇頭の亡骸を手でほろい立ち上がった。
「不意だったから危なかった。……はあ、どこぞの闇業者が不法投棄したんだか」
この煙場には、ごくたまにこうして球獣が紛れていることがある。廃材の運搬中に入り込んだのか、それとも廃材の中に好みの食料でもあったのか、とにかくここで生計を立てている者たちにとっては迷惑以外の何ものでもなかった。もう何度も遭遇していたが、クロドだってこの〝力〟がなければとっくの昔に死んでいただろう。
「パイプ、どこにぶっ飛んでったかな」
蛇頭に襲われた所為でせかっく見つけたパイプが無くなってしまった。探そうにも辺りは鉄や蛇頭の残骸でいっぱいだ。再びパイプを見つけるまでの苦労を思い、クロドは再度大きなため息を吐いた。




