第二章 魔窟の傭兵 1
午後十九時を過ぎ、空は深々とした暗闇に覆われた。
光の中を切り裂くように飛び交っていた鳥たちも姿をどこかへと消し、今は白金色の月だけがその世界を支配している。
道路を駆け巡る地走機の数が減少したからか、流れる空気からも慌ただしさが無くなり、澄み渡った風の音だけが皮膚の上を流れていく。
箱庭の上部にある小さな屋上庭園。三日前にリナリアを案内するために訪れたその場所に、リナックスは再び立っていた。
別に特に用事があったわけではない。暗殺未遂事件があってから、父スオウの命令で箱庭からの外出を禁止されていたリナックスは、屋内に籠る機会が多くなり、こうして庭園にでも出なければ外の空気を吸えなかったのだ。
久しぶりに新鮮な空気を胸に吸い込むと、自分の体を取り巻いている見えない鎖の締め付けが緩んだような気がした。遠くに見える山々を見て、自由気ままに狩りに出れていたあの頃をひどく懐かしく感じる。たった一か月ほど前の出来事のはずなのに。
「リナックスさん」
手すりに腕を乗せ無意味に黄昏ていると、背後からリナリアの声が聞こえた。振振り返ると、いつもと同じ黄色い衣装に身を包んだ彼女の姿が目に入る。今日はその長い黒髪は後ろで結い止められ、毛先が頭の後ろから上に向かって立っていた。きっとルドぺギア伝統の髪型なのだろう。
「こんばんは。こんな時間にどうされたのですか」
リナックスは愛想笑いを浮かべ手すりから腕を下ろした。
「ずっと会議だったもので疲れてしまって。気分転換にと。……リナックスさんは?」
「僕も同じようなものですよ。まるで幽閉されたお姫様の気分です。まあ、仕方ないとは思いますけどね」
リナリアはリナックスの横に並ぶと、耳横の黒髪を掻き上げ、悲し気な表情を浮かべた。
「父――……イキシア盟主は、やはりアザレアとの和平協定を延期させるそうです。このまま同盟を結べば、例の襲撃者の魔の手がルドぺギアにも及ぶ可能性があるからと」
「当然でしょう。これまで五大共同体の間では小さな小競り合いは続いてきましたが、ここまで大々的な暗殺事件は初めてのことです。僕がイキシア盟主でも同じ判断をしたと思いますよ」
「残念ですね。せっかくアザレアの皆さまと仲良くなれたと思いましたのに。ルドぺギアは古い慣習を守り通して生きてきた共同体です。今回の協定によってアザレアの文化が流入すれば、都市や文化が一気に発展するかもしれないと皆が期待しておりました。それにアザレアとの協定は、ルドぺギアの北に位置するジキタリスへの牽制の意味もあったのです。ルドぺギアは昔から彼らからの遊撃を受けてきました。もし協定がダメになれば、再びそれが活性化する可能性があります」
ジキタリス。世界地図の左端。ちょうどアザレアと津波平原を挟んだ反対側に位置する五大共同体の一角だ。アザレア、フリージアに次ぐ三番目の軍事力を誇る共同体であり、芸術や個の技術に特化した文化を持つ。かつては多くの英雄や偉人を生んだのだが、機械技術と魔工技術の発展に伴い争いの形態が個よりも兵器へと移行してからは、その力を衰退させ、今ではあまり大きな動きを見せず静かに西方の支配に尽力を尽くしているという噂だ。
「協定が完全に破綻したわけではありません。イキシア盟主はあくまで‶延期〟とおしゃっていたのでしょう? でしたらまだ再度協定を結べる機会はあります。襲撃者を特定し、その黒幕を排除さえ出来れば」
リナリアを慰めようと、リナックスは力強い声を作った。
リナックスの顔をしばらく見つめていたリナリアは、どこか寂し気な笑みを浮かべ、月を見上げた。
お互い陰鬱な話題に嫌気がさしていたのだろうか。静かな間が生まれ、風の踊る音だけが周囲を満たした。
他の共同体の貴族相手に無言は良くないのではとも思ったが、不思議と嫌な気はせず、逆にこの間がどこか心地よかった。彼女の前でなら、気取った自分を演じずにいてもいいような気がした。
しばらくそうしていると、不意にリナリアが聞きなれた曲のフレーズを口ずさんだ。兄サキエルと一緒に作ったあの曲だ。
二人だけしかいな屋上庭園の上に綺麗な声が小川のせせらぎのように流れていく。リナックスが聞き入っていると、彼女が恥ずかしそうにこちらを見上げた。
「あれから楽譜を眺めているうちに、すっかり曲を覚えてしまいました」
「凄く綺麗な声でしたよ。歌詞を作って歌にして欲しいくらいです」
「では、今度お会いするときまでに歌詞を考えてきます。そのときは、リナックスさんも演奏して合わせて下さいね」
それはとても楽しそうだ。思わず頬が緩くなる。
静かだった眼下の道路に地走機が止まり、何人かの人間が箱庭から出てきた。どうやら残りの会議も終わったようだ。
リナリアの言う通り、イキシア盟主が和平協定を延期させる方向で動いているというのであれば、再び彼女とこうして話せる機会はずっと先になる。下手をしたら数年はかかるかもしれない。
それでも実現できるのであれば、何としてもこの約束を実現したいとリナックスは思った。
「ええ。是非やりましょう。きっと素晴らしい曲になると思います」
それを聞いたリナリアも、満足げに明るい笑みを浮かべた。
窓越しに遠ざかっていく大型飛翔機が見える。
艶美な大樹の模様が描かれたあの機体は、ルドぺギアの一団を乗せた盟主専用機だ。あの中には当然、リナリアも搭乗している。
「行っちまいましたね」
浮かない表情で眺めていたからだろうか。背後に立っていたヨルムが残念そうな表情を浮かべ手を左右に広げた。
リナックスは窓から視線を逸らし、真横の椅子に腰を落ち着かせた。ここは箱庭の四階にある通路の一角なのだが、自販機やテーブル、椅子などが設置され、小さな休憩スペースとなっている場所だ。
「予想通り和平協定は延期か。……まあ、破棄されなかっただけましかもしれないけど」
「しょうがないですよ。得体の知れない暗殺者が襲撃してくるんですから。やはり実際にリナリア様の身に危険が迫ってしまったのか大きかったみたいですね。イキシア盟主にとってあの子はたった一人の子供ですから」
他にも護衛の兵がいるからか、ヨルムはぎこちない敬語を維持している。いい加減見慣れた光景だったので、もはやたいしてそれには構わずリナックスは会話を続けた。
「それで、襲撃者の取り調べのほうは?」
「あ、それなんですけどね。実は――……」
ヨルムが何か言いかけたところで、伝令の兵士が通路の奥からこちらに駆け寄ってきた。青白い顔で冷汗を浮かべているところを見るに、大方父スオウの使いなのだろう。
「リナックス盟子様。スオウ盟主がお呼びです。直ちに盟主の間までお越しください」
ほらやっぱりだ。
リナックスは彼に礼を言うと、重い腰を上げ立ち上がった。ルドぺギアの大使たちが箱庭から出たこのタイミングでの呼び出しを考えるに、ある程度前から決まっていた何かを伝えるつもりなのだろう。あまりいい予感はしなかったが、立場上無視するわけにもいかない。
襲撃事件以来さらに増えた護衛兵たちを引き連れ、盟主の間へと向かう。彼らはプロ意識がヨルムよりも数段高いようで、気軽に話しかけてみても実に他人行儀な態度で返答するため、会話をしていても面白みは少ない。リナックスが無言で歩き出すと、まるで影のように付き従い、その後に続いた。
盟主の間に入ったリナックスに気が付くと、父スオウは小さく手を振った。その動きに連動するように、何やら彼の前にたむろしていた高官たちがその場から離れていく。
彼らの後姿を眺めていると、ヨルムが廊下から小さなガッツポーズを作って見せた。何やら話の内容を知ってそうな雰囲気だった。
扉が閉まりヨルムの能天気な顔が見えなくなる。リナックスは一度だけ深呼吸をし、父の鎮座する盟主席の真下へと歩み寄った。
「及びでしょうか。父上」
「ふ。随分と盟主候補者としての立場が板についてきたようだな。少しはまともになったか」
「状況をわきまえているだけです。それで、話とは? 何やら急用のようでしたが」
父にも少しばかりは自分に対する情があるものと思っていたのだが、この前の襲撃事件をきっかけにその考えを失いつつあった。敬語を使うようにしたのはささやかな抗議の意思表示だったのだが、どうやらその胸は伝わらなかったらしい。
黒と金色の装飾に囲まれた赤い絨毯の上に膝をつくリナックスを満足げに見下ろし、父は空気に染み渡らせるように言葉を発した。
「――襲撃者の正体がわかったぞ」




