第六章 来訪者 1
その黒い輪郭が浮かび上がった瞬間、周囲の空気が一斉に揺らいだ。
小石が、つららの残骸が、舞っていた土煙が、その場に存在するありとあらゆる物体が、自らの意識を得たかのように、黒い輪郭へ向かって飛び込もうとする。
発生した直後のヌルの眼の吸引力は、とても人の力で逆らえるようなものではない。それは安定状態へ達するまで周囲の空間をすすり続け、万物に対して抗いようのない死をもたらし、球獣を呼び続ける。
クロドの村に球獣が集まりだしたのは、崩壊の約一か月半ほど前からだった。つまり、あの時目にしたヌルの眼は、発生から一か月以上たち安定期へと移行したものということになる。そのため周囲の空間を吸い込む速度は比較的緩やかで、近くに立っていても問題は少なかった。だがこのヌルの眼は、まさに今生まれたばかりの存在。その吸引力はあの時の比ではない。
何もしていないにも関わらず足がふわりと浮き上がり地面から外れる。考える暇もなく、クロドの身体はそのままヌルの眼に向かって‶落下〟しようと動いた。
慌ててマチェットを地面に刺し、自身の体をその場に縫い留める。全身から冷汗が噴き出し、服をびっしょりと濡らした。
「な、なんだこれは――!?」
半月目の男が驚愕の表情を浮かべ鎖を近場の鎖に巻き付ける。今起きている事態がまるで理解できていないようだった。
そのときちょうどクロドの視界の中で、ルイナの身体が浮き上がりヌルの眼の引力に捕らわれた。意識の無い彼女の身体は不自然に手足を揺らしながら、瞬く間に漆黒の球体めがけて引き寄せられていく。
クロドはとっさに手を伸ばし彼女の腕をつかんだ。急激に増加した重さの反動でマチェットの刃の位置がずれ、二人の身体が斜めに傾く。
「ルイナ、起きろ! ――ルイナ!」
クロドが必死に呼びかけると、声が届いたのか彼女のまぶたが薄っすらと開いた。ゆっくりとクロドの顔を見上げ、そして発生しかけているヌルの眼へと首の向きを変える。まだ頭がはっきりしていないらしい。
――くそ、このままじゃ二人とも――……!
ただでさえ自分の身体は存在を吸い込み過ぎて、ヌルの眼に近いものと化している。クロドはまるで見えない無数の腕が自分の全身に掴みかかり、引きずり込もうとしているような錯覚を覚えた。
おぼろげだったヌルの眼の輪郭は、物を吸い込んでいくごとに徐々にその断絶を深くしていき、次第に明確な区切りを作ってゆく。
手汗でルイナの腕が滑り、その体がずるりと横へ大きく落ちた。思わず声を上げかけたとき、ヌルの眼を形成させていた四つのフレームが大きく軋んだ。
強い力で握りつぶされたかのように大きくひしゃげ、先端部分が本体っから抜け落ちる。同時に明確な断絶へと移行しかけていたヌルの眼の輪郭が歪み、叩きつけられたゴムボールのように様々な形へ変形した。
引き寄せる力が止まり、一瞬自分たちの身体を拘束していた全ての力が消失する。そして気がつけば、クロドたちの身体は地面に強く叩きつけられていた。
頬を石に擦り付けながら顔を上げると、自らを生み出したフレームの残骸を吸い込みつつ縮小していくヌルの眼が見える。次の瞬間、まるでモニターの電源を切る様に、その漆黒の輪郭は姿を消した。




