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7、獣の耳




 マレーテが出産を迎えたのは、夏の爽やかなの朝のことだった。


『多分お腹が痛いような……気がする……?』


 などと、当人も首を傾げている状況から始まったが、念のため支度を整え、里の産婆を呼んでいるうちに、あれよあれよと本格的な陣痛が始まった。






 産室となっているマレーテの私室の外で、所在なく過ごしていたアトランは、ふと廊下から窓の外を見上げる。すでに太陽は中天から西へと傾き始めていた。


 もうすぐ我が子がこの世に生まれる――それは、異形の子が母と対面する時が迫っているということでもあった。


 マレーテが自分の母のように、我が子の姿に泣き叫び取り乱すことはないと確信はしていた。だが彼女の我が子を見る目に、かすかでも嫌悪が見られたら……。今日この日、アトランは自分という存在のせいで、家族の人生を不幸へと決定づけることになる。


 そうなったとしても、自分だけは平然と構えていなくてはいけない。もし、かすかに悲しみや失望を見せれば、マレーテをさらに追い詰めることになるだろう。




 ドアの向こうから聞こえてくるマレーテのうめき声に、己の無力を改めて思い知らされながら、永遠に続くかと思うような時を過ごした。


 実際はどれほどの時間だったのか、やがてにわかに産婆やメイドたちの声が大きくなる。はっと顔を上げたところで、子犬か子猫の鳴き声のようなものを聞いた気がした。それが赤子の声だと気づいたとき、後ろから声をかけられた。


「おめでとうございます、旦那様」


 漫然と見やれば、執事がいつもの落ち着き払った態度で立っていた。


「あなた様がお生まれになった日のことを思い出しますな。あの小さかった坊ちゃまが、父君になられるとは感慨深いものです」


 自分が生まれた日、使用人たちも混乱する母をなだめ、悲嘆にくれる父を慰めるのに大変だったと聞いている。今日とは比べ物にならぬほど、館の中は混乱していたはずだ。だからこのように、穏やかな寿ぎの言葉を受けられる自分は確かに幸せなのだろう。


「ありがとう、じい」


 執事を子供の頃のように呼ぶと、白い眉毛に隠れた目がうれしげに細められた。



 

 しばらく待ち続けると、やがて産室のドアが勢いよく開けられた。頬を上気させ、興奮した様子のルネが顔を出す。


「おめでとうございます、旦那様! とても元気でお綺麗なお子様ですよ。さあ、お入りになってください!」


「あ、ああ……」


「胸を張って会いにお行きなされ」


 執事の言葉に後押しされるように、アトランは部屋へと足を踏み入れた。




 部屋の正面には、透かし彫りが施された大きな衝立があった。マレーテのいるベッドはその向こうだ。ベッドの周囲を動き回る人影がかろうじてわかる程度だが、メイドがマレーテの具合をうかがう声が聞こえた。


 応じるマレーテの声はかすれ、弱々しかったが、明瞭な受け答えに胸を撫で下ろした。その間も、獣とも人ともつかないあの泣き声は続いていた。


 衝立の後ろから、白い布のかたまりを腕に抱いた老婆が現れた。布から垣間見られる柔らかそうな茶色の毛に気づいた瞬間、鼓動が早くなった。まず出産という大役を果たした妻の無事を確認し、労いの言葉をかけてから、と思っていたので、こうもすぐ赤子と対面するとは思っていなかった。


「おめでとうございます、旦那様。さあ、だっこしてあげてくださいまし」


 産婆が体の向きを変え、赤子を差し出そうとする。体勢が変わったことで赤子は驚いたのか、一際大きな泣き声が響いた。アトランは恐る恐る腕を伸ばしかけ――動きを止めた。


「あっ……」


 覚悟の中にはなかった現実に、頭の中が一瞬真っ白になった。




「――旦那様……旦那様!」


 茫然としている間に、傍らから幾度か呼びかけられていたようだ。


「早く奥方様に赤ちゃんを見せてあげてくださいませ」


「ではまだ……」


 神妙な顔でうなずくルネに、アトランはごくりと唾を飲んだ。マレーテはまだ我が子の姿を知らないのだ。


 受け渡された我が子は見た目よりも重く、おくるみ越しにしっかりと体温を伝えてくる。小さくも力強い命の存在に、何か不思議と胸の内が熱くなった。


 赤ん坊はしっかりと抱っこされて落ち着いたのか、いつの間にか泣き声は止んでいた。まだ視力はほとんどないはずだが、開ききらぬ瞳に涙をいっぱいためて、こちらを見つめているような気がした。




 衝立の反対側に回ると、焦れたように半身を起こしかけたマレーテが、メイドに押し留められていた。その顔色は血の気を失い、湿った髪が乱れ額や頬に張り付いていた。


「マレーテ」


「アトラン……赤ちゃんは?」


 半死半生のような風体でありながら、必死に我が子を求める姿に胸がしめつけられそうになる。


「大丈夫、とても元気だよ」

 

 よくがんばったね、と横になるように促し、自身はベッドの脇へとひざまずく。赤子を横たわるマレーテのすぐ隣に置いてやった。




 それまで疲労で虚ろだったマレーテの青い目が大きく見開かれた。


「この子……人だわ」


「うん」


 赤ん坊は覚悟していた異形の獣ではなかった。しわくちゃの顔に薔薇色の肌。それは『猿のよう』とはよく例えられるものの、生まれたての人間の赤子の姿に他ならなかった。

 

 だが……。アトランはゆっくりと赤ん坊のおくるみをずらした。頭頂部のふわふわした茶色の産毛の間に、大人の指先の大きさにも満たない小さな二対のかたまりがあった。


 マレーテは不思議そうに見やったあと、「あっ」と息を飲んだ。


「耳がこっちにある……」


 赤ん坊には人間の外耳がなく、頭部に獣のような小さな耳がついていた。よく見れば産毛に埋もれるように耳孔もこちらにある。


 マレーテは茫然としたまま、小さな耳を指先で撫で続けている。くすぐったいのか、赤ん坊はしわくちゃの顔をますます歪めた。




「……マレーテ」


 赤ん坊に会わせる前に、先に言葉で説明するべきだっただろうか……。自分ですらほんの一瞬だけ、この子は異形の呪いを受けずに生まれてきた――そう期待してしまった。かえってマレーテを失望させたかもしれない。


 自分のように異形の獣としては生まれてこなかったが、呪いは間違いなくこの赤ん坊にも引き継がれている。アトランが右手のその証を持つように、この子は耳にその特徴を継いだのだ。


 異形の部位を隠すのがまだ容易だった自分とは違い、この子はもっと苦労するかもしれない。そう思えば、アトランの気持ちは暗く沈んだ。




 我が子の姿形を確かめるように、頭に顔に体にと、無心でたどるように触れていたマレーテが、突然ひゅっと小さく息を飲んだ。ふいにシーツに顔を伏せ、その肩を震わせ始める。









更新が遅くて申し訳ありません。あと二話ほどで完結となります。



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