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4、変化




 最初に変化を感じたのは、厨房から漂ってくる焼き菓子の匂いがひどく不快に感じたことだった。結局その日は食欲がわかず、夕飯を取らないまま早々に寝た。次の日には体調はすっきりしていたので、それきり気に留めなかった。


 しかしその日以来、焼き菓子特有のバターの香りがどうしても受け付けなくなってしまった。日課だった庭の散歩すら、厨房の近くを通るためやめてしまったほどだ。ルネは不思議がっていたが、なぜか理由を話すのははばかられた。




 ちょうどその頃、『メイドの一人にしばらく暇を与えます』と家政婦長に報告された。そのメイドが子供を身ごもったと聞いて納得した。彼女が青白い顔でうつむいているところを見かけ、心配のあまり声をかけたことがあったのだ。


 その瞬間、欠けていた何かがはまるようにある結論が頭に浮かんだ。自分も同じではないか――この体調の悪さは妊娠が原因ではないかと。だがマレーテは自分の考えをすぐに一笑に伏せた。


(そんなことは絶対にありえないのに……)


 自分たち夫婦の間には子供はできるはずはない。それは強固な魔術で縛られた誓約によるものだ。

 



 マレーテはただ一度だけ、『バルア王家の血を引く女性を妾に迎えることを検討しては』と、アトランに言ったことがある。


 彼はその言葉を聞いた瞬間、無言のままじっと真正面からマレーテを見据えてきた。普段は呆れるほど温厚な夫の、珍しく本気で怒っているときの態度だった。そこまで気分を害するとは思わなかったので、マレーテは口をつぐむしかなかった。


 その時のことを思い出し、マレーテは重い溜息をついた。


 今でも本音を言えば、アトランには自分の血を引く子供を持ってもらいたかった。それを叶えてあげられない負い目のせいなのだろうか、くだらない想像をしてしまったことにうんざりした。






 ※※※※※※※※※※






「それでダルトンに相談されたんだけど、正直困っているんだ……」

 

 語りながら、アトランは静かにティーカップを傾けていた。昼下がりに彼の仕事が一段落すると、夫婦でお茶の時間を取るのはいつものことだ。


 このところマレーテの希望で焼き菓子が減り、代わりに生の果物が置かれるようになった。アトランは気づいているだろうか。マレーテはくゆる紅茶の湯気をながめながら、ぼんやりと考える。


「ウェナのところは三人目の子とはいえ、生活に困っているわけではないし、血を繋がった我が子を……というのは、さすがに難しいと思うんだ」




 アトランが話題にしているのは、先日妊娠がわかったため休暇を取った、ウェナというメイドの話だ。公都の屋敷に勤めるウェナの兄夫婦は子供に恵まれず、どうにか妹の子を養子にもらえないかと考えているらしい。そこで主人であるアトランに、説得を手伝ってもらえないかと相談を持ち掛けてきたというわけだ。


「確かにウェナがすんなり承諾するとは思えないわ。なんにせよ、アトランは口出ししない方がいいと思う。結果はどうあれ、気まずくなった彼女があなたの下で仕事ができなくなったら可哀想だもの」


「……そうだね。ダルトンには気の毒だが、こればかりは家族の中で解決するべきことだ」




 そう言いつつ、自分の中ですでに結論を出していたのだろう。マレーテの言葉に後押しされたのか、少しほっとしているようだった。


 大公という高い身分にありながら、使用人からこんな個人的なことを相談され、当人も真面目に考えている辺りが、いかにもアトランらしい。微笑ましくなると同時に、よりにもよって子供の話題かとひそかに気分が重くなる。


 ふとアトランの表情を盗み見る。子供のできない夫婦が養子を望む――この手の話題は、本来なら自分たちにとっても他人事ではないはず。彼に思う所はないのだろうか。




「アトランはどうしたいの?」


「え?」


「私たちだって……そうでしょう。いつかは決断しないと」


 どんな形であれ、この国のためにゼト大公家の存続は絶対だ。それなのに、なぜだろうか。アトランはまったく想像もしてなかったこと言われたように、驚きで目を見張っていた。


「あ、ああそうか。……そうだね」


「あなたに親族はいないし、養子を取るとしたらバルア王家由来の家系からということになるの?」

 

「その時はそうなる……かな」




 アトランは『大公』という存在に関しては、政治的な役割さえ果たせれば、それでいいと考えているらしい。


 すでにゼト騎士団や《森隠(もりごもり)》たちの間で、魔獣への対処や討伐の技術は、何百年に渡る研鑽により体系化されているそうだ。魔王の末裔の血が絶えたとしても、街道を管理し旅人を庇護する、大公国に課せられた義務はまっとうできるだろうという見込みだ。


 そもそも魔獣たちが従ってくれるわけではないし、この血筋は便利な魔獣除け程度の存在なんだよ、とアトランは事もなげに言ってのけた。だから次のゼト大公が必ずしも自分の実子である必要はないのだと。




「マレーテはよく気が回るから、子供の扱いはうまそうだ」


 言ってから、気まずい話題に踏み込んでしまったことに気づいたのだろう。アトランがはっとしたように言葉を切った。マレーテがもっとも長く、もっとも面倒を見た子供は、間違いなく実の妹であるマレシカ王女だ。


 マレーテは軽く肩をすくめ、わざと素知らぬ振りで答える。


「まーね。私が育った農場……ほら養父母はちょっとお金にがめついって話したでしょ? 次から次に子供を預かってきて、よく子守りを手伝わされたのよ。でも小さい子って実は苦手だったの。うるさいしわがままだし、すぐに服を汚すんだもの」




 今度は自分の方が言葉選びに失敗したと、マレーテはすぐ気がついた。アトランは傷ついたように、瞳を揺らしていた。子を忌み嫌う母――それはアトランにとって、今でも深い心の傷だ。


 アトランの母親が生涯に渡り、異形の姿で生まれた我が子を愛することができなかったとは結婚前に聞いていた。くわしい話を聞いたのはもっと後のことだ。


 アトランの母親は彼が六歳の時に森の中で自死していた。現場はアトランがよく遊び場にしていた大木だった。おそらく彼女の意図通りになったのだろう、首をくくった母の遺体を発見したのはまだ幼いアトランだった。




 傷ついた夫の顔に、マレーテの顔から血の気が引く。


「ごめんなさい……私」


 突然、アトランが腕を伸ばしマレーテの両手を握った。勢いでティーカップに残った紅茶が跳ね、白いテーブルクロスに染みを作る。


「アトラン?」


「振りでもいい! 子供には、自分は母に愛されていると思わせてあげてほしい……」


 それは切ないほど悲痛な懇願だった。うめくような声音に、マレーテはどうしていいのかわからなかった。


「視界に入れたくないほど嫌なら、子供と会うのは数日置きだっていい。あとは乳母や子守りメイドに任せれば子供は育つ。でも会った時は笑顔で、ほんの一瞬でもいいから抱きしめてあげてほしい。そしたらきっと、自分は愛されていると信じ込める。だから――」


「待って、待って、アトラン!」


 まるで呪われた運命を受け入れていた頃の、自虐的な彼に戻ってしまったようだった。その空気にいたたまれず、アトランの求める答えでないと察しつつ、マレーテは話題をそらそうとした。




「何も今すぐに、小さい子供を養子にするとは限らないでしょう? もちろん縁組みは早い方がいいけれど、もう十年か二十年くらいしてから、いっそ成人してから来てもらってもいいんだし」


 アトランははっとしたようにマレーテから手を離し、引きつった笑みを浮かべる。


「そ、そうか。すまない、先走って妙なことを言ってしまった……」


「そうよ。それに、まだまだ新婚気分を味わいたいでしょう?」


 その言葉に、アトランは照れたように微笑むのだろうと思っていた。だが彼の表情はますます強張るばかりだった。




 今日はいったいどうしたと言うのだろう。互いに上手い言葉を選ぶことができない。うまく嚙み合わない気持ち悪さに、胃の辺りまでムカムカしてきた。マレーテは気分を切り替えようと頭を振る。


「……お茶をもらってくるわね」


「すまない、今誰か呼ぼう」


 使用人を呼ぶため、ベルに手を伸ばそうとしたアトランを制する。


「いいわ、このくらい。私が行った方が早いもの」


 言って、ティーポットを持って立ち上がった瞬間、目の前が暗くなる。


 あれ、と思った瞬間には力が抜け体が傾いでいたが、覚悟してた衝撃や痛みはなかった。しっかりと自分を抱き留めた腕に、アトランがとっさに受け止めてくれたのだと知る。そのまま、すぅっと意識は遠のいていった。







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