2、宿屋の少女
衣裳部屋から現れた小柄な少女は、マレーテに帽子を見せると、無言のまま飾りのリボンを指さして微笑む。
「裂けたところを取り替えてくれたのね。ありがとう、サリサ」
サリサと呼ばれた少女は『とんでもございません』とでも言うように、眉根を下げ小さく首を振った。
「こっちの仕事は慣れたかしら? 何か困ったことがあったら遠慮なく言って――伝えてね」
少し気まずい表情を浮かべるマレーテを、サリサは気にする様子もなくにっこりと笑んでお辞儀をし、また衣裳部屋へと戻って言った。
マレーテはルネへと耳打ちする。
「いい子じゃない。いっそこのまま働いてもらえば?」
「サリサの家はあの子と父親の二人きりなんです。宿屋は女手がなくて大忙しって話ですよ」
サリサは里で宿屋を営む家の娘だ。ルネたち里の人間の例に漏れず、いかにも《森隠》の末裔らしい白金の髪と淡い空色の瞳をした、妖精のように美しい少女だ。幼少期は病弱だった上、今も言葉を発することはできないので、ルネたちとは違い特別な訓練は受けていないらしい。
「それは大変ね。でも、まだサリサを家には帰せそうにないんでしょ?」
「例の男が今も頻繁に顔を出すので、春になるまではこちらに置いてほしいとのことです」
「まったく、迷惑な客人ね」
森の奥深くにあるこの里も、今の季節はバルアとユハシュを行き来する旅人が、連日のように出入りする。一般的な旅人の足なら《常闇の森》を抜けるのに、最短距離でも丸二日かかる。街道を通る旅人はほぼ例外なく、この里の中で一夜を過ごすことになる。
普段は退屈過ぎるくらい穏やかな里だが、人の出入りが多くなればそれなりに揉め事は起きる。とはいえ、この里の住人たちの実態は、魔獣すら狩る屈強な《森隠》だ。さらにゼト大公旗下の騎士たちも駐屯するこの地で、犯罪など犯そうものなら、里の外に身一つでつまみ出されることになる。それは魔獣のエサとなることを意味していた。
「ささいなケンカ程度のことはあっても、大事になることはめったにないって聞いてたのだけど」
「普通はそうですわ。サリサをここで預かる原因になった男も、里を追い出すほどの問題を起こしたわけではありませんから」
――過日、宿屋の主人が娘を連れて館を訪ねて来た。『しばらくの間、奥方様の下で娘を預かっていただけませんでしょうか』と。
くわしく事情を聞けば、バルアとユハシュを行き来する商隊に雇われる男が、若く美しいサリサに目を付けたらしい。里にやって来るたびにサリサに軽口を叩き、つきまとってくる男に親子はたいそう困っていた。
男が属する商隊はそれぞれの国で商品を卸すと、別の品を仕入れ取って返すことを繰り返している。そうなれば一週間に一、二度は里に顔を出すことになる。
「旅人の庇護は里の者にとっても義務ですもの。よほどのことがない限り、追い出すわけにはいきませんわ」
「でもサリサはいざとなっても、助けを求められないのよね……。お父君もさぞ心配でしょう」
里の女性たちも《森隠》としての訓練を受けているため、素人の男を組み伏せる程度のことは容易いらしい。ただし、サリサは本当にただのか弱い娘でしかなく、声を発することもできない。それでいて妖精のごとく儚げな美貌とあれば、父親は気が気ではないだろう。
「でもまあ、この館にいる限りは安心よね。今度里に行く時は、お父君にサリサは元気にしていると伝えてちょうだい」
かしこまりました、とルネが答え、ひとまずその話題は終わった。
※※※※※※※※※※
――どうして、こんなことになってしまったのか。
頭の痛い状況にマレーテは困惑していた。それは原因となった、目の前の男も同じだった。
「ああ……どうしよう、俺はサリサと話がしたかっただけで、こんなはずじゃななかったのに……」
頭を抱え、ときに親指の爪を噛みながら、狭い小屋の中を右往左往する若い男は、いかにも小物じみていてうんざりする。
小さな窓から入りこむ陽の光が、少し陰ってきたことに気づいた。マレーテがこの男に突然腕をつかまれ、人気のない納屋に連れ込まれてから、短くない時間が経っていた。
サリサを館で預かってから一か月ほどが経過していた。父親や宿屋の様子を見るために、彼女を少しの間だけ家に帰らせることになった。それが今日の昼過ぎのことだ。
さすがに一人で行かせて、うっかり例の男に遭遇しては大変だ。間違いなく館で一番を暇をもてあましているマレーテと、その侍女であるルネも同行することになった。
若い娘にちょっかいをかける男がいるかもしれないと聞いて、アトランは眉をひそめたが、里の中を散歩することはマレーテに許された数少ない息抜きだ。一人でないならと、結局は許可をくれた。
そうして里の外れにある宿屋を訪ねてみたが、なぜかサリサの父親は姿が見えない。里に到着した旅人が部屋を求めて訪ねて来たため、店番をひとまずサリサにまかせ、マレーテとルネは父親の行方を探すことにした。
宿屋の中も、周囲の店もくまなく探したが見つからず、もしかするとと……と宿の裏手から少し歩き、森の中にある小川へと下ってみると、なんとサリサの父親が頭から血を流し倒れ、弱々しく助けを求めていた。
水を汲むため高所から川へと降りる途中で、足を滑らせたらしく泥まみれだった。一人で宿屋を回す疲労から、うっかりしていたのかもしれない。意識はもうろうとし、足をくじいたらしく自力で動くことは難しそうだった。
サリサの父親は相当の巨漢で、マレーテとルネだけでは動かせそうにない。ルネに彼の止血を指示し、マレーテが男手を呼んで来ようと、来た道を引き返した。しかし緊急事態とはいえ、別行動をとったのは失敗だった。
マレーテは里の外の者にあまり顔を見られないように、外出するときはフード付きのマントを頭から被っている。宿屋の方角へ向かう、小柄な女らしき人物――それだけで娘のサリサと思ったのだろう。
ふいに木陰から現れ立ちふさがる男に、マレーテは悲鳴を上げかけたが、慌てた様子で口を塞がれ、あっという間に古い納屋の中へと引きずり込まれてしまった。




