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1、まなざしの理由




 ざくっ、ざくっ、と耳元で軽快な音が響く。

 

 マレーテは規則的なハサミの音と、大きな手で髪をすかれる心地よさに目を細める。わずかに木々が開けたこの場所は、冬の森の中であっても日当たりがよく、自分たち夫婦のお気に入りの場所だった。




 椅子にするのにちょうどいい丸い岩の上に腰かけたマレーテは、綿毛のように風の中を舞う、自身の髪の毛をながめていた。やがてマレーテの頭をやさしく包むように、大きな手がそえらえる。


「――うん、いいと思う」


「ありがとう」


 マレーテは手鏡を取り出すと、角度を変えつつ切られたばかりの髪を眺める。あごの下あたりでまっすぐに切られた髪は申し分なく整えられている、これなら帰ってから侍女のルネに手直しを頼む必要はなさそうだ。


「上手になったわね、アトラン」


「ご満足いただけて何より」


 アトランは少し冗談めかして応じると、マレーテの肩を覆っていた布を取り髪の毛を払った。


「ルネに頼むとイヤそうな顔をされるんだもの。あなたが器用で助かったわ」


「その美しい髪に刃を入れたくない気持ちは私もわかるよ」


「私はもう慣れたからなんとも思わないわ。むしろ伸びてくると、重く感じるくらいよ」




 この地域一帯では、長くよく手入れされた髪は高貴な身分の証だ。貴婦人が髪を切るとすれば、世俗を捨て神に仕える誓いを立てたとき、もしくは喪に服すときだ。


 初めて《常闇の森》に足を踏み入れた時から、すでにマレーテの髪は短かった。あの時は庶民の娘に変装するため仕方なしに切ったのだが、今後も髪は伸ばさないと決めていた。


 アトランにそう告げた時、彼は何も聞かずマレーテの想いを静かに受け入れてくれた。


 



「……マレーテ」


 鏡に見入っていると、アトランに後ろから抱きしめられた。マレーテは肩に回された腕に手を添え、愛する人の体温に酔いしれる。――かすか走る胸の痛みと共に。


 マレーテが幸福を感じる隣には必ず罪悪感がついて回る。本来なら、自分は安寧な生活を享受していい立場ではない。森の彼方に置いてきたものに想い馳せるたび心が苦しくなる。だがマレーテはこの痛みを一生忘れることはないし、忘れてはいけないと知っていた。


 もう一度低く優しい声で名を呼ばれ、大きな手がそっと爪を立てぬよう、マレーテのあごを持ち上げる。茶色の毛に覆われた獣の手だ。口づけを受け入れてから身を離すと、深く穏やかな暗緑色の瞳が自分を写していた。




 ゆったりとしたまどろみのような時に浸っていると、ふいに自分を抱きしめる腕がこわばるのを感じた。見上げれば、暗緑色の瞳が鋭く細められる。


「アトラン?」


 彼のこの表情は何度か見たことがある、森の中で遠くに危険な魔獣の気配を感じたときのものだ。魔王の末裔にして森の王たるアトランの前に、魔獣が姿を現すことはほとんどない。ただしこれは彼が魔獣を支配しているわけではなく、より強大な相手には近づかないという、単なる獣の習性らしい。


 だからマレーテを連れているとき、行く先に魔獣の気配を感じると、アトランはすぐに道を変える。あちらが先に逃げ出すとわかっていてもだ。どんなに習性を把握していても、獣は獣、理屈では通じない行動に出ることもあり得るからと。アトランはマレーテがそばにいる時は、ささいな危険も冒さないと決めているようだ。




 危険を察知したアトランが、表情を険しく遠くを見つめることはある。だがどうした訳か、今その視線は間違いなくマレーテに向けられていた。警戒で満ちた瞳は、やがて不安に揺れ、ついに恐怖が宿っていることに気づいてしまった。


「――すまない」


 はっとしたようにアトランが視線をそらし、さりげなくマレーテから距離を取った。


「少し用事を思い出した。そろそろ戻ろうか」


「そう……わかったわ」


 明らかな言い訳にマレーテは傷つきながらも、素知らぬ振りで笑ってみせた。


(どうして……)


 態度を突然豹変させたアトランに、何が起きたの理解できなかった。だがひどく嫌な予感がして、理由を問い返すこともできなかった。アトランに手を引かれ帰る道すがらも、ほとんど会話はなかった。


 その日の夕食時、アトランは仕事を理由に食堂に現れなかった。そして就寝の頃合いになっても、夫婦の寝室にはやって来なかった。


 マレーテは心にもやもやとしたものを抱えたまま、眠りにつくことなく夜明けを迎えた。アトランはその日ついに寝室に入って来ることはなかった。次の日も、そのまた次の日もずっと――。








「二週間も!?」


 アトランが夫婦の寝室に入って来なくなって、ついに半月近くが経ってしまった。理由を聞いても、仕事が忙しいとか森の巡回になどと、わざとらしい理由を目を泳がせながら告げられれば、かえって追及できなかった。


 ……真相をあばこうとすれば、恐ろしい事実と向き合うことになるのではないか。そんな予感がぬぐえなかった。


「それはつまり、夫婦の営みがなくなったというお話ですよね?」


 ルネに思いのほかはっきりと問いただされ、気まずさをこらえながらマレーテはうなずく。


「未婚のあなたにこんな話をするのは、本当に申し訳ないけど」


「いいえ、お気遣いなく。これでも里一番の耳年増と自負していますもの! 」


 胸に手を当て高らかと言うルネに、「それは自慢にはならないのでは?」と思いつつも、面倒だったので突っ込むのはやめた。




「お二人が結婚して一年以上経ちますものねえ。倦怠期というやつかしら? いえ、でもあれだけ奥方様を溺愛している旦那様が……?」


「そういえば、あの日は明らかに避けられていたけど、次の日から昼間の態度は別に変ってない……いえ、むしろ前よりも過保護になった気がするわ」


 ここ最近アトランはマレーテと顔を合わせるたびに、疲れていないか、腹は減っていないか、寒くはないかと、やたらと甲斐甲斐しい。もともとマレーテを過剰なほど大事にしてくれる人だが、寝室に来なくなった前よりその度合いは増している気がする。




「浮気をしている男は後ろめたさから妻に優しくなる、みたいな傾向があるとはよく聞きますけどねえ」


 思わず絶望的な眼差しを向けると、ルネが慌てて両手を振る。


「いえいえ、ただの一般論で旦那様に限ってはありえませんわ。だいたい誰とどこで浮気するんですか」


「……それはそうね」


 真冬であるこの時期は、《常闇の森》を旅人が通過するため、里にもよその人間が入れ替わり立ち替わりやって来る。確かに外部の人間との接点は増えるが、その分アトランは毎日忙しそうにしている。そんな暇はあるはずない。

 



「その、『ある日を境に突然』というのが引っかかりますわね。もうこの際、わたくしが旦那様に聞いてまいりましょうか?」


「それで『ふと正気に戻って愛想が尽きた』とか言われたら、私はどうすればいいのよ?」


「さすがにそれはないとは思いますけど……」


 その後もルネと、ああだこうだと想像を巡らせてみたが、ピンと来る答えは見つからなかった。やはり勇気を出してアトランを問い詰めるべきだろうか……そう考えていたとき、衣裳部屋の方から人の気配がした。




「――サリサ。そこにいるの?」


 マレーテが声をかけると、ひょっこりと小柄な少女が顔を出した。









 予告からだいぶ遅れてしまい申し訳ありませんでした。明日も更新予定です。



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