15、ユハシュ王家の闇
うりざね顔に涼し気な目元、ほっそりとした肢体と茅色の髪を持つ女性。淑やかな雰囲気をまとうが、女王としてはいささか存在感に欠けるとも思えた。片親が違うせいなのだろうか、マレーテとはあまり似ていない。
扉が開いたことに気づいたのか、シトレはちらと視線を上げたが、こちらに声をかけてくる様子はなかった。本来なら女王に礼を取るべきだが、どうしたものかとトルドー公爵をうかがうと、「必要ないよ」というように首を振られた。
「うゔ……がああ゛あ゛……」
突然聞こえてきた、獣の断末魔のような声にぎょっとする。
シトレの影になって気づかなかったが、ベッドで半身を起した人間がいたのだ。細身なシトレの影になるほど小柄なので子供かと思ったが、震え伸ばされた腕は枯れ枝のようで皺だらけだった。
「はいはい。わかってるから、慌てないで」
椀の中でスプーンを動かしながら、シトレは幼子をあやすような声音で語りかける。
「さあどうぞ、お母様」
その呼びかけにアトランは愕然とした。
(まさか……王太后か!)
それはアトランもよく知っているはずの人物――老婆のごとく変貌してしまった、王太后ゼネヴィアだった。
立場上、アトランはゼネヴィアとは何度も顔を合わせている。彼女の年齢はまだ五十にも届かないはずだ。若い頃より肉付きが良くなったと言われていたが、『ユハシュの宝玉』とうたわれた、見る物を圧倒する美貌は健在だった。
(本当にあの王太后なのか……?)
かつて豪奢なドレスをまとっていた体は、立ち枯れの木のように痩せさらばえ、豊かな髪はざんばらに抜け落ち、瞳は暗く落ちくぼんでいる。あまりのことにアトランはしばらく言葉を紡げなかった。
「先生、これはいったい――」
「毒の影響だよ。当初の王太后陛下はご子息より症状が軽く、会話もできた。ところが数日後に急に悪化してね、何日も生死の境をさ迷って命は取り留めたがこの有様だ。医師の話では頭にも毒が回ってしまい、もう歩くことも、しゃべることもままならないそうだ」
「おいたわしい……」
それは心の底からの言葉だった。
正直なところ、彼女の派手好きで居丈高な言動は、王侯貴族として尊敬できるものではなかった。
そしてマレーテの両親である先々代王と愛妾キゼーナは、五年ほど前に急な病で立て続けに亡くなっている。ゼネヴィアや息子のライエス王が密かに殺害したのではという噂は、まことしやかにささやかれていた。……おそらくそれは事実なのだろう。
何よりマレーテを毒殺犯だと断じ、捕縛を命じたのは彼女だ。だがそれらの印象を差し引いていも、あまりに憐れな姿だった。
「なぜこの状況を私に?」
困惑のままトルドー公爵を顧みれば、彼は静かに首を振った。
「わからんのだよ。シトレはここに君を呼ぶようにと告げたきり、黙したままだ。君の方こそ何か心当たりはないのかね?」
「……いえ、まったく」
焦燥を顔に出さないよう答えつつ、アトランは考える。
(やはりシトレ女王は、マレーテが《常闇の森》にいると気づいているのか?)
戴冠式の招待状にゼネヴィアの署名を、あの様子では当人がペンを取ることすら難しそうなので偽造ではあろうが、少なくとも王太后の署名を入れたのはシトレの意志だろう。ゼネヴィアは生を繋いでいるものの、もはやマレーテを断罪することなど不可能だから、安心して帰国しろ――そうマレーテに伝えろとでも言いたのだろうか。
(いや、あるいは――)
「すでに王太后陛下に以前のような自我はなく、いっそ苦しみから解放して差し上げるべき……との意見も侍医団から出ている。だがシトレが承諾しないのだ」
「仕方ありません。実の母君ですし、簡単に割り切れるものではないでしょう」
トルドー公爵は力なく首を振った。
「そういうことではないのだよ」
ゼネヴィアを見れば緩慢な動作で、シトレにすがり付くように何かを訴えていた。
「――ゔああ……で……て……ばあ……」
「ええ、ええ。もちろんよ、お母様」
唇は柔らかく弧を描いているが、シトレの目は空虚なガラス玉のようだった。それでいて相づちを打つ声も、母の背を撫でる仕草も優しく、その歪さにぞっとする。まるで母親を生き人形に見立てた、ままごと遊びのようだ。
「私は妻が可愛い……そして可哀想でならない。少女だったあの人が、この王宮で抱き続けてきた孤独や屈辱を思えば、私はシトレを止めることはできない」
派手好きで奔放な実母や弟と、物静かで思慮深いシトレが不仲だったという話は有名だ。
シトレは本来なら、若く美しい他国の王族とも婚姻を望める立場でありながら、年かさの公爵の後添えとして嫁がされた。『傷物であるため年のいった男の後妻にするしかなかった』そんな噂を背負いながら、嫁がされた彼女の心の内は想像がつく。
幸いにも夫婦仲はうまくいったとはいえ、実の家族から受けた仕打ちをシトレは今も許せずにいるのだ。
「あれは……女王陛下の母君に対する復讐なのですか?」
「それとも言い切れん。ずっと欲していた母君の関心をようやく独り占めできたんだ。今、あの人は間違いなくこの上ない幸せを感じているはずだ。それがひどく歪な物であることは承知しているよ。……妻をいさめることもできない、情けない男と笑ってくれてかまわんさ」
アトランは無言で視線を下げた。この状況を前に、誰かを責めることなどできなかった。
ふと、思い返すことがあった。
(まさか……)
マレーテは王太后らに毒を盛り、自分を犯人に仕立てた真の首謀者について、数人の心当たりを告げた。
『王太后たちは浪費家だったから、日頃から苦言の多かった財務卿とは相性が悪かったわ。あとは彼女が進言して罷免された元宰相もいたわね。それに聖職者とも――』
しかしその中に、誰よりも先王と王太后を恨むはずの人物――シトレの名がなかった。マレーテが姉の胸中を知らぬはずはない。
(意図的に言わなかった? いや、考えたくなかったからか……)
――本当は誰が自分に罪を擦り付けたかを。
もしアトランの予想が当たっているなら、マレーテにとっては残酷な話になる。だが希望もあった。女王とて無実の妹を、進んで手に掛けたいわけではないだろう。マレーテが永遠に表舞台に出て来ない保障があるのなら、交渉材料になるはずだ。
「先生、あちらでお話したいことがあります」
アトランはトルドー公爵を誘い、一度ドアの外へと出た。まずトルドー公爵の反応を見たかった。今の状況を憂う彼ならば、うまくシトレ女王との仲立ちをしてもらえるかもしれない。
「どうしたのかね?」
「これから話すことはどうかまだ内密に。――実は我が領地《常闇の森》で、ユハシュ王女マレシカ様をお預かりしています」
「君は……君はいったい何を言っている……?」
「驚かれるのは無理もありません。つまりマレシカ王女こそが私の妻なのです」
トルドー公爵もまた、この程度のことは予想しているだろうと思っていた。しかし彼の反応はアトランにとって想定外だった。トルドー公爵は目を見開き、震える手でアトランの両肩をつかむ。
「先生?」
「アトラン……これから私が話すことをよく聞きなさい」
まるで差し迫る化け物に、恐怖するかのような恩師の表情と声音に、体の芯が冷えていく思いがした。
――数刻後、トルドー公爵と別れたアトランは、再び豪華絢爛な回廊を歩いていた。
落日に照らされ黄金に染まる宮殿を見ながら、深く溜息をついた。この宮廷の闇を知ってしまった今となっては、すべてが空虚な張りぼてにしか見えなかった。
(帰ったら、マレーテに何から話せばいいんだ……)
自分の帰りを今か今かと待っているだろう妻の姿を想いながら、やるせない気持ちにとらわれていた。




