11、かつての婚約者
「レイダ様は、以前アトラン様の婚約者だった方です」
アトランが部屋を去った後、マレーテはルネに客人について尋ねた。
しばらく、ためらうような素振りを見せたルネだったが、マレーテは一応この館の女主人であり、知る権利があると判断したのだろう。誤解しないでくださいね、と何度も念を押した後、ルネは客人について話してくれた。
ラトヴァス侯爵令嬢レイダは、例のごとくバルア王家にゆかりのある女性で、一年半ほど前にこの地でアトランと顔合わせをし、婚約までこぎつけた相手だった。
しかし、正式な婚姻を交わす直前に彼女は失踪してしまう。身分違いの恋人と駆け落ちをしてしまったらしい。
アトランは手ひどい形で名誉を汚されたことになる。しかし『誰かを責めても解決する問題ではない』と、彼はラトヴァス家から賠償金すら受け取らず、最初から無かった話としたらしい。
アトランに婚約者がいたという話は初耳だったので、さすがにマレーテも驚いていた。アトランの今までの口振りでは、具体的な結婚を前提にした話どころか、令嬢たちとの初顔合わせの時点で、拒絶され尽くしてきたはずだ。
「レイダ様も顔合わせの時は、他のご令嬢と同じような反応で逃げるように帰られて行きました。それが前向きに話を進めたいと、先方から連絡を受けた時は館の者一同が驚きましたわ。まあ、ラトヴァス侯爵家は資金繰りに困っていたそうなので、レイダ様本人のご意向でないことは確かでしょうね」
「そういう事情ならアトランだって、結納金に糸目はつけないつもりだったんじゃない?」
ゼト大公国は森から得られる資源に加え、通行の際にかけられる税収により、小国にしては実入りは悪くない。ラトヴァス家の損失がどの程度かは知らないが、一家門を立て直しさせる程度の肩代わりなら、難しいことではないだろう。
おそらく呪われた身である裏目から、むしろアトランが侯爵家への援助を申し出たのではないだろうか。妻を金で買うような行為、と自己嫌悪に陥りながら、そうせざるを得なかったことは想像がつく。
「つまり破談は完全に、そのレイダ嬢の方に過失があるってことね」
アトランは花嫁を迎える側としての義理は果たすつもりだったはずだ。そして望まぬ婚約がきっかけであっても、駆け落ちに関しては完全にレイダという娘本人の責任だ。
当時のアトランの落胆を想像すると、やるせない気持ちになるが、彼にやましいところも落ち度もないことに、マレーテはほっとしていた。
「――それで、失踪したはずの令嬢がなぜか今日ここに現れた、と」
実家の名を名乗る以上、駆け落ちに失敗し無理やり連れ戻されたか、恋人に見捨てられ自ら家に戻ったのだろう。
そういった女性の処遇は相場が決まっている。醜聞を背負った以上、もはや良縁は望めない。修道院に送られるか、身分のない成金や年の離れた男の後妻として嫁がされるといったところだ。
レイダの用件は想像がついていた。おそらく実家の者に、ゼト大公に情けを乞い今度こそ彼の花嫁になるか、それ以外の悪条件を飲むかの二択を迫られたのだろう。
ルネは子供のように頬をふくらませ憤慨していた。
「あんな不義理をしていおいて、今更もう遅いのよ! 当家にはすでにご立派な奥方様がいらっしゃるんですもの」
「……そうね」
平静に言葉を返したつもりだったが、それは喉をつかえるような固い声だった。ルネが驚いたように大きく目を見開く。
「奥方様!? 心配しなくても奥方様を差し置いて、旦那様があんな失礼な方を選ぶなんてありえませんからね!」
アトランが自分を見捨てる真似などしないことは信じている。この地を去れば、自分は遅かれ早かれユハシュ宮廷の追手に捕まるだろう。心優しいアトランがそれを見過ごすはずはない。
だが彼にとっても訳ありの妻より、正統なバルア王族の女性を妻にした方が後の憂いがないはずだ。令嬢の方も、最初は呪いに対する嫌悪があったとしても、アトラン本人は誠実で優しい人だ。いずれは気持ちも氷解するかもしれない……。
そんなことを考えつつも、自分から身を引くと申し出る勇気などないことにマレーテは苦笑する。
「気になるのであれば、ご自分の目で確かめられたらどうです?」
「え?」
暗い表情のマレーテに何を思ったか、ルネがそんなことを言い出した。
「私が以前使っていたメイドのお仕着せをお貸しします。万が一見つかっても、それなら誤魔化せるでしょう」
「アトランとお客様の会話を立ち聞きするってこと!?」
「あら、呼ばれてもいない昔の女が押し入って来たのですよ。秘匿の立場でなかったら、奥方様が堂々と迎え撃っても問題はないはずです。話を聞くくらい当然の権利でしょう」
最初はマレーテに詳細を話すことも渋っていたくせに、ルネはすっかり開き直った様子だった。
確かにレイダから復縁を迫られた時のアトランの反応に、興味がないと言えば嘘になる。だがもし万が一、アトランがレイダに未練がある様子なら、どうすればいいのだろう……。
ますます暗く落ち込んでいくマレーテの様子に、ルネは腰に手を当てて呆れたように溜息をついた。
「お忘れかもしれませんけど、旦那様にだって選ぶ権利はあるんですからね」
「わかってるわよ。だから心配してるんじゃない」
「……やはりご自分の目で確かめられた方がよろしいですね」
ルネはそっけなく肩をすくめると、「服を取って参ります」とマレーテの返事を待たず、部屋を出て行ってしまった。
――しばらく後。
メイドのお仕着せを持って部屋に戻って来たルネにより、無理やり着替えさせられたマレーテは、アトランと客人がいる部屋の前にやってきた。
(何やってるんだか……)
ルネの勢いに流されるままここまで来てしまったが、だんだん頭が冷えてきた。メイドの恰好までして、子供じみた密偵ごっこにバカバカしくなってきた。
「ここには誰も来ないよう、私が人払いをしておきますからね」
一応本職の諜報員であるはずのルネは生真面目な顔でそう言って、その場から去って行ってしまった。
取り残されたマレーテは仕方なしに、音を立てぬようにドアを小さく押し、室内をのぞいてみた。
そこはサンルームであり、建物から半円形に突き出た構造になっている。南側はガラス窓で覆われていて、噴水のある庭園が見渡せた。日当たりの良い室内には様々な観葉植物が置かれている。温暖とは言えないこの土地でも、季節を問わず快適に過ごせる場所だ。
館の中に客間は他にもあるが、最も景観がよく過ごしやすいのは、この部屋だろう。場所はアトランが選んだはずだ。
相手は丁重に礼を尽くさなければならない、バルア王族の血を引く高貴な令嬢だ。もてなし以上の他意はない――そうとわかっているはずなのに、マレーテの心は曇ったままだった。
「――大公殿下とて花嫁は必要なはずです」
室内から聞こえてきたのは、甘く愛らしい声音だった。
二人の姿はドアからよく見通せる部屋の中央にあった。テーブルの紅茶に手を付ける様子もなく、アトランはなぜか客人に背を向けるように、庭の方を向いて立っていた。
その背後からすがるように、マレーテと同世代らしき黒髪の娘が語り掛けている。小作りな顔立ちの、少し気は強そうだが十分に愛らしい容姿の娘だ。
――もうすでに妻はいる。アトランの口から一言そう言ってしまえば、終わる話だが、彼はその言葉を口にしない。言わないのはマレーテの存在を隠すため……そう思いたかった。
アトランがレイダに向き直る。
「あなたを妻に迎えることはできかねます」
「どうしてですか!?」
「婚姻を結んだ場合、あなたは公都レガルカの屋敷で暮らすことをお望みなのでしょう? 私は《常闇の森》を監視する義務があり、この里から長く離れることはできません。公都に戻るのは一年に二、三度程度、それも数日間の滞在です。その程度の接点では夫婦とは到底呼べないでしょう」
「跡継ぎができれば十分でしょう。夫婦の閨まで拒否している訳ではありません。……一年に数回程度なら我慢いたします」
(何言ってるの、この女……)
レイダの嫌悪を隠さない苦々しい言葉に、マレーテは呆気に取られていた。だんだんと鳩尾の当たりが熱くなってくる。この娘は何度アトランの気持ちを踏みにじれば気が済むのだろう……。




