二十二匹目 オオカミくんと女子の部屋
愛唯の部屋。
即ち、女子の部屋。
デフォルメされた動物のぬいぐるみが部屋を埋め尽くす勢いで置かれ、壁にも数々の動物写真が飾られている。上下左右どこを見てもなにかしらの動物とこんにちはする空間には若干引きそうになったが、そんなことよりも!
「うっ……」
この世で最も過酷な環境に放り込まれた俺は、強烈極まるイチゴミントの甘い香りに思わず鼻を摘まんだ。隙間なく充満した女の子の匂いにセーフティゾーンなどあるわけもなく、息苦しくなるどころか窒息しそうでツライ。
見せたいものは見せたんだから帰ってもいいだろ! という理論は頭から却下されたわけで、果たして俺は生きて帰れるのかな? 帰れるよね?
「狩神狼太! 貴様、愛唯の部屋で鼻を摘まむとはどういう了見だ!」
「ぐえっ!? や、やめろ來野首絞めんな!?」
確かに失礼な行為だとは思うけど、仕方ないだろ。イヌやオオカミの嗅覚は人間の百万倍以上。人間状態でも百倍くらいはあるんだ。とはいえ、単にそれだけ臭いを強く感じるわけじゃない。優れているのは『嗅ぎ分けられる』って部分だ。視覚に置き換えるなら常に顕微鏡で細部まで見えている感じだな。
つまり嗅ぎ分ける必要がないくらいイチゴミントで満たされていたなら、常にその匂いだけを嗅ぎ続けるっていう拷問になるわけだ。タスケテ。
「お茶を淹れてきますね。お二人は自由に寛いでいてください」
視線で愛唯にヘルプを求めたが……うん。まあ伝わらないよね。絞殺現場さながらな俺たちをじゃれ合っているとでも思ってんのか、微笑ましい顔をして部屋から出て行ったよ。
てか、このイチゴミントが支配する空間で來野と二人きり? え? 勘弁して。
「このくらいにしてやる。以後、気をつけるがよい」
そう告げて來野は俺の首から手を離すと、三歩ほど下がって距離を置いた。
やっと息が吸え――っと鼻はダメだ。口呼吸で凌ぐしかないな。
「……」
「……」
き、気まずい。
なんだよこれ。女子と二人きりってこんな気まずいもんなの? 愛唯や弥生と二人っきりになったことはあるけど、これほど重たい沈黙にはならなかったぞ。いやまあ、二人ともそんな性格じゃないからだろうけど。弥生に至っては妹だし。
座ろうにも、女子の部屋ってどこに触れていいのかさっぱりわからん。俺が座らないから來野も立ちっぱなしだった。
「か、狩神狼太」
すると沈黙に堪えかねたのか、來野が立ったまま口を開いて微妙に震えた声を出した。
「貴様は結局、愛唯のサーカスの勧誘はどうするつもりなのだ?」
なんの話が飛び出すかと身構えかけたが、それなら即答できる。
「あり得ないな。俺がなんの後ろ暗さもない普通の人間だったら一考はしたかもしれんが、ニホンオオカミとの混ざり者が大道芸なんて見世物をやるとか論外だろ」
「……そうだろうな。私個人としては協力したいが、私情を抜きにすると難しい問題だ」
來野だったら愛唯のために問答無用でオーケーするかと思えば、意外と冷静に考えているようだな。俺に比べたら変化なんて角くらいしかない來野でも無理なら、半人半狼の俺なんかもっと無理だ。
「……」
「……」
ぐ、話が続かない。また沈黙しちまった。
居心地悪いな。黙っていると匂いのせいで変に意識してしまいそうだ。なにか話題はないか? 続けれそうな話題は……無理だ。コミュ力0かゴミめな俺には話題のきっかけなんて高次元の産物すぎてなにも思いつかん。
「か、かか、狩神狼太」
「こ、今度はなんだ?」
よかったまた來野から話しかけてくれた。気まずいせいかなんかもじもじしているが、もうなんでもいいから愛唯が戻ってくるまでの急場を凌ぐぞ。
「貴様と愛唯が成り行きでこ、こここ恋人という設定になっていることは理解している。だ、だが、実際のところはどうなのだ?」
ん? なにその質問? 意図はわからんが、とりあえず答えるか。
「実際もなにもただの設定だ。理解してるんだろ?」
「そうではない! 愛唯のことを、一人の女性としてどう思っているのかと聞いている!」
「ごふっ!?」
咽た。危うく鼻からイチゴミントを吸収して連鎖的に咳き込みそうになったぞ。
「な、なんだよいきなり!? そんなの……」
おのれ來野の奴、愛唯の部屋でなんて質問しやがるんだ! 要は愛唯のことを好きか嫌いかって話だろ。考えるまでもないね。俺は……待て、冷静になれ。この選択肢、答え方によっては血を見るかもしれん。
例えば『好き』と答える。
――『不良が愛唯を好きなどあり得ない』とか言われて間違いなく殺される。
例えば『嫌い』と答える。
――『私の親友を嫌うなどあり得ない』とか言われて間違いなく殺される。
あれ? どっちを選んでも俺死んでね?
「そんなの……」
なかなかに答えを窮する案件だ。そもそもの話、俺はなんで愛唯の奴にここまで関わってしまったんだ? 成り行きと言ってしまえばそれまでだが、非情になればいくらでも関係を断つことはできたんじゃないか?
なのに、そうしなかった。
俺は愛唯のことを、本当にどう思っているんだ?
「すまない、変なことを訊いた。今の質問は忘れてくれ」
口を噤む俺に、顔を朱に染めた來野が慌てたようにあたふたして質問を撤回してくれた。俺も思考のど壺に嵌りそうだったから助かったよ。
「では、私のことはどう思っている?」
待って來野さん、それも変な質問だと俺思います!
「貴様には酷いことをしてしまったからな。やはり、嫌っているか?」
來野はどこか悲しそうな顔をして項垂れた。ああ、そうか。今度は女性がどうって意味ではないのか。日本語って端折るとめんどくさいな。
俺が來野を『人』としてどう思っているのかって話なら――
「別に、もう気にしてねえよ。まあ、お前は表裏がなくて馬鹿みたいに真っ直ぐだからな。寧ろ好感が持てるタイプだ」
思ったことをそのまま口に出すと――ぱぁあああっ。顔を上げた來野は暗くなっていた表情を一気に明るくさせた。LEDでも搭載してんの?
「ほ、本当か!? 本当だな!?」
なんか尋常じゃない勢いで俺に一歩一歩詰め寄ってきたぞ。その勢いに押されて俺も一歩一歩後ずさる。
「私はこんなキラキラした名前だぞ!?」
「いや名前は関係ないけど……」
「関係ないのだな!?」
「ちょまっ!? やめろそんなに近づいたら――」
下がろうとしたらベッドに足が引っかかった。
まずい、バランスが――
「ひゃあっ!?」
ふよん、と。ベッドに倒れ込んだ俺に來野がそのまま覆い被さってきた。
愛唯のベッドに染み込んだイチゴミント。來野からは甘酸っぱいレモンが漂ってきておかしくなりそうだ。しかもダイレクトに伝わる柔らかい感触が、なんというかデジャブ。
「くっ、狩神狼太、どこを触って……」
來野さんが、そのワガママボディで俺に被さったまま身じろぎするもんだから、いろんなところがアレでソレでコレでもう頭が真っ白で俺の語彙がやばい。
まあなにが言いたいかというと……オオカミ化、止められないよねって話。
「き、昨日に続き今日も狩神狼――き、貴様、なぜオオカミの姿になっている!?」
「來野こそ、角生えてるぞ」
「はっ!?」
上半身だけ起こした來野はトマトみたいに顔を真っ赤にさせながら、額に手をやってそこから伸びる突起物を確認した。どうやら來野も自分ではコントロールできず、感情の高ぶりによって変化が起こる体質みたいだな。なんの感情かは知らんけど。
まあ、お互い動物に変化してしまうことが既知だったのは助かっ――
「お待たせしましたーっ!」
最悪なタイミングで部屋の扉が開き、トレーに紅茶とクッキーを乗せた愛唯が元気よく入ってきた。そしてベッドの上でほとんど重なっている俺たちを見て、目を丸くしたぞ。
「め、愛唯!? こ、これはちがっ」
「お前が考えているようなことはこれっぽっちもなくてだな」
即座に跳ね起きた俺たちが必死に弁解しようとするが、その前に愛唯はトレーを左手だけに預け、フリーになった右手の人差し指と親指だけを立てて俺たちに向けた。
「バン!」
拳銃を撃つジェスチャーと共に、愛唯が短く言の葉を放つ。
「「――ッ!?」」
瞬間、俺の体に例の電流が迸る感覚が襲った。なんだか急に倒れないといけない気がしてきたぞ。
いかん、これは猛獣使いの力だ。逆らえ! 屈するな! 俺はペットじゃねぇえッ!
と人間としての意識で思っていても、体は言うことを聞いてくれないわけで、俺は再びベッドにゴロンと横たわることになってしまった。
「えへへ♪」
ゾワリとした寒気。見ると、トレーをテーブルに置いた愛唯がヨダレを垂らしそうな蕩け顔で俺へと迫っていた。手はやっぱりヘンタイチックにわきわきさせているよ。
「なんだかわかりませんがオオカミさんがオオカミさんになってるってことはつまりもふもふしていいってことですね! 了解しましたすぐに楽にしてあげますうぇへへえへへ♪」
「や、やめろ!? 来るな!? おい來野、見てないで助け……」
興奮して早口で捲し立てる愛唯から視線を横にずらすと、來野が俺と同じように倒れて床に転がっていた。
「すまないが、私も動けないのだ。なるほど、これが愛唯の猛獣使いの力か」
感心してる場合じゃないぞ。この後どうなるかは、來野だって昨日ガッツリと体験しているはずだ。
「あれ? セラスちゃんもシロサイさんになってますね。えへへ、お二人とも今日はサービスいいですねー。わかりました! 順番にもふります!」
「だからやめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
その後、先に人間に戻った來野が愛唯を引き剥がしてくれるまで、俺がめちゃくちゃもふられてしまったのは言うまでもない。




