九匹目 オオカミくんと過去のトラウマ
その日、幼い俺は近所の山に作った秘密基地で遊んでいた。
廃材を集めて木々の間で組み立てた、雨風がかろうじて凌げる程度の簡素な秘密基地だった。今見れば笑っちまうくらいおざなりなそこは、小学三年生だった俺にとっては口うるさい爺さんや堅苦しい分家の連中から逃れるための避難所になっていたんだ。
この頃はまだ自分を人間だと信じて疑っていなかったし、友達だって普通にいた。放課後や休みの度に秘密基地へ集まってはみんなで遊んでいたもんだ。
だが、この日に遊んでいるのは俺一人だった。
友達がみんな旅行や里帰りでいなかったんだ。俺は一人寂しく秘密基地に置いていたボロ椅子に座って黙々と携帯ゲームをしていた。
どのくらいそうしていただろう。気づいた時には空が夕焼け色に染まっていた。
ゲーム機の電池も少なくなってきたし、そろそろ帰ろうかと立ち上がった矢先――近くから女の子の悲鳴が聞こえてきたんだ。
『な、なんだ?』
俺は悲鳴がした方を振り向き、よせばいいのに好奇心に負けて駆け出してしまった。
『ちょ、ちょっとまってくださいッ!? 〝まて〟です! えっとえっと、あっ、〝おすわり〟です! 〝おすわり〟をしてください!』
秘密基地からそう離れていない崖の上で、俺と同い年くらいの少女が必死になにかを叫んでいた。崖下からそれを目撃した俺は、少女がなにをしているのかわからなかった。
だが、すぐに――グゥルルルル。
少女の前から威嚇するような唸り声が聞こえてきた。三匹の野犬が少女を崖の隅へと追い詰めていたんだ。
『〝おすわり〟! 〝おすわり〟!』
少女は涙目になって命令するが、野犬は全く言うことを聞かず飛びかかった。
『あぶない!?』
俺が叫ぶのと少女が足を滑らせて崖から落ちたのは同時だった。咄嗟に走った俺は落ちてくる少女をなんとか受け止めたが、勢いを殺し切れずに転がってしまった。
幸い大した高さじゃなかったから怪我も打撲程度で済んだようだが、転倒して縺れ合った末に少女を思いっ切り押し倒す形になってしまったよ。
鮮やかな赤い髪をした、可愛らしい女の子だった。
意識が朦朧としているのか、ぼんやりとしているも宝石のように綺麗な青い瞳に見詰められた俺は――
ドキリ、と心臓が跳ねた。
可愛いと、思ってしまった。
生まれて初めて、異性ってものを意識した。
『あっ……うぅ!?』
するとなぜか急に恥ずかしくなって顔が熱くなった。いや、それどころか全身が燃え上がるような感覚が襲ってきた。体のあちこちがむず痒くなり――少女の見開かれた大きな瞳に、知らない獣が映っていた。
『オオカミに……おれが……?』
目の前が真っ暗になりそうだった。嘘だと思いたかった。だが、どんなに否定してもニホンオオカミの姿は覆らない現実。自分を普通の人間だと信じ込んでいた幼い俺は絶望というものを初めて経験した。
グゥルルルル。
野犬たちが崖を飛び降りてきた。取り囲まれてしまったが、こんな奴らを相手にしている心の余裕など俺にはなかった。
ガルガルワンワンと吠えてくる野犬たちを――
『うるさいッ!』
俺は八つ当たるようにキッと睨みつけた。すると野犬たちは萎縮したようにクゥンと情けなく鳴いた。それからキャンキャン吠えながら一目散に逃げ去って行ったよ。
「ふあ……もふもふ、です」
少女がいきなり俺の体を抱き寄せて顔を埋めてきた。朦朧とした意識の中で俺がぬいぐるみかなんかに映ってるのか?
そこでようやく、正気づく。
自分がオオカミ化することは、結局今まで爺さんたちから散々言われてきたことだ。まだいい。問題はそれを少女に見られたことだろう。
少女は、俺に抱きついたまま気を失っていたよ。たぶん、俺がオオカミだって気づいて恐怖したんだ。
『……こんなところにおいていけないか』
俺は少女を抱えようとして、自分が四つ足で地面に立たざるを得ないことを思い出した。やり難さを覚えながら少女の襟首を咥えようとし――パァン!
平和な日本じゃ普段は聞くことのない銃声が轟いた。
銃弾が俺の背中を掠める。激痛に喚き散らして転がった俺が見たのは、硝煙を噴く猟銃を構えた人間の大人だった。
『こっちだ! 女の子が野犬に襲われてる!』
大人が仲間を呼んでいる。たぶん地元の猟友会の人間だ。少女を探しに来たのか、たまたまイノシシでも狩りに来ていたのか知らないが、俺のことを『少女を襲う野良犬』だと思っているらしい。死と直結する銃口が今もなお俺に向けられている。
人間が俺を殺そうとしている。
そうわかった途端、言葉にできない恐怖に襲われ震え上がった。そして大人たちが集まって来るのを見るや、パニックになってその場から駆け出した。
大人たちが追いかけてくる。
俺は山の中を無我夢中で逃げ回った。
走って、奔って、疾って――
そこで、目が覚めた。




