第三十八話 そして未来へ。
明治に入って二年。
戊辰戦争もようやく終わり、新時代の幕が上がる。
純とすみれはちかに会いに行った。
すみれの友人であるちかは、禁門の変の時に家族を失った。そのあと、大坂へ行く彼女に純は言ったのだ。必ず会いに行くと。
二人だけではない。彼らの背後には洋装姿の男がいる。
「大坂もいいところだな。特に女性が美しい」
男はいつもみたく笑う。純は呆れて背後を見やった。
「世が変わっても、あなたは変わりませんね。甲斐さん」
「当ったり前よ」
甲斐政義はニッと笑った。結わえられていた髪もばっさりと切られて、ワイシャツにズボン姿の彼は、いつ見ても新鮮だった。
維新後も彼は桂小五郎の片腕として働いている。
「お仕事は大丈夫なんですか?」
するとすみれが甲斐に尋ねる。
「おう。今日は非番だからな。そう言えば今度欧州に行くんだけどよ。やっぱり外国の女性も美しいかね~」
「……」
「すみれさん。行きましょう」
目を点にするすみれを、純は促した。
やはり、甲斐は変わらない。
そして目的地に着いた。
店に入り、すぐにちかを見つけられた。彼女は笑顔で接客をしていた。それはいつか見た彼女の姿と変わらなかった。
ちかは、純とすみれ、そして甲斐の顔を見ると、驚いていた。
「……ほんまに来てくれたんや」
「はい。そう約束しましたから」
「久しぶり。ちかちゃん」
純とすみれが挨拶すると、ちかは二人の背後を見つめた。
「よっ。久しぶり」
「甲斐さんですか? なんか変な格好してはりますね」
「傷つくな……。これが正装ってもんだ」
「だって変やもん」
軽く落ち込む甲斐と自分の考えを貫くちか。
二人のやり取りを見て、純はくすりと笑った。
ちかは元気そうだった。
それでも彼女の心の傷は決して癒えないだろう。それだけのことをちかは経験をしたのだ。それを一生背負っていく。
純に責任がなくても当事者として胸が痛まないわけがない。
「元気そうで何よりだよ。な? 純」
「はい」
甲斐の言葉に純は笑う。しかし、純の笑みに不安を感じたのか、ちかは怒ったように言った。
「純さん! 久しぶりにあったんやから笑顔で!」
「すみません」
すぐに笑顔をつくると、ちかもにこにこと笑う。
「すみれとはうまくいってんの?」
「はい、おかげさまで」
質問に純が即答すると、すみれが傍らに寄って笑顔を見せた。
「うわっ。見せつけやんといてよ」
しっしっと犬でも追いやるような仕草をする。
「そんなこと言わないでよ」
すみれはぷくっと頬を膨らませる。すみれの様子を見て、純もくすっと笑った。
「純さんまでなんで笑うんですか!」
「すみません。あなたが可愛くて」
「え……、あ、ありがとうございます」
一瞬きょとんとして、すみれは恥ずかしげにうつむいた。そんな二人を見てちかがげんなりした様子だった。
「もう……、なんでいちゃいちゃしてること見なあかんの?」
「ほんとだな。まったく」
甲斐も皮肉げに呟く。するとちかが目を上げる。その視線に甲斐は気がついた。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです」
「何か相談なら乗るぜ? 俺は今しかいないからな」
甲斐はにこやかに笑って、ちかの頭を撫でた。
「……」
それはいつまでも変わらない。触り方。すみれの実家にいた頃と変わらなかった。なんだか幸せな気持ちになるのだ。
ちかは甲斐を見つめた。
「甲斐さんには、好きな人いないんですか?」
「……え?」
彼女の言葉は、純たちには聞こえなかった。
その日はたくさん話をした。とても楽しかった。
ちかと再会したころから斐は様子がおかしかったが、純は気にせず、会話を楽しんだ。
「これからも元気でいてください」
帰るとき、純は言った。
「また来ます」
ちかも笑顔で送り出してくれる。
「わたしも遊びに行く!」
「それじゃね、ちか」
「ふたりともお幸せにねっ」
ちかの言葉に純は笑顔を返した。
両親を亡くして、五年ばかりだ。その傷は決して癒えることはないだろう。だけど、それを支えていくのが友人というものなのだろう。
純はちかの笑顔を見て、そう思った。
「なあ、純」
「なんですか?」
帰り道。甲斐に声を掛けられる。振り返って続きを促すが、甲斐は首を振った。
「いやなんでもない」
「……そうですか」
甲斐はなんだか難しい顔をしていた。
不思議に思ったが、純はすみれに笑顔を向けた。
再会があれば、別れの時もある――。
桂小五郎は維新後、名を改め、木戸孝允と名乗った。新政府の基礎を築き上げ、明治政府の中枢を担った。
明治十年五月。
その日は夏と思わせるほどの気温で、太陽も照りついていた。
純は木戸孝允に会いに行った。今は西南戦争の間際。木戸は京都に在住していた。
「よく来たな、純」
出迎えてくれたのは、甲斐だった。
挨拶をすると、甲斐はすみれに笑いかける。
「すみれちゃんも元気そうだな」
「ご無沙汰しております」
彼女は見違えるほど美しくなり、純の伴侶としての気品もあった。
「すみれちゃんは、ますます美人になるな」
甲斐は感想を一言述べ、二人を促した。
「木戸先生は奥の座敷にいる。上がれよ」
座敷には床に臥せた木戸がいた。
「あぁ、純か。すみれさんも……。こんな病人に気を遣わなくてもよいのだが」
木戸はこちらを見上げて、苦笑する。彼はやせ細り、弱々しかった。
「桂さん……」
純は目に入れたくなかった。十年の月日は人をこんなにも変えてしまうのだろうか。
「今は桂ではない。木戸だ」
いつもだったように笑う彼は起き上がった。甲斐はすぐに側に控えて、木戸を支える。
「大丈夫ですか?」
「ああ、今日はなんだか気分が良い」
純とすみれも木戸の近くに寄る。
「君たちが来てくれたおかげかな?」
無邪気に笑う木戸は楽しそうだった。純はそれに答えないといけないと思った。だからせいいっぱ微笑んだ。
「やりたいことは、まだたくさんあるな」
木戸はそう言って二人を眺める。
「君たちはうまくやっているのかな?」
「はい」
恥ずかしげに純は頷く。すみれが続けた。
「もう一人います」
「え?」
「お初さんのところに。今年で六歳になります」
彼女の発言に甲斐と木戸は驚き、顔を見合わせる。
「すみれさん、それ今言うべきですか?」
「え、だって、会える機会なんてめったにないんですよ? 今報告しておかないといつになるかわかりません」
「それはそうですが……」
頬を膨らませるすみれと、眉をひそめる純を見て甲斐が大きく笑った。
「はははっ。純は尻に敷かれてるな」
「どういう意味ですか、それ」
そして、隣で木戸は呟いた。
「そうか……。なおさら、死ぬわけにはいかないな」
そして、純に向き合う。
「純には、いつも辛い思いをさせている」
「そんなことありません」
きっぱりと答える。
木戸と過ごした幼少、そして幕末は酷ではなかった。それは本心だ。彼と過ごした時は楽しかった。
「これからも元気に、幸せに生きてくれ。それが私の唯一の願いだ」
「承知しました」
純は木戸の手を優しく握った。それに木戸は弱々しく笑うのだった。
明治十年五月二十六日。
木戸孝允は没する。
彼の瞼の裏に最後まであったのは、師と友との別れの記憶、明治政府の現状。様々な願いや悔やみがよぎった。しかし、何よりも彼の心を埋め尽くしたのは。
井ノ原純との思い出だった。
訃報を聞いた純は言葉が見つからなかった。それでも、すみれは彼に寄り添い、ずっと待っていた。
「僕は、あの人に恩を返せなかった」
呟く純にすみれが静かに耳を傾ける。
「僕は何もできなかったな……」
遠い目をして呟く彼に、すみれは腕に頭を寄せた。
「この前、桂さんがおっしゃっていましたよね?」
「……」
「『幸せになってくれ』って……。だから、それでいいと思いますよ」
「それでいい?」
「はい。桂さんの願いです。今からでも遅くはありません」
すみれは彼の腕にこつんと頭をくっつける。
「……そうですね」
純は微笑み、すみれを抱き寄せた。
「僕はあなたと出会えて、幸せです」
「私も……」
二人は微笑みあって、京の空を見上げる。
遠くで鳥がさえずり、柔らかい晩春の風が二人を包み込んだ。
幕末という短い動乱の時代。
たくさんの人が意志を残そうと駆けた時代。たくさんの犠牲の上で、日本は新しく開花した。これからは血飛沫が上がるようなことはない。
明治という時代は輝いているのだ。
了
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございます。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




