第三十六話 生きる
鳥羽伏見の開戦の一ヶ月ほど前に、純は新選組一番隊組長の沖田総司と出くわした。純は甲斐のお使いに。沖田は医者帰りだった。
二人はお互いに視線をかわして、どちらから言うわけでもなく、自然と近くの茶店に腰を下ろした。
二人は微妙な距離を取って、緋毛氈を敷いた縁台に座っている。出された茶に目もくれず、二人は通りを行き交う人々を眺めていた。
「調子はどうですか?」
純が口火を切った。沖田がチラッとこちらを一瞥し、また往来へ目を戻した。
「……」
答えてはくれないか。
純はふぅと息を吐いて、湯呑を手に取る。当然だが、茶は冷めていた。
「……良くはないよ」
しばらくして沖田が答えた。純は思わず振り返る。沖田もこちらに顔を向けていた。彼の体は以前よりも痩せており、肌は白かった。病気は悪化しているのだろう。
「結局、僕は戦えないよ」
沖田は吐き捨てる。
「やっぱり、君に斬ってほしかったな」
もう三年も前の話だ。沖田は懐かしむように目を細めた。
「今、僕は何のために生きてるんだろうって思うんだよね」
「……」
沖田の意志は新選組の剣になること。しかしそれはもう叶わない。病はそこまで沖田の体をむしばんでいるのだ。
「沖田さん」
純は意を決して、立ち上がった。沖田が侮蔑するように目を上げる。
「時間はありますか?」
純は彼の視線に負けまいと、返した。
* * *
「ここなら、誰にも見られませんね」
沖田は純の後をついて行き、辿り着いたのは京市街から離れた河川敷だった。冷たい川のせいで、気温がより一層、低くなる。
沖田は少し身を縮めた。
「何する気?」
そして純を睨んだ。すると彼は何を思ったのか、腰からすらりと刀を抜いた。沖田も驚くと同時に、自分も刀の鍔元に手を置いた。
「もう一度、やりましょう」
「は?」
「あのときの、続きです」
純は刀の切っ先を沖田の胸に向けた。
沖田は唇を噛み締めた。馬鹿にされているような気がしたのだ。沖田は鍔元に手を置いたまま、純の様子を窺った。
すると、純が笑った。
「僕に斬られるのが怖いですか?」
「なんだと?」
こんな軽い挑発に乗るほど、沖田は短気ではない。だが、彼に言われると無性に腹が立った。
「怖いわけないだろ。僕は君に勝ちたい!」
沖田は刀を抜き放った。地を蹴って、純に迫る。
久しぶりに剣を振るう。沖田はそれを楽しく思った。だが、昔のような強さはない。体も刀も重たく感じた。沖田は歯を食いしばった。
「ああぁぁ――!!」
気合の声と共に刀を振り下ろす。
その刃を純は易々とかわした。
「チッ!」
真横へ体を翻す彼を、沖田は目で追う。足元の砂利を踏みしめ、今度は刀を横に払った。しかし、これも受け止められる。
「くそ!」
沖田は歯噛みする。刀を捌き、沖田は次の行動に移る。純のすぐ横で刀を寝かせた。刺突の構えだ。沖田は刀を突き出した。
――僕はまだ戦える!
沖田の思いはまだ、燃え尽きはしていないのだ。
「っ!」
純はかろうじてこちらの刺突を避ける。しかし攻撃は終わらない。沖田の追撃に、純は凶刃を鍔元で受け止めた。
甲高い金属音が河原に響く。
沖田は息を上げながらも、純を睨みつけた。
「……楽しいなぁ」
沖田は笑った。
「……君に斬られるなら本望だよ」
「何を言ってるんですか、あなたは!」
純の怒鳴り声に沖田は驚いた。その隙をついて、純が刀を弾き飛ばす。
「あ……」
完全に態勢を崩した。
がら空きとなった沖田の胴体。そこに、純の閃く刀が吸い込まれるように薙ぎ払われる。
――あぁ、やっとだ。
沖田はほくそ笑んだ。
これでやっと剣客として終われる。この美しく、見事な太刀筋を受けて。
――死ねるんだ。
沖田は、目を閉じた。
しかし、刃は止まった。
沖田の刀は寂しい音を立てて、地面に落ちた。
「え……」
沖田は地面に膝をつき、茫然とした表情で純を見た。純は刀を下ろし、こちらを怒りに満ちた瞳で見つめていた。純の表情に沖田は気づかない。当然だ。
「なんで……」
沖田は純の脚にすがりついた。
「なんでだよ!」
「……」
純は答えない。
「また僕を馬鹿にするのかっ!」
「あなたを馬鹿にした覚えはこれまでもありません」
沖田は叫んだ。返ってくるのは純の穏やかな声だけだ。彼は静かに刀を鞘におさめた。
「だったら!」
沖田は純の両腕を強く掴んだ。純は痛みに顔をしかめる。沖田は顔を歪めて、純を見上げた。
「僕を剣客として死なせてくれよ……」
震えた声で懇願した。しかし純は淡白だった。
「できません」
「どうしてだよ!?」
「僕はもう人は斬れません」
「……」
「僕には大切な人ができましたから」
微笑む純。沖田は首を振った。
「そんなの理由になんない!」
「それでも!」
純が強く発言する。沖田は顔を上げた。
「斬れないし、沖田さんには生きてほしいんです」
「これからの人生なんてどうだっていい。僕にとっては今が大事なんだ!」
「だったらなおさらじゃないですか!」
純は怒鳴った。
「僕に斬られるのが本望なんですか? 違うでしょ? あなたは新選組のために剣を振るんでしょ?」
「……」
「あなたがここで斬られたら、あなたが守ってきた新選組は何なんですか?」
その言葉にハッとなった。
沖田は仲間のたくさんの死を見てきた。自分の手で仲間を斬ったことだってある。それは新選組結成以前の仲間をさえも……。
沖田さん、と優しく呼ばれる。純がすっと手を差し出した。
「これからも病に負けず、懸命に、新選組を守ってください」
「……」
彼の声は柔らかい。きっと忘れることは出来ないだろうその声は耳に刻まれる。
差し出された手を沖田は握り返した。自分より細い手をした彼だが、しっかりと剣術を、斬り合いをした掌だった。
純は満足するように頷き、甘い顔を綻ばした。
「一生懸命のあなたは、格好いいですよ?」
「なにそれ……」
沖田は呆れて笑う。
「今のは反則だ。僕、君を好きになっちゃいそう」
「……冗談はよしてください」
引きつった表情をする純。沖田は軽く笑い飛ばした。
「けっこう本気なんだけどな……」
「だから、やめてくださいって」
純が本気で引いている。それが面白くて、沖田は座ったまま笑った。
川のせせらぎが静かに耳をうつ。沖田はふと、川へ顔を向けた。
「病は気から。……今更だけどね」
沖田は呟いて、立ち上がった。そして純を眺める。
「とにかく、僕も生きてみるよ。どうなるかわからないけど」
「それがいいですよ」
純が頷くと、沖田は微笑んだ。
「また会えるかな?」
「はい。会えると信じます、僕は」
「それじゃあ約束しよっか?」
「はい、約束ですよ。沖田さん」
「うん、約束だ」
そう言って、沖田総司は笑顔で立ち去った。
しかし、沖田の願いは叶わなかった。病は悪化し、鳥羽伏見の戦いには参戦できず、慶応四年五月に息を引き取る。
享年二十六歳であった。
死ぬ間際、沖田は療養する民家の庭に、ふと目をやった。
毛並みの良い黒猫が庭を歩いている。大きな瞳がこちらを見据える。目を合わせるとすぐに逃げるだろうと思っていたら、その黒猫はじっとこちらを見つめていた。
「なんか……似てるな」
沖田はくすっと笑う。
黒猫だからそう思ったのか、彼もくせのない真っ直ぐな黒髪をしていた。しばらくすると、猫はひらりと竹垣を越えて行ってしまった。
「……約束破っちゃうな、これ」
こほっと咳を吐いて、沖田は天井を見つめた。
「近藤さんたちは元気かな?」
見つめていると眠気が襲ってきた。とてつもなく眠たい。瞼が落ちて来る。
「純くんも……新選組だったら、よかった……な」
そう呟くと沖田は完全に眠りに入った。
夢の中では、近藤と土方が刀を振り翳して戦っている。その隣には自分と、そして井ノ原純がいた。そんなことはあり得ないと思いながらも、沖田は笑って過ごしていた。
一八六八年八月に、元号は慶応から明治へ変わる。同時に将軍のお膝元、江戸は東京と名を変えた。
新しい時代がやって来る。
そして、井ノ原純は血の煙る戦場から別れを告げる。
2014年5月11日:誤字修正・加筆
2014年10月5日:誤字修正・加筆




