第三十二話 愛しています。
この日は朝から雨が降っていた。
純は店裏の軒下で屋根から落ちる雨を眺めていた。
「……」
ぼんやりとした様子でそれを見つめる。彼の瞳には何も映っていないようだった。
純の恰好はいつもの着物だが、腰には大小を差していた。
家の方を振り返る。
「……」
彼の瞳は揺らいでいた。何かを惜しむそうな視線だった。
しかしすぐに視線を振り切る。
雨が音を立てて降っている中を、純は足を踏み入れた。
一刻ほど経った。
雨は止んでいない。今日は一日中降っているだろう。
すみれの茶屋に甲斐はやって来た。
「お~い純、いるか~?」
彼はいつも通り裏から入り、顔を覗かせる。しかし純の姿は見えず、代わりにすみれを見つけた。
「あ、すみれちゃん」
「甲斐さん……」
声を掛けると、彼女は不安そうな顔つきをしていた。不思議に思った甲斐は訊ねる。
「どうしたんだ?」
「それが……起きたら純さんがいなくて……」
「えっ?」
目を瞬いた。
「甲斐さんは見かけていませんか?」
「ああ。だけど純だってどこか行くだろ?」
すみれはふるふる首を振る。
「いいえ。純さんは用がないときは家にいます。それに何も言わず出て行くなんてありません」
「確かにな……」
純は真面目だ。勝手に出て行くのはあり得ないだろう。
「それから、」
「な、なんだ?」
まだあるみたいで、すみれは少し顔をうつむかせて言った。
「純さんの刀がないんです」
「はぁっ?」
甲斐は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「いつもは、部屋に置いてあるのに……それがないんです……。もしかしたら、純さん……っ」
すみれは詰まりながらも言った。肩が震えていた。
「……」
甲斐は顔をしかめて、地面を見た。ぬかるんだ地面に草鞋の踏んだあとがあった。この雨の中、傘を差さずに出て行くことはない。だが、純なら……。
「すみれちゃん、純を探すぞ!」
がばっと彼女は顔を上げた。瞳は微かに潤んでいる。彼女の顔を見て、甲斐は眉根を寄せた。
「……見つけて、ぶん殴ってやる」
* * *
純は傘も差さずに、当てもなく京を歩く。
雨がだいぶ強くなってきたため、純は通りかかった神社の境内に避難した。
濡れ鼠状態の純はため息を吐く。賽銭箱を背に、すとんと腰を下ろす。
ついに、すみれの実家から出てきた。
この一年、純は平和な生活を送っていた。何の障りもない毎日だった。他愛のない話で笑ったり、泣いたり……。世間にとっては当たり前のような出来事だった。それは、今まで生きていた中で一番楽しく、幸せだった。
でもやはり、距離は遠い。
井ノ原純は、長州藩の維新志士だ。かたや、すみれはただの町人。その事実は変わらない。初めから共に居るのは不可能なのだ。
昨夜、それを思い返された。
血溜まりの中、沈む死体。それを斬ったのは自分だったかもしれない。
物事に永遠はない。
だから、後にした。
純は、自分にそう言い聞かせた。
刀の鐺を痛いほど足に押しつける。
そうでもしないと、来た道を戻ってしまいそうだった。
「……」
これからどこへ行こうか。
行く当てのない純は少し困った。京をうろうろしていれば、そのうち甲斐にでも会えるろうと思っていたが、そんな簡単には会えなかった。京は広いのだ。
絶え間なく雨は降り続ける。
純はそれを眺める。相変わらずの灰色の空にげんなりした。
上げた視線を地面に戻すとき、視界に見慣れた着物が映った。
驚いて、もう一度顔を上げた。
そこには。
「す、すみれさん……?」
「……やっと……やっと、見つけた……っ」
石段を上りきり、息も絶え絶えにそう呟く。
「……」
見間違うはずもない。純は彼女の姿に硬直した。
すみれは傘を放り、そのまま駆け出す。雨に濡れることなど気にせず、足をもつれさせてこちらへと手を伸ばした。
「純さんっ!」
すみれは純の胸に倒れるように飛び込んできた。びっくりして受け止められなかった純は押し倒される。反動で賽銭箱に頭をぶつけた。痛みを感じる余裕もない。今、胸の中にはすむれがいるのだから。
首に回されたすみれの手はぎゅっと締めつける。
純は驚きのままに、すみれを見つめていた。
「……どうして」
耳元で聞こえる彼女の声は震えている。
「どうして!」
すみれはばっと顔を上げて、こちらを見つめる。
「勝手に出て行くんですかっ!」
すみれの登場に純は何も言えない。あるいは、彼女の目に溢れる涙のせいかもしれない。
「どうしてですかっ! 答えてください!」
とん、と胸を叩く拳に力はなく、すみれは涙声で叫んだ。
純は目を逸らして答えた。
「……僕とあなたは違います。僕は人斬りで、あなたは普通の女性です。住む世界が違――」
「だから、何なんですか!」
すみれの怒鳴り声に純は口を閉じる。
「……夏に、鴨川で言ったこと覚えていますか?」
「……」
「私は、あなたがどんな人であろうと構いません。私の想いは変わらない……そう言いました。だから……あなたが頷いてくれたとき、すごく嬉しかった……」
止めどなく溢れる涙は、純の着物を濡らした。
「それとも……純さんは私のことが嫌いになったんですか?」
「な、何を……」
言い返そうとするが、すみれの声にかき消された。
「不安でした! 探しているときも、私は純さんに嫌われたって……。そう思ったら、不安でならなかったっ、怖かったんです……」
すみれは純の胸に顔を埋めた。小さな体が震えている。
「……」
――あなたがどんな人だって構わない。
それだけ、自分は想われている。
ずっと蓋をしていた感情が溢れ出す。去年の夏はなんてことなかった。恐らくそう思えなかったからだ。しかし、今は違う。この想いを止めることは、何人たりともできはしない。
「違いますよ」
純は微かに笑った。声にすみれが顔を上げる。彼女の表情はいつか見た。また、悲しませてしまったのか。純は不甲斐ない己を恨んだ。
「……あなたを嫌う理由などありません」
純はそっと背中に両手を回す。強く抱きしめると彼女の華奢な体は折れてしまいそうだった。
「僕もあなたを想っています。これ以上ないくらいに」
吐き出した想いは止まらない。
「僕が他人に接すると、その人の人生を狂わせてしまうのではないか。近づけば近づくほど、その人を不幸にするのではないか……そう考えると怖かった」
「……」
「だけど、今は違います」
純は拘束を少し解き、すみれを見つめる。純は真っ直ぐとその潤んだ漆黒の瞳を見つめ、そして告げた。
「すみれさん。僕はあなたのことを愛しています」
その言葉に彼女が息を飲むのがわかった。瞳が大きく見開く。彼女のどんな姿も愛おしく感じた。
「はい……」
すみれが涙の残滓に濡れた顔で笑った。
「私も、純さんが大好きです……!」
その答えはすごく嬉しかった。恐らく人生で一度しか体験できない気持ちだ。
純はそっとすみれの頬に手を添えた。
「僕は嘘吐きだ。あなたを悲しませたくないって言いながら……」
すみれの頬を撫でる。
「また泣かせてしまった」
「……そんなこと、どうだっていいです」
すみれも純の手に触れる。お互いの指がゆっくりと絡み合う。
「僕はこれからも嘘を吐くかもしれません」
「はい」
「僕は弱いですから。誰かの言葉に左右されます、きっと」
「そのときはまた私が支えます」
すみれが笑う。純も自然と笑顔となった。
「そうですね。すみれさんが居ます」
「はい」
「もうどこにも行きません。ぜったいに」
「はい」
「あなたと共に居ます」
「約束ですよ」
「はい、必ず……」
互いに見つめ合ったあと、二人はゆっくりと唇を重ねて――。
甘い口づけをかわした。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




