第二十九話 悲痛
元号が慶応と改元して、一ヶ月が経つ。
純は相変わらずの日々を過ごしていた。甲斐もたまに顔を出してくるが、他愛もない会話をするだけで終わる。未だに桂の情報はなかった。
そしてある日、ある男と再会した。
それは純が買い物に行く途中だった。道行く人の中から聞いたことのある声が耳に入ったのだった。
「あれ? 君は確か……」
振り返って後悔した。純は露骨に嫌な顔をした。
色白で端正な顔立ちの男だ。華奢な体躯をしているが、筋肉はしっかりとついてある。この男を、純は知っている。
「やっぱり君だ。……えーと、なんて呼べばいいのかな?」
男が寄って来た。細くしなやかな指先を顎に当てる。それだけの仕草で暫し見惚れてしまう色男だ。
「……お、沖田さん」
震えた声で言うと、沖田総司はにっこりと笑顔をみせた。
そのあとの、純の動きは速かった。素早く回れ右をして立ち去る。
「な、なんで逃げるのさ!」
背後で驚愕の声を上げる沖田。
逃げるのは当然だ。純は心の中で叫んだ。
彼、沖田総司は新選組の一番隊組長。幕府側の人間。長州の敵だ。
「待ってよ!」
すると、なんと沖田は追いかけきた。びっくりする純は一目散に逃げる。しかし沖田の足は意外と速かった。
「捕まえたっと」
「わっ!」
純はぽんと肩を叩かれた。振り返るとにこやかな笑顔がある。純の顔は真っ青だった。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
首を傾げて、沖田はそんなことを聞く。
「……」
びっくりして硬直する純は答えられない。今、新選組に捕まるわけにいかない。必死になって逃走計画を練っていると、沖田はくすくすと笑った。
「君って結構足遅い方?」
「は? あなたが速すぎるんじゃないんですか?」
「そっかなぁ」
子供のように笑う彼に一瞬見惚れてしまった。たぶん、女性なら一発で落ちる笑みだ。
「……」
純は開いた口が塞がらない。
沖田は一向に行動に移さない。純を、長州藩士を捕まえたのだ。屯所に連行しないのだろうか?
彼の行動が読めない純は思わず問いかけた。
「あなたは自分の立場をわかっているんですか?」
「ん?」
沖田は小首を傾げる。
「沖田さんって、一応役人ですよね?」
「一応ってのは余計だよ」
「だったら仕事してくださいよ」
どうして、敵対している人間にこんなことを言っているのか、純は不思議でならなかった。
すると、沖田はにんまりと笑った。
「残念ながら、今日は非番なんだ」
「え?」
ほら、と彼は両腕を広げた。
「隊服は着てないでしょ? 今日の僕は新選組の一番組隊長じゃないんだ。今の僕はただの沖田総司だよ」
沖田が片目を瞑って、微笑んでみせた。
「なるほど」
純は納得した。疑問は消化された。ならば、長居は無用。
「では。これで」
すぐさま背を向けた。しかしそうは問屋が卸さない。沖田が素早く純の前へ移動したのだ。
「だから、なんで逃げるの?」
それは本当にわからないといったふうだった。だが純はそれが頭にきた。なわなわと肩を震わせ、怒鳴った。
「当たり前でしょ! あなたはし――んっ!?」
叫んだ途端、沖田に口を覆われた。彼は口元に人差し指を立てた。
「しっ。大きい声でそういうこと言わないの。新選組はあまり評判良くないんだから」
「……」
びっくりして目を瞬く純に、沖田が柔らかい表情をして見つめてくる。
そのせいか、周囲からこんな声が聞こえた。
「男同士でなに見つめとんねん」
「まあ趣味は人それぞれやからな」
「男色……良いっ!」
蔑みや憐れみのような声が聞こえた。最後のは意味不明だった。
「なっ……!」
再び仰天する純は沖田の手を振り払う。口を乱暴に拭い、沖田を睨みつけた。しかし彼は肩をすくめるだけ。
「誤解されるのは嫌だな。僕はそんな気ないのに……」
それから、純を見て笑った。
「まあ、君とならいいかもね」
「冗談はやめてください……」
純はがっくりと肩を落とす。こちらとは正反対で沖田はからからと笑っていた。
「ねぇ、場所変えようよ」
沖田が提案した。純は眉をひそめる。
「どうしてですか? 僕に何か用でも?」
やはり捕まえるのだろうか。純はジト目で沖田を見つめた。
「ちょっとだけだよ。君と、話がしたいんだ」
甘い声でそんなことを言う。そういうことは女性に言えばいいものを。純は呆れながらも、歩き出した。
* * *
八坂神社の奥を少し入った竹林の中で、純と沖田は向かい合った。ここなら人目を気にしないで話をできるだろう。
「こんな殺風景なところより、美味しいお茶屋さん紹介するよ?」
「あなたは新選組で、僕は志士ですよ。知人に見られたら、あなたも困るでしょう?」
「あ、そうか。そうだよね」
ぽん、と手を打つ沖田に、ますます腹が立った。
「でも、」
まだ、沖田は口を閉じない。
「君のことは、誰にも言わないよ?」
「……」
にこやかな表情。敵の言葉を素直に信じられるほど、純は甘くない。
沖田の言葉を無視して、純は口を開いた。
「沖田さん、どうして僕に近づいたんですか?」
「理由はないよ。暇つぶしさ」
沖田は軽く笑い飛ばすが、純は訝しく彼を眺める。
「ほんとだって。君を捕まえるようなことは考えてないよ」
「でも、僕を新選組に伝えることはできますよね?」
「だから言わないって。そんなに僕のことが信じられないの? うわ~。泣いちゃうよ?」
追及すると、沖田はわざとらしく着物の袖で目を覆って見せた。純はますます顔をしかめる。そしてふと、思い出したことがあった。
不毛な取り調べをするよりもこちらのほうがいい。
そう思い、純は尋ねた。
「身体のほうは大丈夫ですか?」
「……」
沖田の表情が消えた。純は構わず続ける。
「池田屋のとき、あなたは重傷でした。出歩いて大丈夫なんですか?」
沖田は黙った。うつむいて地面を見つめている。やがてぼそりと口にした。
「……純くんは、あのとき平助を斬ったよね?」
「平助? あぁ、あの人ですか」
池田屋のとき、沖田ほどではないが腕の立つ侍を斬った。当然、純はその人の名前を知らない。しかし斬り伏せたことは覚えている。確か鉢金を割った記憶がある。
「あの人も致命傷だったはずです。……亡くなりましたか?」
胸の中が淀んだ。純は沖田から目を逸らして尋ねた。
沖田は唇を吊り上げて答えた。
「残念だけど生きてるよ。平助って体が丈夫なんだ。……僕と違って」
感情のない瞳をこちらへぶつける。純は一瞬硬直した。その隙に沖田がこちらへと肉薄する。目と鼻の先に沖田の綺麗な顔が現れた。
「うっ……!」
脇腹に刀の柄頭を押しつけられる。純は呻き、一歩後退する。だが竹が邪魔で出来なかった。
沖田は耳元でささやく。それは地の底から響くような低い声だった。
「ねぇ。どうして僕を斬らなかったの?」
純は脇腹の痛みに顔をしかめる。一応、護身用の懐刀は持っていた。しかし、この状況では抜けない。
「ねぇ、どうして?」
耳に落とされる声。純は声を振り絞って答えた。
「あなたには……生きてほしかったっ」
「は?」
沖田が目を丸くした。それが原因か腹の痛みが少し和らぐ。
純は早口で思いを打ち明けた。
「あなたの意志は、新選組の剣になることでしょ。だったら、生き抜いて新選組を守ってください」
沖田を真摯に見つめて訴えた。だが返ってくるのは嘲笑だった。
「……馬鹿言うなよ」
沖田は純を睨みつける。瞳が凶暴に輝いた。途端に柄頭が強く押し込まれる。純はくぐもった声で呻いた。
「覚悟はあった!」
沖田が叫ぶ。
「当たり前だろ! 剣を振り回しているのに、死ぬのが怖いなんて言う奴じゃないッ!」
「く……」
「僕はあのときが楽しかった!」
沖田は思いをすべてを吐き出す。彼の表情は哀しく歪んでいた。
「君と闘ってとても興奮した! すごく楽しかったんだ!」
「沖田、さん……」
「なのに!」
沖田はぐっと奥歯を噛み締めて、うなだれた。
「あぁっ!!」
絶叫し、拳を振り上げる。それは純の真横を過ぎ、背後の竹に当たった。竹はバキッと乾いた音を立てる。沖田はそのままずるずると力なく膝をついた。
「……沖田さん」
純は意気消沈する彼を見つめ、腰を下ろした。
「生きるのがそんなに辛いのですか?」
「……」
返事はなかった。沖田の横顔は苦痛に歪んでいる。そのとき、沖田は咳き込んだ。
「ごほっ! ごほ……っ!」
「沖田さん!」
純は驚き、沖田の背中をさする。沖田はそれを手で制し、懐から白い懐紙を取り出して口に当てた。
落ち着いたところで沖田は懐紙をくしゃくしゃに丸める。
「っ!」
そして純は見てしまった。赤く汚れていた懐紙を。
「……くそっ」
沖田は毒づく。彼はゆっくりと立ち上がり、青い顔で純を見つめる。
「純くん。僕はこんな身体だ。それでも、生きろと言うのか?」
責めるような視線に、純は何も答えることができなかった。
「……まあ、いいや」
沖田は鼻で笑い、着物を軽くはたいた。
「君のことは土方さんに報告しないよ、これは絶対だ。約束する。だけどね……」
沖田の表情は変わらなかった。
「――君のことは、嫌いだよ」
沖田はそう吐き捨てて、立ち去った。
取り残された純は、茫然として彼を見送った。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




