第二十六話 旅立ち
「純さん……」
すみれが頭上で純を呼ぶ。
不思議に思って目を上げると、彼女は顔を真っ赤にしてこちらを見つめている。
「どうしました?」
「その……、そろそろ、離して……ほしいです」
「え……。あっ! す、すすすっ、すみませんっ!!」
純は彼女の腰に当てた手を慌てて放し、その場から飛びのいた。
今思えば純はすみれを抱きしめていた。自分の行動が信じられない。なんとういう過ちだろうか。
「い、いえ……」
すみれ純から目を逸らし、乱れた着物の襟を直した。偶然にも、純の視線は彼女の襟元にゆき、うっすらと綺麗な鎖骨が見られた。
再び慌てて、純は目を離した。
「…………」
「…………」
人ふたりは座れる距離を置いて、純とすみれは沈黙した。
どんな言葉を掛けていいかわからず、純は空を見上げた。空は青色と赤色が入り混じったような複雑な色をしていた。それは今の純の心と似ていた。
ぼんやりとそんなことを考えていると、すみれが声を上げた。
「あ、あのっ!」
「は、はいっ!」
純はびっくりしてしまい大声で返してしまう。
「あ……、私……」
戸惑った色を示す、すみれの瞳に純の心は今にも壊れそうだ。さっきとは違う痛みが胸に走る。
顔を真っ赤にしたすみれは潤んだ瞳で純に告げた。
「わ、わたしっ、そろそろ帰らせていただきます!」
「えっ」
固まるこちらに構わず、すみれは逃げるようにして立ち去ってしまった。
「はぁ……」
追憶はそこで途切れる。
何度目かわからないため息を吐いて、純は未だに土手で座っていた。
空は完全な橙色に染まり、すみれが立ち去ってから時間が経っていることが理解できた。
「…………」
純は生気のない瞳で鴨川を見つめている。口は半開きでだらしなかった。
嫌な思いをさせてしまっただろうか?
すみれを抱きしめた。
その行為が正しかったのか。しかし、彼女の涙を見たらいてもたってもいられなかった。彼女を慰めたかっただけで、下心など皆無だ。……たぶん。
それに、彼女も拒絶しなかった。
「あーっ! 違う! 全部僕が悪いッ!」
絶叫し、刀の柄頭で額をごつごつ打ちつけた。
しかし後悔先に立たず。純はまた、ため息を吐いた。
「純!」
そのとき声を掛けられた。知っている声だが、今は誰とも会いたくない。この人には特に。
しかし、返事をしなくても声の主は隣に現れるのだ。
甲斐政義は、純を呆れた口調で見下ろした。
「顔くらいこっち向けろよ。おい、純」
「なんですか。甲斐さん……」
振り返る純は睨みを利かせた。
「なんだよ、の目。俺が何かしたか?」
「いいえ。別に」
「不機嫌だな、お前……」
ため息を吐く彼は純を見下ろしながら言った。
「悪いけど今は急いでるんだ。お前に話さないといけないことがある」
「……」
純はやっと甲斐の顔を見た。彼の表情は真剣味を帯びている。どうやら本当に用事があって探していたらしい。
純は重い腰を上げた。
「ここじゃあ話せませんね」
「ああ。少し歩こう」
甲斐はそう言って足を進めた。
四条通りの路地に入った甲斐は、人がいないか確認して口を開いた。
「純、驚かないで聞いてくれ」
彼の切羽詰まった声に純は眉をひそめる。
「何かあったんですか?」
「桂さんが失踪した」
「…………え?」
その言葉に茫然とする純に、甲斐はもう一度言った。
「桂さんがいなくなったんだよ」
「…………な、何を言ってるんですか?」
「禁門の変以降、誰も姿を見てない」
甲斐は淡々と事実だけを述べていく。
「京の長州藩士総出で探してるけど、一向に見つからない」
「そんな……」
純は絶望した。
桂小五郎は長州藩の大黒柱だ。長州藩が失墜する中、彼の手がなくて、どのように長州藩を立ち直せるのだ。
言葉を紡げない純に甲斐は続けた。
「俺は一度、萩に戻る。お前は京に残れ」
「えっ!」
またしても驚かされる。今日は驚いてばかりだ。
純はすかさず答える。
「僕も一緒に行きます!」
「駄目だ」
即答された。
「どうしてですか!」
甲斐は聞き分けのない子供を叱りつけるように、穏やかに言った。
「お前がいないと京の情報が途絶える。今、ここに居れるのは純だけだ。お前は幕府から、長州の中で一番顔が知られてない。京に潜伏するのはお前が適任だ」
「……」
確かに甲斐の言葉は筋が通っている。黙ってしまったこちらに、甲斐が申し訳なさそうに続ける。
「ごめんな。またお前を利用してるけど……」
「いえ、それは別に構わないです」
しかし純は煮え切らない。純だって一応、長州藩の人間だ。長州の一大事に自分はのんびりと待機していていいのだろうか。
そんな彼の気持ちを読み取ったのか、甲斐は笑った。
「すみれちゃんに言ったんだろ? 一緒に居るってよ」
「え?」
一瞬何を言われたのかわからなかったが、理解した。その瞬間、純は目を大きく見開いた。顔は火が出るくらい熱くなった。
「あっ、言っちゃダメだった?」
こちらの様子に甲斐もびっくりしたようで目を瞬く。
純はなわなわと肩を震わせた。
「……甲斐さん」
「あ、な、なんだ?」
彼のたじろぐ声が返ってくる。
「まさかとは思いますが……」
ぎろり、と冷や汗を掻く甲斐を睨みつける。彼は視線を逸らした。だが怖気づいたようで目を泳がせて、言い訳を言った。
「い、いや……聞いたっていうか聞こえたっていうか……見たっていうか見えたっというか……」
それを阻んで純は刀の鯉口を切った。
「なっ、なにしてんだ、純!?」
「いえ、なんだか刀を振りたくなって」
頬に火照りはおさまらないが、気にせずに純はニコリと笑った。それは凍えるような笑顔だった。
「お前、なに人斬りみたいなこと言ってんだよ……っ」
「僕は人斬りですよ」
「わ、わわわ、わかったから! お、落ち着けっ。悪かった、俺が悪いから!!」
土下座する勢いで謝る甲斐。純は重いため息を吐き、手を刀から離した。こちらの様子を見て、何を思ったのか甲斐が頬を緩ませた。
「何が可笑しいんですか」
冷めた視線を向けると、甲斐は言う。
「いや、純も変わったなって思ってよ」
「……?」
「この前さ、桂さんと話したんだ。純には自分の人生を歩んでほしい」
いつの間にそんなことを……。純は黙って甲斐の言葉に耳を傾けた。
「俺は、純が決めたことに文句は言わない。だから、お前も自分の決めたことには最後まで責任もって動けよ。な?」
決めたこと。それは時が許す限り、すみれの傍に居ることだ。今さら反故するつもりなどないが、長州の危機に揺らいでしまった。
純が顔をうつむかせると、甲斐は頭をぐわしっと掴んできた。
「わっ!?」
びっくりする純と目を合わせて甲斐はニッと笑った。
「それにな。男が、惚れた女の一人守れなくてどうすんだよ?」
「甲斐さん……」
彼はいつも純の先にいる。対等な立場であるが、甲斐の背中はきっと遠くにあるのだろう。なんだか、甲斐がとても大人に見えた。
「そんじゃあ俺は萩に戻る。純はここにいろ、わかったか?」
再度そう聞く彼に純は強く頷いた。
「はい!」
笑う甲斐はこちらから手を放して、考え込む。
「今夜中には京から出たいな……。早く支度しねーと」
「ちかさんに挨拶はしなくていいんですか?」
「え?」
純の質問に目を瞬く甲斐。
何かおかしいことでも聞いただろうか? 首を捻ると、甲斐が口を開く。
「そうだな。まあ、いいさ。また会えるしな」
疑いのない、会えると信じ切った声で言う甲斐。
「そうですか」
「そうだよ。これが今生の別れじゃないんだからな」
甲斐は笑う。
「落ち着いたらまた戻ってくる。それまで達者にな」
そう告げて、甲斐政義は長州へ帰郷した。
* * *
甲斐が長州へ向かってから四日が経った。
まだ暑さが残る京はからっとした晴天だったその日。
純は、祇園の方へ足を運んだ。
八坂神社から見て南にある小路に入る。その道を少し行くと、すみれの住まう茶屋があるのだ。
小さな店構えだが、それなりに繁盛はしているみたいだ。それはすみれのおかげだろうか。
「お邪魔します」
純は敷居を跨ぐ。しかし店へ入った途端に足は止まった。彼女の姿を見つけたからだ。
「ちかさん」
ちかもこちらに気づいたか、顔を上げる。その表情は驚いていた。そしてちかはどこか遠出をするのか、笠と杖を持って旅支度をしていた。
純とちかは黙ったまま、顔を見合わせた。
「いらっしゃいませ……あ、純さん」
やがて奥からすみれが顔を出す。しかし純の存在に気づき、すみれはついっと目を逸らした。理由は言ううまでもないが、少し傷つく。
純はすみれから目を離し、ちかの見やる。
「……ちかさん、どこかお出かけですか?」
純はなるべく明るい声で彼女に尋ねる。ちかは顔を背けたまま答えた。
「大坂に帰ろうって思って……」
「大坂ですか?」
首を傾げると、彼女は続けてくれた。
「祖父母が大坂で商いを営んでるんです。連絡が取れたんでそちらへ帰ろうと思います。いつまでもここでお世話になるのもなんですし……」
「……そうですか」
「はい」
答えるとちかは、すみれに向き直った。すみれの後ろには彼女の育ての親である、源造と初の姿もあった。
「お世話になりました」
ちかは三人に頭を下げた。
「ええんよ。災難やったな」
初は悲しそうに眉尻を下げる。源造も目を瞑り、深く頷いた。
「あたしたちも同じ立場やったかもしれへんしな」
初が続けると、ちかはうつむいたまま頷いた。
「ちか。またね」
すみれが声を掛ける。ちかははっとなって頭を上げた。そして儚げに笑った。
「うん、また」
「…………」
その表情は何を表しているのだろう。
純には悲しく映った。
ちかは今回、心に大きな傷を負った。楽しかった日常が壊れた気持ちは、純にも少しだけわかる。純もこの件でたくさんの悲しみを目にしたのだから。
だけど、そんな悲痛に満ちた表情で肯定されても、笑って送ることができない。
ちかはお辞儀をして、踵を返す。純の隣を素通りし、大坂へと旅立った。
「また会いましょうね」
その背中に純は呼びかけた。
ちかが振り返った。まさか純に、声を掛けられるとは思わなかったのだろうか。驚いた表情をしている。
純は気にしなかった。ちかは純にとっても大事な友達だ。だから伝えなくてはいかないのだ。
純は真っ直ぐとちかを見つめた。
「僕たちを許せとは言いません。それでも、必ず会いに行きます」
彼女は大きく目を見開く。
「これは贖罪ではないです。僕はちかさんの友人として、会いに行きます」
「私も! ぜったい行くよ」
すみれも純の隣に並び、声を大にして同調する。
純はせいいっぱいに笑った。
「もちろん。甲斐さんも一緒に」
彼の名前を出すと、ちかの瞳が揺れた。
「ほんま……」
ちかは震える唇で言葉を紡ぐ。
「ほんま、じぶんたちは……ええ人やなぁ」
ちかの頬に一筋の涙が流れた。
「ちかさん」
純はゆっくりと彼女に近づき、優しく頭を撫でた。ちかは驚くように顔を上げる。
「今度会うときは笑っていましょうね」
「……うん」
目尻を拭いながらちかは頷き、そして、笑った。今度は悲しみなど微塵もなかった。純は笑う。するとちかは耳元でささやいた。
「純さん」
「何ですか?」
「あのな。すみれ以外の女の子の髪、あんま撫でへんほうがええよ?」
「へっ?」
びっくりするこちらに、ちかはふふっと笑って口元に人差し指を当てる。
「すみれが怒るよ?」
「えっ!?」
狼狽える純を見て、ちかはくすくすと笑う。それからすみれに言った。
「すみれ」
「な、なに!?」
明らかに動揺した素振り。純は素知らぬ顔を貫いた。まあ耳元で囁いたちかも悪いのだが。
「純さんって浮気性やわ!」
「な、何を言ってるんですか!?」
「なんやと!? やっぱりすみれは渡さんわッ!」
それに噛みついたのは、ずっと傍観していた源造だった。純はますます狼狽える。
「ち、違います! 誤解です!」
隣ではちかが目に涙を浮かべて大笑いした。
「そんじゃあ、またねっ!」
「えっ! ちかさんこんなときに行っちゃうんですか!?」
「はいっ!」
ちかは輝くばかりの笑顔だった。
「ほんまありがとう! おおきに!」
ちかは大坂へ旅立った。
空は青く輝いていた。
2014年10月5日:誤字修正・加筆




