第二十三話 涙
京の町は燃え続けた。
通りは逃げまどう人々の悲鳴が聞こえ、荷車がガラガラと音を立てて走る。
「おい、どうなってんだよ!」
烏丸通りまで出たところで甲斐が叫んだ。まわりはすでに火の海だった。
「わかりません! ですが、とにかく安全な所に避難を」
人波に飲まれながらも、純は必死に声を上げる。すると、ふと目の端に映ったのは見知った人物だった。
「……ちかさん?」
彼女は茫然とした表情を浮かべ、地面に座っている。燃え盛る民家をただただ見上げていた。
「ちかさん!」
もう一度呼ぶが、こちらを振り返りもしない。そのとき、支えを燃やされ失った屋根瓦が大きな音を立てて、ちかに落ちてきた。
「危ないっ!」
純は地を蹴って、ちかを抱えて横に飛んだ。間一髪で彼女を助けることができた。
「ちかさん! 大丈夫ですかっ?」
耳元で呼んだ声にやっと顔を上げたちかは純を見て、彼の胸にすがりついた。
「……と、父さんと、母さんが……まだ、中に……!」
「えっ?」
純は燃える民家を見上げた。ここはちかの和菓子屋だったのだ。
ちかがぎゅっと純の着物の袖を握りしめた。
「お願い! 助けて! 助けてやッ!」
「ちかさん、もう……」
――無理です。と言う言葉を純は飲み込んだ。この火の中には入ることも出ることもできないだろう。
突然に家屋が崩れた。
「いやぁ――っ!!」
ちかは泣き叫んだ。
火に手を伸ばす彼女を純は必死に止めた。
「純、行くぞ」
甲斐がちかの腕を掴んで、背中におぶった。
「いやっ、離して! 父さんと母さんがっ……!」
純と甲斐は人波に流されながらも、必死に火の中を走り続ける。そのあいだ、ちかは声が嗄れるまで泣き続けた。
* * *
幸い、祇園のほうに火の被害はなかった。
祇園にある一軒の茶屋の前で彼女は、不安そうな表情をして京都市街を見つめていた。
「純さん」
すみれは彼の名を呼んだ。
一刻ほど前から京都市街は燃えていた。純の宿泊している料亭は七条通りにあったはず。
彼の安否が気になって仕方がない。
「純さん……」
――どうか、無事でいて……。
願うように胸の前で拳を握りしめた。
「――すみれさん!」
声に顔を上げる。聞こえた方向に目を向けた瞬間、目頭が熱くなった。
純が、息を切らしてこちらに駆け寄って来たのだ。
「純さん、ご無事だったんですね」
「はい、すみれさんも無事で何よりです」
純のいつもの笑顔を見て、ほっとした。すみれは目の端を手で拭った。そして、純の背後の甲斐へ向き直る。
「甲斐さんもご無事で……」
「おう」
彼もニッと笑って答えた。が、すぐ顔をしかめた。
「すみれちゃん、ちかちゃんを頼む」
「え」
甲斐の言葉を聞いて、彼の背中を見た。
「ち、ちか……?」
彼女は甲斐に背負われて、体を震わせていた。着物も土と煤で汚れていた。すみれはそれですべてを察した。ちかの和菓子屋も京の中心にあったことを。
「と、とにかく、中に入ってください」
すみれは慌てて三人を茶屋に入れた。
「俺たちは藩士と桂さんを捜さないと」
「わかってます」
甲斐はちかを椅子に座らせたあと言った。純も力強く頷いた。純の怒ったような声に、すみれが少し驚いていた。
目の端で、彼女の表情を受け止めて甲斐は続ける。
「桂さんは絶対に見つけ出す。そうじゃないと、長州も国も変わらねぇ」
「はい」
「すみれちゃん、迷惑かけて悪いな。料亭も焼けちまって、ここしか頼れる場所がなかったんだ」
甲斐はすみれに笑いかける。
「いえ、それはいいんです……」
彼女は腑に落ちない様子だった。当然だろう。突然やってきて、男二人が怖い顔をしているのだ。
「ともかく。ちかちゃんのこと、頼む」
「はい!」
元気のいい答えに、甲斐は笑った。そして甲斐は純を見やる。その視線に純は応えるように、すみれへ歩み寄った。
「すみれさん」
「なんでしょう?」
「わからないことだらけだと思いますが、これが終わったら、すべて話します」
「は、はい……」
すみれは少し首を傾げて頷いた。
純の言葉は正しい。今は悠長にいてもいられないからだ。
「行こう……」
「――純さん」
甲斐が促したとき、声が聞こえた。甲斐も純も思わず足を止めてしまった。
それは言ううまでもない、ちかの声だ。彼女は顔をうつむかせ、震えている。
「なんですか?」
震えた声で呟く。
「なんで……、なんで、こんなことしたん?」
ちかは赤く腫らした目で甲斐と純を見つめた。いや、睨むと言ったほうがいいか。純が目を逸らして答える。
「非難は受けます。僕たちにはまだやるべきことが、」
「人の命を奪うことでもっ!?」
ちかはまた涙を流した。
「戦争して、町に火つけて……そんなんがじぶんらのやりたいことなん!?」
「……」
「父さんと母さん返してやっ!」
大粒の涙を零しながら、彼女は叫んだ。涙を溜めた瞳が二人を捉えた。
「長州なんか、大っ嫌い……!」
「ち、ちかっ」
すみれが彼女の肩に手を添える。何も知らないすみれは困ったように視線をさまよわせるだけだった。
「…………」
甲斐と純は黙ってちかの言葉を聞いていた。
非難されることはわかっていた。だから言い訳などしない。ちかの言っていることが事実だ。二人がこの戦に参加していた、していないなど関係ない。ちかから見れば二人とも長州藩士なのだから。
――だが、これだけは言っておかなければならない。
甲斐はおもむろにちかに近づいた。
「なあ、ちかちゃん」
甲斐が口を開いた。彼はちかに静かに話す。
「別にそれでいいさ。長州も、俺のことだって嫌いでいい。だけど……」
ちかが甲斐を見上げる。甲斐は煤汚れた顔で笑う。
「純のことだけは、嫌いにならないでくれ」
その言葉にちかが目を瞬いた。
「な、なにを言ってるんですか、あなたはっ?」
純もいきなりのことに動揺し、声を上擦らせる。そんなことは気にせずに、甲斐が続ける。
「純は正式な藩士じゃないんだ。俺たちが勝手にやらせてるだけでさ。……俺は、純に友人が出来たって聞いたとき本当に嬉しかった。それも美人が二人だ」
甲斐がちかの前で膝をつく。二人の視線が重なる。
「だから、これからも純の友人でいてくれ」
甲斐は笑い、言った。
「長州が悪いのは百も承知だ。でも、俺たちも私的で動いてるわけじゃない。この国を良くしようと思ってるんだ。……毎回、空回りしてるけどな」
「……」
純は甲斐の横顔を見て思った。
――どうして笑えるのだろう?
彼だって悲しいはずだ。唯一無二の親友を今さっきに失ったばかりだ。大きな傷のはずなのに……。しかし彼は、人のために言葉を紡ぎ、一人の女の子のために笑っている。
甲斐がちかの頭に手を置いた。ちかの涙はいつの間にか止まっていた。
「理解しろ、なんて言わないさ。ただ、心に留めてほしい。それだけだ」
甲斐が立ち上がった。
「さっ、行くか」
少し伸びをすると彼は軽く手を上げて、すみれとちかに告げた。
「また後でな。二人とも」
先に外へ出て行った。
純は慌てて追いかけようしたとき、袖を掴まれた。
「……すみれさん」
掴んだ彼女は少しうつむきがちで眉尻を下げていた。
「終わったら帰ってきますよね?」
「当たり前です」
純はすみれに向き直る。ゆっくりと彼女の手に触れた。
「絶対に帰ってきます。そしてすべてお話します」
もうばれているかもしれないが、自分の口から伝えたい。
「約束ですよ」
すみれは安心したかのように微笑んだ。
「はい、約束です」
純も笑って返した。
――町はまだ燃えていた。
蛤御門から敗走した長州軍は、町に火をつけた。火は北風にあおられて、南へ拡大。北は一条通り、南は七条通りに至る、広い範囲の街区や社寺が焼失した。町に道に多くの被災者が焼き出された。
のちに、禁門の変と呼ばれるこの事件をきっかけに、長州藩は大きく傾いていく。
2014年9月30日:誤字修正・加筆




