第二十二話 友よ……
御所へ討ち入った長州兵は、蛤御門の前で敗走した。
これで戦いは終わるかと思いきや、そう簡単にはいかない。
御所の南。
堺町御門は今、戦場と化していた。
その中で、二人は向かい合う。
「浩幸、帰るぞ」
甲斐が唸るように声で言い、楠本を睨みつける。
「……」
それを無言で受け止める楠本の表情には、戸惑いが表れていた。彼のこんな表情を見たことがなかった。
沈黙は続く。
砂塵のおかげか、戦場が遠く感じた。
「浩幸くん、早く!」
沈黙を破り、現れたのは久坂玄瑞だった。顔は土埃に汚れ、楠本と同じような甲冑に陣羽織を着ていた。
「先生……」
楠本は振り返って、久坂の後を追おうとする。しかし甲斐が立ちふさがった。彼の表情は変わらない。
「行かせねぇって言ってんだろ」
「……政義」
再び睨み合う二人。
近くで銃声が聞こえた。
「ここにいては危ない! 早く御所へ参ります!」
久坂がまわりの音に負けずに叫ぶ。
甲斐が久坂に噛みついた。
「長州は負けた! 今さら何すんだよ!」
怒鳴り声に久坂は怯みもしない。彼は甲斐の目を真っ直ぐに見つめ、告げた。
「この挙兵は、藩主毛利敬親公の汚名の回復を願うためだ。たとえ、来島殿が討たれたとしても、まだ諦めてはいけない!」
彼は右手にある刀を力いっぱい握り締める。
「鷹司卿へ参内を申し上げる!」
「……」
純は彼の言葉に驚いた。それは甲斐も同じか、信じられないような目で久坂を見つめていた。
この前、甲斐は久坂をこう評していた。
生真面目で直情的だと。
――本当に真面目な男だ。
純は思った。
この戦は長州の負けが確定だ。それでもこの男は長州藩のために命を懸けることができるのだ。
「僕は、最後まで諦めはしない!」
久坂は気の強い瞳を甲斐にぶつけた。続いて、楠本も口を開く。
「政義」
その呼びかけに、甲斐は顔を上げる。楠本が少し笑う。しかし表情は真剣で、それでいて覚悟を決めたような表情だった。
「私が戻ることはありません。先生と共に行きます」
「……」
甲斐の口が動くがそれは声にならなかった。
「楠本さん」
純も彼の名を呼ぶだけで終わる。楠本が純に笑いかけてくれたそのとき、楠本の目が動いた。
「政義!!」
「えっ」
楠本が甲斐を横に突き飛ばした瞬間――
パァン――ッ!!
乾いた発砲音。
赤い液体が宙を舞う。
眼鏡が割れた。
楠本は地面に倒れた。
「浩幸!!」
「楠本さん!!」
楠本は撃たれた。
皆が駆け寄る中、甲斐が銃声の聞こえた方向を睨みつけた。そこには、地面に伏せた薩摩兵がいた。そいつは息も絶え絶えに、楠本を撃ったのだ。薩摩兵は渇いた笑みを浮かべた。
「てめぇ――ッ!」
鬼の形相で刀を抜き、甲斐は踊りかかる。兵を一刀のもとに斬り伏せた。
「浩幸くん!」
久坂が呼びかけるが返事はない。楠本は青い顔をして、辛そうに息をしていた。
純は彼の傷口を抑える。
「楠本さん、しっかり!」
しかいどくどくと血は溢れて止まらない。誰が見ても致命傷だった。
「止まって……!」
懇願するように純は叫ぶ。手は段々と真っ赤に染まっていく。手に伝わる体温が冷えてくる。
それを、楠本は制した。
「……井ノ原、君……」
「浩幸っ!」
甲斐が純の隣に戻ってきた。
「もう、いいです……」
荒い息でそう呟く。
「何を言ってるんですか!」
「……井ノ原君、政義のことを、頼みます……」
「そんなこと言わないでください!」
必死に叫ぶ純に、楠本は穏やかに笑った。
「あなたにはまだ、生きてもらわないと困ります!」
「いいんですよ……もう……」
「もう喋るなっ!」
純の手に甲斐も手を重ねた。
だが、楠本の苦しい表情は変わらない。軽く咳き込むと、口から血が溢れた。
「こんなところで死ぬのかよ……ふざけんな! 生きろ!!」
甲斐の声は涙に濡れている。しかし楠本は笑っていた。
「聞き分けがないのは昔からだな……まったく……」
彼は青い空を瞳に映し、そして。
「まあ、そこがお前の良い……ところ、だな……」
ゆっくりと、静かに目を伏せた。
「ああああぁぁ――――っ!!」
途端に甲斐は絶叫した。
悲痛の慟哭は青く高い空に響いた。
「……行こう」
それは久坂の声だ。彼は純と甲斐に目を向ける。
「君たちは御所の東側から逃げるんだ。そちらは兵が手薄だから。僕たちは鷹司邸へ向かう」
「本気で言ってんのか……?」
甲斐が震えた声で呟く。久坂は不敵に笑った。
「当然だ。私は長州の志士として、最後まで足掻いてみせるよ」
「……」
彼の決意は固い。
久坂は楠本の亡骸を肩で支えた。楠本の横顔を見つめながら、久坂は言う。
「浩幸くんのためにも僕は動かねばならない。君たちも浩幸くんのために生きてくれ」
「……はい」
純は頷いた。
「もし、僕が死んでしまったら」
久坂は微笑む。
「桂さんによろしく伝えてほしい。……あ、ついでに晋作にも言っといてくれ」
「はい。了解しました」
楠本を久坂たちに託し、別れた。
彼の背中は凛々しく、そして熱く燃えていた。
それが、久坂玄瑞を見た最後だった。
* * *
東側の門は本当に手薄だった。純と甲斐は身を低くしながら、敵兵に見つからないように御所を抜けた。
「……浩幸」
甲斐は御所を見つめて呟いた。目は赤く腫れている。
「……」
それに、純は何も答えることが出来ない。
楠本浩幸は甲斐政義にとって親友であり、よき好敵手であった。よくいがみ合ってはいたが、それは二人の日常みたいなものであり、ただの遊びみたいなものだ。
だが、その相手はもういないのだ。
「まだ殴ってもないのに……、ちくしょう……」
「……甲斐さん」
憔悴しきった甲斐を慰める言葉を持ち合わせず、純は黙って彼を見つめるのみだった。そのとき、純は顔を上げた。
「何か焦げ臭くないですか」
「は?」
顔をしかめながらも、甲斐は鼻を動かせた。
「……向こうからです」
「そうだな」
顔を見合わせて、二人はは走った。その方向は町の方角だ。なんだか胸騒ぎがした。
歩を進めると、だんだんと気温が上がっている気がした。
ぱちぱちと何かが爆ぜる音も聞こえてきた。
「おい、まさか……」
甲斐が焦るように呟く。
答えは、大通りにあった――。
「町が、燃えている……」




