第二十一話 元治元年七月十八日
「挙兵?」
純は聞き慣れない言葉に目を瞬く。恐らく今の時代、誰もが聞き慣れない言葉だ。幕府が開いて二百年。そんな物騒なことは一度もないだろう。
それを伝えた楠本が頷く。
「ええ。それを主導するのは家老の福原殿、来島殿、そして久坂先生です」
「久坂が?」
甲斐が声を上げた。楠本は頷く。
「はい」
その笑みが何を表しているのか悟った甲斐が大きく目を見開いた。
「おい、お前。まさか……」
「私も出向こうと思います」
言った途端、甲斐は楠本の胸倉を掴んだ。
「甲斐さん!」
慌てて止めに入る純だが、甲斐は楠本に怒鳴りつけた。
「勝ち目あると思ってんのか!?」
しかし楠本は冷ややかな笑みを浮かべるだけだ。
「勝ち負けの問題ではない。藩の存亡が懸っているのですよ」
「そんなのどうだっていいだろ!!」
その言葉に、楠本の表情から笑みが消えた。眼鏡の奥の、怜悧な瞳が輝く。
「……どうだってよくない」
唸るような声に甲斐も口を閉ざした。その隙に、楠本は胸倉を掴んでいた彼の腕を払う。純は口を挟まず、黙って楠本を見つめる。
楠本はくすりと笑った。
「私は元々桂さんの下で学んだわけではありませんから……。政義とは立場が違っただけです。では」
「楠本さん」
純の呼びかけに彼は答えず部屋を出て行く。彼の背中を見届け、純は甲斐を見つめた。
彼は、ぐっと唇を噛み締めていた。
それから楠本は料亭に現れなかった。
* * *
「あいつ、どこいった!?」
甲斐が叫ぶ。あたりは硝煙が立ち込め、すけた臭いが鼻についた。
場所は御所の前だ。
元治元年七月十八日。
長州藩は御所に討ち入った。
文久三年の政変から端を発し、そして池田屋の悲報が伝わって、長州藩は激発。約三千の兵を進撃させた。それを迎え撃つは、会津藩を中心とした幕府軍、およそ二万。戦う前から勝敗はすでに見えていた。
純と甲斐が御所に駆けつけたときには、戦いはすでに終わっていた。主戦場だった蛤御門の前には大勢の兵が折り重なり、呻き声も聞こえた。長州の旗印である一文字三ツ星が泥に汚れて折れていた。
「くそ……っ」
甲斐が周囲を見渡し、唇を噛み締めた。
「だから無謀だって言ったんだ……!」
二人がどうしてこんな場所にいるのか、理由は一つだ。
甲斐は純を見つめた。
「浩幸を探すぞ」
「……はい」
甲斐が言い出したのだった。彼は是が非でも楠本を連れて帰るつもりらしい。初めは純も危険だと反対した。だけど甲斐は頑なで、楠本を見つけてぶん殴る、と豪語したのだ。
純は甲斐が心配だった。
楠本を説得して無事に帰ってきてくれたらいい。だがこれは戦だ。たくさんの人死にが出る。そんなところへ甲斐を一人で行かせるわけにはいかない。甲斐も楠本も純の大切なな人なのだ。
「純、なにぼさっとしてんだよ!」
甲斐がこちらへ怒鳴る。
「見つかったか!!」
「いえ、見えません」
純は首を振った。倒れている人を一人一人見ていくわけにはいかない。純が見渡すあたりには、楠本らしい人物はいなかった。これはまだ楠本が生きているという証拠か、あるいは……。
不安が募った。
「純! 久坂がどこにいるかわかるか!?」
そんなのがわかったらとっくに見つかっているはずだ、と口から滑りそうになったが、純は記憶を辿った。
「確か、久坂さんは天王山に陣をはっていたはずです」
「ああそうだよ」
苛立つような声が返ってくる。今は気にしない。甲斐だって必死だ。
純は続けた。
「そこから最短距離で御所に討ち入るなら、堺町御門でしょうか。……なんの根拠もありませんが」
天王山の位置をはっきり知らない。恐らく京の南になるはずだ。
「それだっ!」
真っ先に甲斐が地を蹴った。純は慌てた。
「待ってください! 甲斐さん!」
堺町御門で戦闘は行われていなかった。ただ、丸に十文字の旗がはためいている。あれは薩摩藩のものだ。薩摩兵が堺町御門に陣を構えているのだ。
「くそ。固められている!」
漆喰塀の陰から甲斐が苛立った声を上げる。主戦場は蛤御門で、多分にこちらの兵は予備兵か。
「薩摩が会津の手助けかよ、世の中変わるものだな」
甲斐が皮肉げに笑う。純は尋ねた。
「どうしますか?」
「あ? そうだな……」
甲斐も思案顔のまま、薩摩兵を睨む。
「久坂さんたちがここに来る可能性は低いです。もしかしたら……」
もしかしたら、久坂の隊は戦闘をせず、引き上げたのか。それなら肩の荷が下ろせる。純は少し表情を緩ますと、甲斐が首を振った。
「いや、久坂はそんなヤツじゃない」
「甲斐さん……」
彼をそう評価する理由が純にはわからなかった。
純は戸惑って甲斐を見上げていると。
「おい、何か聞こえないか?」
「え?」
甲斐はゆっくりと腰の刀に手を伸ばした。純も耳を澄ませて、周囲を眺めた。
確かに何か聞こえる。それはこちらへと段々と近づいているようで……。
「突撃ーっ! かかれ――ッ!!」
地を揺るがすような怒号とともに、長州の旗が見えた。たくさんの人が門へと突貫してくる。
「どうなってんだよ! 長州は退いたんじゃないのか!?」
「くそっ。応戦しろッ!」
堺町御門は騒然とした。
薩摩兵は突然の強襲に隊列が崩れた。
鉄砲が火を噴き、剣戟音が響く。
「…………」
目の前で起こっている状況が、一瞬理解できなかった。
今頃になって、長州軍がやってきたのだ。
そしてその砂塵の向こうに、彼を見つめた。
「浩幸!」
甲斐が見つけたのだ。
楠本は甲冑姿だった。声に気づいた彼は汗と土に汚れた顔を拭い、眼鏡の奥の目を見開いた。
「政義! なぜここに……?」
立ち止まる楠本。その背後から敵兵が襲いかかった。それを目撃した純の体は動いていた。甲斐の脇をすり抜け、一気に楠本へと向かう。純の姿を見て、楠本はまたもや驚いていた。
純は刀を閃かせ、敵を斬り払った。
「井ノ原君まで……、これはどういうことですかっ!?」
楠本の声が背中に届く。純は振り返り、楠本の姿とそして、彼の背後に立つ、甲斐の姿を捉えた。
「政義……」
楠本が甲斐を振り返って、呆然と呟く。
甲斐は厳しい表情をして、告げた。
「これ以上は行かせねーぞ、浩幸」
砂埃が舞い上がる中、二人は対峙した。
2014年9月30日:誤字修正・加筆




