第十六話 池田屋
元治元年六月五日。
この日は祇園祭だ。京の町は年に一度の祭りに人々はざわめき、熱気が伝わってきた。
「今日は桂さんの護衛だったな」
「はい」
長州藩の隠れ蓑である料亭の二階。障子窓から甲斐が町を眺めながら純に言った。
「祭り、すみれちゃんと回れなくて残念だったな」
甲斐は手にした盃を揺らした。
「な、なに言ってるんですかっ」
狼狽える純を甲斐がニヤニヤ笑う。
純は、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
本音を言えば残念だ。すみれはちかとも一緒にまわるつもりだったらしく、こちらが詫びを入れると残念そうな顔をした。彼女の表情に胸が痛んだが、仕事だ。断るわけにはいかない。
「甲斐さんは行かないんですか?」
「堅苦しい場は嫌いなもんでね」
甲斐はあくび交じりにそう答える。純はふむ、と顎に手を当てる。
「たくさんの意見を聞けると思いますが?」
「桂さん以外の志士の言葉に耳を傾ける必要あるか?」
「確かにそうですね」
すんなりと純は頷いた。彼にとっても、会合などどうでもいいことだった。今回の任は、桂の護衛。別に他の志士の言葉を聞くわけもない。
「そろそろ、出かけます」
純は刀を腰に差して立ち上がった。
「もう? まだ夕方じゃねぇか。会合は日が落ちてからだろう?」
眠たそうな甲斐に純は顔を向けた。
「桂さんも忙しいでしょうから、迎えに参ります」
「あー、なるほど。ほんじゃ、桂さんによろしくっ」
甲斐は手をひらひら振る。それに純は肩をすくめた。
「……いってきます」
しかし、藩邸に寄ってみると桂はいなかった。
純は首を傾げる。
約束は長州藩藩邸から、会合の場である池田屋という旅籠屋での護衛である。
「ふむ……」
純は顎に手を当てて、考えた。
桂が約束を反故するわけがない。
もしかして入れ違いになってしまったのか。それとも、すでに池田屋のいらっしゃるのか。
ここからなら池田屋の方が近い。しかし、純は池田屋がどこにあるかよく知らない。三条小橋の近くがどうのこうのと甲斐に教えてもらったが、記憶が曖昧だ。
「よし」
とにかく、三条小橋とやらに向かおう。
純は足を進めた。
* * *
池田屋という旅籠に着いたのは、日が落ちた頃。
その前には数人の武士がいた。恐らく長州の人間だ。
その中の一人が純を見つけて、声を掛けてきた。
「やあ、君って噂の井ノ原純くん?」
「え、あ、はい」
戸惑いながら頷く純に、青年は屈託のない笑みをつくった。
「桂さんの護衛だね?」
「はい。桂さんはどちらに?」
純が聞くと、男は少し眉をひそめた。
「まだいらっしゃってないんだよ。もうすぐ会合は始まる時刻なのに……」
困った口調で青年はぼやく。
桂がいなければ、純のいる意味はない。もう一度藩邸に戻ろうかと思ったとき、旅籠屋からぬっと男が現れた。
「吉田殿。その者は」
野太い声で、険のある目つきを純に向ける。
「あっ。宮部先生」
吉田と呼ばれた青年は、頭を下げて純を紹介した。
「これは、長州の人斬りでございます」
「人斬りか……」
宮部と呼ばれた男はまじまじと純を見る。純は礼儀と思い、軽く会釈をした。
「お前、どうしてここに来た?」
「はい。桂先生の護衛でございます」
答えると、宮部はふんと鼻で笑った。
「桂殿はまだ来ていないな」
「そのようで」
純が答えると、宮部はニヤリと笑った。
「おい、お前」
「はい」
「私の護衛をしろ」
「えっ」
驚く純に、宮部は横柄な態度で、
「古高殿が捕まった今、幕府も警戒を厳にしている。護衛は必要だ。長州の人斬り、腕は立つのだろう?」
宮部は吉田を見た。吉田は純に耳打ちする。
「宮部先生は偉いお方だ。粗相ないようにね」
まだ承諾もしていないのだが、決まってしまったらしい。
「そろそろ始めるか。桂殿もそのうち参るだろう」
他の志士たちも頷いた。
かくして、会合は始まった。
会合は二階で行われた。
上座には宮部と呼ばれていた男が座り、志士たちは論議をかわしていた。
純は、部屋の隅でそれを聞いていた。
放火だ、暗殺だ、誘拐だ、と物騒なことを喧喧囂囂と話を繰り返す。
「はぁ……」
純はため息を吐いた。
宮部の言うとおりにおとなしく座っていたが、そろそろ面倒になった。
桂はまだ顔を見せない。無理やりつれて来られて、護衛をしているが、桂がいなくては意味がない。それに桂が心配だ。顔を見せないということは何かあったのか。
一度、旅館を出おうかと思い、部屋を見渡したところ、ふと一人の男の視線がいった。
「…………」
端正な顔立ち。切れ長の目。男の純から見ても、その男は二枚目に入るだろう。
しかし、恰好が奇妙だった。
襟足あたりでばっさりと切られた髪。着流しのみを着用し、脇差を差していない。大刀を肩で支えていた。そいつは、こちらの視線に気づき、ニッと白い歯を見せて笑った。
「……っ」
背筋に悪寒が走った。理由はわからない。あの男は、何か不気味だった。
純はすぐさま男から目を離し、傍にいる吉田に声を掛けた。
「少し厠に」
「うん。行っておいで」
吉田はにこやかに笑って了承した。純は彼に頭を下げて退席した。
もちろん厠など嘘だ。桂の居場所が気になるので一度藩邸に戻るのだ。
こっそりと中庭へ出た。月は雲に隠れている。これなら誰にも気づかれずに裏から出られる。
純が裏の木戸に手を掛けたとき。
ガタンッ――!!
表から大きな物音がした。ハッとなって振り返る純に、大きな声が届く。
「我ら、会津中将殿御預かり新選組! 詮議のため、宿内を改める!!」
――新選組!!
「刃向かう者は、斬れぇぇいっ!!」
池田屋は騒然とした。
2014年9月27日:誤字修正・加筆




