第十五話 友達
梅雨の中休みというべきか、今日は晴天だった。
四条通りを少し過ぎた角にある和菓子屋の娘、ちかは今日も元気よく店の手伝いをしていた。
店はいつも通りの風景で、何事もない。
「よし」
ちかは満足げに腰に手を当てた。
「……来月からお祭りやし、天気ええとええな~」
ぼんやりとそんなことを呟き、机を綺麗に掃除する。
机を雑巾で拭きながら思う。
――やっぱりお祭りは純さんとまわりたいなぁ~。
考えると思わずにやけてしまう。すると、常連のお客さんが言った。
「なんや嬉しそうやなぁ、ちかちゃん。恋人でもできたんか?」
「ち、ちゃいますよ~。恋人なんて……」
ちかは顔を朱に染めて否定した。表情は緩み切っているが。
「ほんまかいな」
「そうですよぅ~」
うんうん頷くちかの耳に美声が届いた。
「ごめんください」
とっさに振り返った。聞き間違えようがない声音。ちかの表情は明るさを増した。
玄関には同い年の少年。整った顔立ちで、くせのない髪を無造作に結っている。それだけなのに品があるように見えるのは、彼の物腰からだろうか。
「純さん……!」
思い人である井ノ原純は、いつものように微笑んでいた。
ちかは掃除そっちのけで、純に駆け寄った。
「ご無沙汰しています」
「はい! 今日はどうしたんですか?」
ちかは可愛らしく小首を傾げる。すると、目に入ったのは純の背後にいる男性だった。そして、その人はちかの知っている人だった。
「あれ、甲斐さん」
「昨日ぶりだな、ちかちゃん」
呼びかけると、甲斐政義は苦笑いを返した。そのとき、純が睨むような視線を甲斐に向ける。ため息交じりに純は呟いた。
「やはりお知り合いでしたか……」
「はい、知っています」
いつからか知らないが、甲斐はよく来店してくれる。いつも赤ら顔で酔っているみたいだ。
「そう言えば、昨日はかなり酔ってはっていました」
「……あー、あんまり覚えてないんだよな」
後頭部をぽりぽり掻く甲斐は、純の顔を伺っている様子。ちかは昨日の甲斐を思い出した。
「昨日は、他愛のないお話でしたけど……長州? とか言ってはりましたけど……」
「やはり、僕の聞き間違いではないですね」
「うっ」
答えると、純がますます表情を厳しくした。その隣で甲斐がごくりと喉を鳴らす。
ちかは不思議に思って首を捻り、ふと思った。
「あ、座ってください。立ち話もなんですし」
「申し訳ないんですが、ここで話すのは難しいです」
「え?」
やんわりと断る純に目を瞬く。甲斐がぼやいた。
「人が多いからさ……」
「……」
お客さんは、純と甲斐を含めて六人しかいないのだけど……。
「とにかく。来てください」
純の真剣な表情に、ちかは自然と頷いた。
町を出たちかは、純――甲斐も隣にいるのだが記憶から抹消されていた――に行き先も告げられることなく、連れられた。
「あの、どこ行きはりますん?」
ちかは純に尋ねる。声は上擦っていた。彼の結った黒髪が揺れ、肩越しに振り返る。
「あー、そうですね……」
どうやら考えていなかったらしく、思案顔になる。
ちかは少し不満だった。
すると、甲斐が助け舟を出した。
「俺が言うのもなんだが……歩きながらでいいだろ? 誰かに聞かれるかもしんねーからよ」
「……そうですね」
「歩き、ながら……?」
むむむ、と眉をひそめて首をもたげる。
そんなこちらに、純は微笑んだ。
「すみません。元凶は甲斐さんにあるんで」
「純、その黒い笑みはやめて」
甲斐が心底落ち込んだ様子で、肩を落とした。
それに意を介さず、純は口を開いた。
「昨夜。甲斐さんが言った長州という言葉は何かわかりますか?」
「……あ、西のお国でしたっけ?」
純の笑みに見惚れていたちかは、少し遅れて答えた。純は続けて質問をする。
「では、長州がどんなところか知ってますか?」
難しいことを純は訊く。はっきり言ってわからない。関西から出たことのないちかは、ますます首を傾げる。
「おい、女の子相手になんて質問してんだよ? わかるわけないだろ」
甲斐が純を叱咤した。純が少し怖気づき、ちかに謝罪した。ちかは手を振って、謝罪を返した。
「簡単に言えば……そうだな……国を変えることに一生懸命な藩ってとこかな」
甲斐は苦笑して、前を見つめる。
「はぁ……」
理解できないちかは曖昧な声を上げる。ふと思い出した。近頃の京は騒がしい。武士の人は多いし、水色の羽織を着た役人も顔を利かせている。
その中に、長州はあるのだろうか?
ちかは疑問に思った。
「今、京を騒がせている団体の一つってところですね」
こちらの質問に答えるように純が言った。その言い方に何か思うところがあるのか、甲斐は渋面をつくる。
「そうなんですかぁ」
ちかは相変わらず興味が無さそうに相槌を打つ。
純は横目でちかを見ながら、続けた。
「――本題はここからです」
声音が変わった気がした。いつもの柔らかく優しいものではない。氷のような冷ややかな声音だった。
ちかは少し表情を強張らせた。
純は真剣な表情をして、甲斐を見やる。甲斐は体が竦んだみたいで、ごくりと唾を飲み込んだ。確かに、純の綺麗な顔は人を引きつける力があるだろう。
「あー、ちかちゃん?」
「はい?」
どうでもいいことを考えていると、甲斐はしどろもどろに言った。
「その、驚かないで聞いてほしいんだけど……さ」
「なんですか?」
甲斐はきまりが悪そうに口籠るが、純の威圧的な視線に青い顔をする。そして、意を決したように、甲斐は見たことのない真面目な表情で、告げた。
「俺たちも長州の志士なんだ」
「…………え?」
ちかは目を丸くする。自然と足は止まり、前を行く純も振り返った。
甲斐が慌てふためいた。
「いやっ、だから昨日言ったことは……まぁ、覚えてねぇけど……。本当なんだよ」
それを伝えて、ちかにどうしろと言うのだろうか。不思議でならなかった。
「とにかく。あなたには、僕たちの素性を黙っていてほしいです」
純は眉をひそめたまま言う。
「なんでですか?」
聞き返すと、純は口を閉ざして目を逸らした。
三人の間に沈黙が訪れる。町の喧騒は遠く聞こえる。往来を行く人たちは、そんな彼らを訝しく見つめながら通り過ぎていった。
堪らず、ちかは声を上げた。
「じ、純さんも長州の方なんですか?」
「そうですよ」
純は視線を合わせてくれない。甲斐も申し訳なさそうに顔を背けたままだった。
長州藩のことを、ちかはまったくと言っていいほど理解していない。
御上の話などちかには遠すぎるのだ。
京で事件があったとしても、それはすぐに日常の記憶へと消される。
今、ちかは純を、遠い存在に感じた。
「先に帰ってるぜ」
甲斐が言った。純が頷くと、甲斐はこちらの肩にぽんと手を置いた。
「たとえ志士だとしても、純の友達でいてくれよ」
「甲斐さん……」
寂しそうに笑うと、甲斐は行ってしまった。
「…………」
「…………」
再び沈黙が流れる。
男女二人で往来に立ちすくんでいる姿は、周囲の人にどう見えているのだろうか。
「家まで送りますよ」
「いえそんな、結構です」
ちかは首を振るが、純は来た道に踵を返す。
「あ、」
ちかは純を止めることができず、彼の背中について行った。
「すみません」
「え?」
ふと純が呟く。
「こんなこと、あなたに話すべきではなかったんです。だけど……甲斐さんは僕の大事な人です。ちかさんが何かの拍子に言ってしまうことが怖かったんです」
「……」
「決して、あなたを疑ったつもりなどありませんが……すみません」
純は地面に目を落としながら、ぽつぽつと語った。
ちかはそっと隣に並び、口を挟んだ。
「……純さんみたいな若い人が刀を帯びてる理由がわかりました」
「軽蔑しますか?」
「まさかっ」
ちかは純の前へ回ってくるりと体を翻した。
「友達ですよ、ずっと」
甲斐に言われたて、そう答えたわけではない。純と出会えて楽しかったし、嬉しかった。これからも仲良くいたいのだ。こちらの笑顔に、純も微笑んでくれた。
そして、ちかは質問をぶつけた。
「ほんまに、すみれには言ってないんですか?」
「言ってませんよ」
「だったら……」
――あたしなんかより。そう続けようとして口を噤んだ。
「……言えないですよ」
純はふっと息を吐くように笑う。その笑顔はひどく悲しそうだった。
ずきん、と胸が痛んだ。できるだけ表情に出さないよう、必死に無表情を保った。
「彼女はただの女性です、あなただってそうだ」
冷めた瞳がちかを捉える。純は己の手を見つめる。
「僕の手は汚れている。普通ならこうして会ったり、話したり、ましてや、誰かと手を繋ぐことなんて許されない」
「……」
「だけど、彼女は……」
純は顔を上げて、ぼんやりと青い空を眺めた。清々しいくらい空は澄んでいた。
「…………」
ちかは唇を噛み締めて、耐えた。
――それだけ、すみれが大事なんやな……。
すとんと胸の中で何かが落ちた。
「あーあ……」
「ど、どうしたんですか」
いきなり声を上げるちかに、純が目を瞬く。
「なんでもないですっ」
ちかは純の顔を覗き込んだ。相変わらず、女顔負けの、綺麗な顔立ちをしている。いったいその甘い顔で、何人の女の子を泣かせてきたのだろうか。
考えると、ちかは笑いがこぼれた。
「僕、変な顔してます?」
それをなんと解釈したのか、怪訝そうな顔をして首を傾げる。ちかは彼の顔を覗き込んだまま、言った。
「すみれには内緒にしときます」
「え、ありがとうございます」
「いえいえ」
ちかはにんまり笑って前を向いた。
笑ってはいるが、ちかの目元にはきらりと光る涙があった。
「ちかさん?」
純の不思議そうな声が背後から聞こえる。ちかはせいいっぱい笑って、振り返った。
「送ってくれるんやろ? 送ってほしいなぁ」
「え、はい、当然です!」
純は小走りでこちらに駆けつけ、ちかの隣に並んだ。
純の横顔を、ちかは黙って見つめていた。
元治元年五月――
五月も今日で終わりだ。
空にはもくもくと大きな入道雲。
夏は始まっている。
2013年10月31日:誤字訂正
2014年9月27日:誤字修正・加筆




