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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第2部 第1章「新たなる旅立ち」

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庭での餅つき大会:コミュニティとの接続と感謝の共有

 陽介の43歳の誕生日が過ぎ、季節は本格的な冬へと移行し、年末の慌ただしさが街を包み始めた。

 しかし、佐藤家の庭には、都会の喧騒とは無縁の、穏やかな活気が満ちていた。


 この一年、庭は陽介にとっての避難所から、家族の創造の拠点へと進化し、さらに佐々木や高橋といった職場の同僚の価値観にまで影響を及ぼす、「小さなコミュニティの核」となりつつあった。


 陽介は、この変化への感謝を形にしたいと考えた。

 そして、高校受験を控える咲に、勉強の重圧から解放される、心からの休息を与えたいとも。


「みんな、今年の年末は、庭で餅つき大会をやらないか?」


 陽介の提案に、家族全員が即座に賛成した。


「餅つき! いいね! あのピザ窯で餅を焼いたら、いつもより美味しくなりそう」


 翔が目を輝かせた。ピザ窯の火の管理は、今や彼の専門分野だ。


「この一年、お世話になった皆さんを招待しましょう。それに、近所の皆さんにも。

 この庭が、みんなの温かい気持ちでできていることを、陽介さん、みんなに伝えるべきよ」


 陽介は、美和の提案に深く頷いた。この餅つき大会は、単なる季節のイベントではない。

 それは、陽介の「庭の哲学」の、社会的な実践であり、「開かれた空間」としての庭の定着を宣言する、象徴的な儀式になるだろう。


 そして、陽介は、二人の職場の人間を招待することを決めた。佐々木と、そして—何よりも大きな意味を持つ—高橋部長だ。


 高橋は、最近、佐々木との会話を経て、週末にジョギングの代わりにホームセンターへ立ち寄るようになった、価値観の変革の途上にいる。

 彼女にとって、職場の人間がプライベートな空間に踏み込むことは、これまでの「効率主義」の人生において、最も非効率で、最も境界線を越える行為となる。

 陽介は、高橋に丁寧に声をかけた。


「部長、もしよろしければ、年末、我が家で餅つきを。庭の活動を支えてくださったことへの、家族からの感謝です」


 高橋は、一瞬、返答に詰まった。

 陽介の顔を見た彼女は、いつもの業務報告とは違う、素直な、招きの熱を感じた。


「…餅つきか。私は、ここ数十年、餅などついたことはないが。…わかった。その、佐藤の庭というものに、少しばかり興味がある。都合がつけば、伺わせてもらう」


 高橋の返事は、彼女自身の強固な壁が、大きく崩れ始めたことを示していた。



---



 餅つき大会当日。冷たい、しかし澄み切った冬の空気の中、庭には活気に満ちていた。


 庭の片隅では、翔がピザ窯の火を巧みに操っている。

 彼は、自分で組み立てたツールボックスから道具を取り出し、煙突のドラフトを調整し、餅米を蒸すための大きなセイロを窯の上に設置した。

 炎の温度を「熱源の管理」という観点から計算し、正確にコントロールする翔の姿は、父の趣味を通じて、実用的な責任感を身につけた「管理者」そのものだった。


 テーブルの上では美和が、静かな創造性を発揮していた。

 彼女は、ヨモギを茹でてペーストにし、あんこや大根おろし、そして美和特製の「ハーブ餅」のための準備を進めている。

 ミントとレモンバームを練り込んだ餅は、清涼感があり、年末の重い食事の中で、特別な「余白の味」を提供する。


 美和の周りには、近所の奥様方が集まり、賑やかに笑い合っている。

 庭は、美和の温かいもてなしの創造性によって、すでにコミュニティの中心として機能し始めていた。


 咲は、美和が手編みしたクッションが置かれたベンチに座り、勉強道具を横に置きながら、カメラのファインダー越しにこの光景を捉えていた。

 受験のプレッシャーはまだある。

 しかし、ハーブの匂い、家族の賑わい、そしてピザ窯から立ち上る白い蒸気は、彼女の心を柔らかく解きほぐし、「集中空間」としてだけでなく、「心の栄養源」として機能していた。


 陽介は、そんな家族の姿を眺めながら、深い満足感を覚えていた。

 この庭は、もはや自分が手掛ける「作品」ではない。家族一人ひとりの創造性が、最も自然な形で発揮され、調和し合う「生きた生態系」なのだ。



---



 昼過ぎ、佐々木が、そして少し遅れて、高橋が、緊張した面持ちで庭に到着した。


 高橋は、さすがにスーツ姿ではなかったが、それでも普段着慣れないカジュアルなジャケットに、どこか硬さが残っていた。

 彼女は、庭全体を見渡し、ピザ窯、ハンモック、そして隅に立つヤマモミジの苗木を、まるで初めて見る異世界の光景のように、まじまじと見つめていた。


「いや、佐藤。改めて、これは、想像以上に、本格的だな」


 高橋の言葉には、驚きと、わずかな当惑が混ざっていた。

 彼女の知る陽介は、オフィスの中で数字を操る人間だったが、目の前の陽介は、エプロン姿で、屈強な臼を庭の真ん中に据え付ける、「原始的な労働者」の顔をしていた。


 陽介は微笑んだ。


「ありがとうございます、部長。さあ、せっかくですから、一緒に餅をつきませんか?

 これが、この庭の最大の喜びなんです」


 餅米が蒸し上がり、湯気が立つ臼の中に移された。

 陽介は、佐々木と高橋を誘った。


「さあ、部長、佐々木。三人でやりますか。『三人餅』です」


 高橋は、家族と近所の住民の視線を感じ、一瞬ためらった。

 しかし、佐々木が楽しそうに杵を手に取ったのを見て、意を決したようにジャケットを脱ぎ、陽介から杵を受け取った。


 最初の数回は、ぎこちなかった。

 高橋は、杵の重さに驚き、腰も入らず、餅を上手く叩けない。


「あっ、部長! そこじゃなくて、もっと強く!リズムです!」 


 佐々木が、敬語を忘れて、無邪気に高橋を指導する。


「う、うるさい佐々木! わかっている!」


 高橋は、怒鳴るような口調だったが、その声には、いつもの威圧感はなかった。むしろ、子供が不器用さを指摘された時の、悔しさが滲んでいた。

 陽介は、静かに言った。


「部長、力はいりません。杵を振り上げて、あとは重力に任せるんです。そして、佐々木とリズムを合わせる。

 効率を忘れて、ただ、この原始的な音を楽しむんです」


 陽介の言葉が、高橋の心の硬さを和らげた。高橋は、深く息を吸い、目の前の餅と、佐々木の動きだけに集中した。


「一、二、三…ハッ!」


 陽介の掛け声に合わせ、杵が臼に叩きつけられる。高橋の動きが、徐々に滑らかになり、佐々木との連携が生まれ始めた。


 餅が、粘り気を増し、白い光沢を帯びていく。その光沢は、二人の男たちと一人の女の顔に、反射して輝いた。


 高橋の額には、汗が滲み、普段の完璧な髪型は乱れていた。

 しかし、彼女の顔には、仕事のプレッシャーや、数字の呪縛から完全に解放された、無邪気な、純粋な笑顔がこぼれていた。

 その笑顔は、陽介が知る、どの高橋の表情よりも、人間的で、温かいものだった。



---



 陽介は、杵を置いた後、汗を拭う高橋に、美和のハーブティーを手渡した。


 高橋は、ハーブティーを一口飲み、庭の風景を改めて見つめた。

 そこには、先ほどまで彼女が仕事で対峙していた部下と、その家族が、笑い合っている光景がある。


「佐藤…。これは、すごいな。私は、本当に、長い間、無駄なものばかりを排除してきたようだ」


 高橋は、胸の内の感情を隠さず、陽介に打ち明けた。


「土に触れる、火を扱う、そして、こうして人と協力して、目の前で一つの食べ物を作り上げる。

 これは、我々がオフィスで得られる、どんな『達成感』よりも、深く、根源的な喜びだ」


 陽介は、高橋の言葉に、心の中で深く頷いた。

 この庭は、本当に「魔法のような空間」になった。それは、社会のルール、ヒエラルキー、効率性、といった全ての硬い境界線を、餅つきという、非効率で原始的な共同作業によって、完全に溶かし去ったのだ。


 高橋と佐々木は、オフィスでは「上司」と「部下」という厳格な関係だった。

 しかし、この庭では、彼らはただの「共同体の仲間」であり、餅を完成させるという、共通の目的を持つ「純粋な労働者」だった。


 陽介が提唱した「庭の哲学」—「人生は、寄り道(庭)があるからこそ豊かになる」—は、今、ここに集まった全ての人々の顔に、具現化されていた。


 彼は、自分の個人的な趣味が、会社の人間に、そして近所の人々というコミュニティに、これほどまでの安らぎと喜びを与えられたことに、深い感動と、誇りを感じた。


 この餅つき大会は、陽介にとって、「最高の戦略」の最大の社会的な実践だった。

 庭は、彼の家族の幸福を最大化するだけでなく、彼を取り巻く人間関係にも、持続可能で温かい「余白」をもたらしたのだ。



---



 餅つき大会は、陽介の予想を遙かに超える大成功を収めた。


 美和のハーブ餅は、特に近所の奥様方に大好評で、「こんなに清々しいお餅は初めて」と絶賛された。

 咲は、皆の笑顔をカメラに収め、そのファインダー越しに、庭が持つ「温かい力」を、改めて実感した。

 翔は、ピザ窯の火を管理し終えた後、自分のツールボックスを誇らしげに眺めながら、その静かな責任感を噛みしめていた。


 夕暮れ時、高橋は、陽介に深々と頭を下げて帰路についた。


「佐藤。今日は、本当にありがとう。…私の凝り固まった心が、少し、いや、かなり柔らかくなった気がする」


 高橋は、そう言い残し、背を向けて歩き始めた。

 彼女の背中は、以前のような硬い鎧をまとった「効率の鬼」のそれではなく、重荷を下ろした、一人の「人間」の背中になっていた。


 陽介は、庭の中心に戻り、空を見上げた。


 ピザ窯と餅つきの熱と煙が、冬の澄んだ空へと、真っ直ぐに昇っていく。

 その白い煙は、まるで、佐藤家の庭が、地域や職場との間にあった「境界線を溶かし、温もりと感謝を共有する、開かれた空間」として、完全に定着したことを、天に報告しているかのようだった。


 庭は、もう単なる「避難所」ではない。それは、家族の創造と安らぎの「拠点」であり、コミュニティの心と心を繋ぐ、「聖域」となっていた。


 陽介は、美和が淹れてくれた、最後のハーブティーを飲み干し、植えたばかりのヤマモミジに目をやった。

 その木は、この温かい団欒の全てを静かに見守り、佐藤家の歴史の次のページを刻む準備をしていた。


 彼の「庭の哲学」は、今、物理的な構造物と、精神的な資産、そして社会的な影響力という、三つの軸で、完全に完成したのだ。

 この強固な拠点ができたことで、陽介は、これから来る子供たちの巣立ちという、大きな「変化」を、静かに、そして確かな自信を持って、受け止めることができるだろうと感じていた。

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