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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、家族の記念樹を植える

 晩秋の週末。ピザ窯の火入れが終わり、家族全員が焼きたてのマルゲリータを囲んでいた。

 レンガの熱はまだ庭全体に優しく広がり、美和の手編みのクッションが敷かれたハンモックには、安らぎの空気が満ちている。


 陽介は、焼き上げた最後のピザ一切れを皿に取り分けながら、ゆっくりと口を開いた。


「みんな、ちょっといいか?」


 家族の視線が陽介に集まる。

 咲は、受験勉強の緊張を解き放ったばかりの、穏やかな顔つき。翔は、ピザ窯の火力をコントロールした達成感で満たされている。

 美和は、陽介の顔に浮かんだ、いつになく真剣な、しかし温かい表情を見つめていた。


「この庭が、俺たちの生活をどれだけ豊かにしてくれたか、この一年でみんな痛感したと思う。

 ピザ窯ができたこと、みんなでキャンプを成功させたこと…」


 陽介は言葉を選びながら続けた。


「これらの経験は、単なる思い出じゃなくて、俺たちの家族の『歴史』だ。

 だから、この歴史を、この庭に、形として刻んでおきたいんだ」


 彼は、ピザ窯の横の、まだ何も植えられていない、一角の土を指差した。


「この場所に、家族の『記念樹』を植えないか。

 この木が、これから先の佐藤家の成長を、四季を通じて見守ってくれる、そんなシンボルツリーを」


 翔がすぐに反応した。


「記念樹か! いいな。ロードバイクを整備する時、いつも目に入る場所に欲しい」


 咲は、そっとハンモックのクッションに寄りかかりながら言った。


「素敵だね。毎年、写真撮りたいな。私の受験が終わったら、その木の下でお祝いしよう」


 美和は、深く頷いた。彼女の目には、陽介が、かつての「効率の鬼」から、「家族の歴史を刻む者」へと、完全に変貌したことへの、深い喜びが浮かんでいた。


「賛成よ、陽介さん。庭は、私たち夫婦の静かな創造の場から、子供たちを含めた、家族全員の『レガシー』を築く場所になるべきだわ」

「レガシーか……」


 陽介は、美和の口から出たその言葉を反芻した。仕事の世界で追求してきた「レガシー(功績)」とは違う。これは、「時間と記憶を継承する、生命の遺産」だ。



---



 記念樹を植えることが決まると、佐藤家は珍しく、その木の選定に熱心な家族会議を開いた。


「背が高くなる木がいい。将来、僕らが帰ってきた時に、遠くからでも家だってわかるような」と翔。


「でも、お掃除が大変なのは嫌だわ。あと、できれば、咲の写真の被写体になるような、美しいシルエットの木がいい」と美和。


「私は、四季折々の変化がはっきりわかるものがいい。春には新しい命を感じて、秋には感動的な色を見せてくれるような」と咲。


 陽介は、家族それぞれの意見を、静かに聞き入れた。

 背の高さ、管理のしやすさ、美しさ、そして四季の変化。これらの条件を満たす木として、陽介が提案したのは「ヤマモミジ」だった。


「ヤマモミジなら、美和のハーブの緑とも調和する、繊細な葉を持っている。

 春には新しい芽吹きがあり、夏には涼しい木陰を作り、そして何より、秋の紅葉は、圧倒的な美しさだ」


 咲が、目を輝かせた。


「紅葉! 庭でピザ窯の熱を感じながら、紅葉を見上げるの、すごくロマンチックだね!」


 翔も納得した。


「なるほど。成長はそこそこ速いけど、手入れ次第で形を保てる。それに、日本の四季を一番感じられる木だ」


 陽介は、ヤマモミジの特性を調べているうちに、その木の持つ「時間」の哲学に深く共感した。


 モミジは、派手な花を咲かせるわけではない。

 しかし、その葉の一枚一枚が、日々の光と、季節の移ろいを静かに記録し、そして最後に、人生のクライマックスのように、鮮やかな赤やオレンジ色で、その記録を表現する。


 この木こそが、佐藤家の静かなる、しかし確かな成長を刻むのにふさわしい。


 ヤマモミジに決定し、翌週末、家族はホームセンターへ向かい、庭の大きさに合わせた、まだ背丈の低い、しかし力強い幹を持った苗木を選んだ。



---



 植樹当日。晴れ渡った青空の下、家族全員が庭に集まった。


 ピザ窯の横の、選ばれた場所に、陽介はスコップで深く、丁寧に穴を掘った。土は、これまでのDIYで何度も耕され、豊かで柔らかくなっていた。


「さあ、みんな、ヤマモミジをそっと穴に入れてくれ」


 翔と咲が、協力して苗木の根鉢を慎重に持ち上げ、穴の真ん中に設置する。


 根っこが、新しい大地に触れる瞬間。陽介は、まるで子供の誕生を見守るかのような、厳かで、そして感動的な気持ちになった。


「陽介さん、この子が、ここで育つのね」


 美和が呟いた。


「ああ。この木は、これから先の佐藤家の歴史を、俺たちの代わりに、ずっとここで見ていてくれる」


 陽介は、まず、穴の底に堆肥と栄養土を入れ、そして、根鉢の周りに、優しく土を戻し始めた。


 翔は、父の使っていたスコップを持ち、不器用ながらも、土を丁寧に運ぶ。

 彼は、この木の成長が、自分の未来の卒業や、独立の記念になることを、ぼんやりと感じていた。


 咲は、小さな手で、根元の土を優しく押し固める。彼女の心には、「この木の下で、合格発表の喜びを分かち合おう」という、強い願いが込められていた。

 この木の生命力が、彼女の受験への集中力を支えてくれると信じていた。


 陽介は、最後に水をたっぷり与え、家族全員で、木の根元に手を添えて、改めて固く土を押さえつけた。


 その瞬間、庭に、静かな、しかし確かな「レガシーの誕生」の空気が満ちた。



---



 植樹を終えた陽介は、ピザ窯のレンガと、新しいヤマモミジの苗木を、交互に見つめた。


 ピザ窯は、彼が「時間と労働力」を投じて、短期間で作り上げた「達成の証」だ。

 それは、彼の過去の努力と、家族との共同創造の記憶を刻んでいる。


 一方、ヤマモミジは、これから「未来の時間」をかけて、ゆっくりと成長し、家族の歴史を刻んでいく「生命の証」だ。


 陽介は、かつて、時間を「効率的に消費すべき資源」として支配しようとしていた。彼は、常に、どうすれば時間を短縮し、より多くの成果を得られるか、そればかりを考えていた。


 しかし、この庭で、彼は、「時間とは、支配するものではなく、共有し、委ねるもの」だと学んだ。


 ピザ窯の完成は、時間の成果だ。しかし、ヤマモミジの成長は、時間に委ねる行為そのものだ。


 彼は、この木を植えることで、自分のコントロールの外にある、偉大な自然の力と、未来の家族の幸せを、信頼し、託したのだ。


 「レガシー(遺産)」とは、会社に残す数字や、役職だけではない。それは、子供たちが巣立った後も、彼らの心に残り続ける、「家族の温かい記憶」と、「変化し続ける生命のシンボル」だ。


 陽介は、このヤマモミジが、咲や翔が大人になり、年に一度、家族を連れて帰ってきたときに、「お父さんが植えた木だ」と、愛情をもって見上げてくれることを願った。


 その時、この庭は、単なる趣味の場ではなく、「家族の原点」となるだろう。



---



 記念樹の植樹は、佐藤家の庭にとって、象徴的な出来事だった。


 この庭は、陽介がDIYした「人工の骨格」と、美和が育てたハーブや、植えられたヤマモミジという「自然の血肉」によって、真に完成された。

 それは、まるで、陽介の「効率の哲学」と、「余白の哲学」が、一つの空間で統合されたかのようだった。


 美和は、新しい木に、そっと水をやりながら、陽介に言った。


「陽介さん、この木、これから私たちが歳をとるのを見て、子供たちが大人になるのを見て、ずっとここに立っているのね。

 なんだか、この庭に、『永遠』という言葉が加わったみたい」

「永遠、か」


 陽介は、その言葉の重みに、静かに心を揺さぶられた。

 仕事の世界で「永遠」は、ありえない概念だった。市場は常に変動し、競争は絶え間なく続く。


 しかし、この庭では、時間という名の自然の力が、彼の作った構造物に寄り添い、共に生き、そして、家族の絆を、未来永劫、静かに結びつける「永遠のシンボル」を作り上げた。


 その日以来、ヤマモミジの苗木は、佐藤家にとって、庭の中心となった。


 家族は、その木を眺めるたびに、キャンプの楽しさ、ピザ窯の達成感、そして、互いに支え合ってきた日々の温もりを思い出す。


 庭は、もう単なる「空間」ではない。それは、佐藤家の過去と未来を繋ぐ、生きた「タイムカプセル」となったのだ。

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