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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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78/85

42歳、妻の手編みと庭の調和

 陽光が庭の奥まで差し込む、穏やかな土曜日。


 佐藤家の庭では、午後の微風に揺れるハンモックに、美和はそっと腰を下ろしていた。彼女の膝の上には、毛糸の玉と、編みかけのクッションが乗っている。


 美和は、以前から手芸やハーブ栽培といった「静的な創造」を好んでいた。

 陽介の創造が、レンガを積み、木材を叩くという「動的な創造」であったのに対し、美和の創造は、糸を紡ぎ、葉を育てるという「静的なリズム」に基づいていた。


 この日、美和が始めたのは、この庭で最も安らぎの象徴であるハンモックに、完璧に調和するクッションの制作だった。


 彼女は、毛糸の色を選ぶとき、リビングではなく、わざわざ庭に持ち出して決めた。

 選ばれたのは、深みのあるモスグリーン、焚き火台の周りのレンガの色に似たテラコッタレッド、そして木肌に近いアッシュブラウンの三色。


「庭の色を、そのまま」


 陽介は、色の選択を見たときにそう感じた。


 美和の創造性は、決して庭の支配者になろうとしない。

 彼女は、庭の持つ自然な色合いとテクスチャに、そっと寄り添い、それを増幅させることを選んだのだ。


 かぎ針を持つ美和の指の動きは、一定で、穏やかだった。

 カチ、カチ、と、編み目が次々と紡がれていく音は、庭の静けさの中で、一種の心地よいリズムを生み出していた。


 それは、陽介がレンガを積み上げる時の、計算された力の打音とは全く異なる、時間の流れを優しく包み込むような音だった。


 陽介は、美和の隣のデッキチェアに座り、庭を眺めていた。彼の目の前には、ピザ窯の逞しいレンガの塊。その視線のすぐ奥には、美和の手に編み進められる、柔らかく、温かい毛糸の塊。


 陽介は、自分と美和の創造性が、これほどまでに性質が異なりながら、一つの空間、一つの目標に向かって完璧に調和していることに、深く、深い満足感を覚えた。



---



 陽介の創造、すなわちDIYは、常に「変革」と「達成」を求めていた。


 彼の創造には、目標値があり、計測可能な進捗があり、そして最終的な「完成」という明確なゴールがあった。

 彼の心は、工具を握り、レンガに触れている間は、常に前へ前へと、物質的なアウトプットを目指して突き進む。


 それは、仕事の効率主義から解放された、新しい形の「動的な効率性」だった。


 対照的に、美和の創造、すなわち手編みやハーブの世話は、「持続」と「循環」を尊んでいた。


 編み物は、一日にどれだけ編んでも、明日になればまた続く。ハーブの生長は、彼女の望むスピードでは進まない。

 そこには、明確なゴールよりも、「過程のリズム」と「時間の受け入れ」が存在する。


 陽介がピザ窯という「骨格」を作った。それは、庭という空間の「構造的な創造」だ。

 美和が今、クッションやハーブの寄せ植えを通して行っているのは、その骨格に魂を吹き込み、温もりを与える「感情的な創造」だった。


 陽介は、美和の編み針の動きを見つめながら、その違いの美しさに感動した。


「美和。その編み目のリズム、すごいな。まるで時間の流れを編み込んでいるみたいだ」


 美和は、顔を上げずに、微笑んだ。


「そう? 編んでいると、何だか心が落ち着くの。糸が一本一本繋がって、布になっていく過程が、とても信頼できる」

「信頼できる、か」


 陽介が庭に持ち込んだ「動」の創造は、家族に「楽しさ」と「共有」を与えた。

 美和が持ち込んだ「静」の創造は、庭に「温もり」と「安らぎ」を与えた。


 二つの創造性が、庭というキャンバスの上で、互いの領域を侵さずに、完璧な「創造的な調和」を奏でていた。



---



 美和が編み上げたクッションは、最初の作品が完成に近づいていた。

 テラコッタレッドとモスグリーンが、規則正しい幾何学模様を描き、その手触りはふっくらと柔らかそうだ。


 美和は、それを手に取り、ハンモックの上にそっと置いた。

 その瞬間、庭の風景が、劇的に変わった。


 それまで、ハンモックは、陽介と子供たちが休息するための「道具」であり、ピザ窯は「設備」だった。すべての要素が、どこか「実用」や「非日常」の香りを残していた。


 しかし、美和の編んだクッションが置かれることで、ハンモックは、リビングのソファと同じ、「生活空間の一部」へと昇華された。


 クッションの柔らかい色合いとテクスチャが、冷たい金属のフックや、硬い木材の質感と対比し、庭全体に、深い「居心地の良さ」という名の空気を注入した。


 咲が、ハンモックに駆け寄ってきた。

 彼女は、クッションを抱きしめるようにハンモックに横たわり、顔を美和の編み物に埋めた。


「わあ、お母さん、すごい! あったかいし、何だか、庭の匂いがする」


「庭の匂い?」美和は不思議そうに尋ねた。


「うん。この緑の色が、この前の雨上がりのハーブの色みたいだし、レンガの赤が、夕焼けに照らされたピザ窯の色みたい。このクッション、庭のために生まれたって感じがする」


 咲の言葉は、美和の創造性の意図を、最も純粋な形で捉えていた。


 美和は、庭の色を毛糸に選び、その結果、彼女の創造物は、庭の空気と匂いまでも内包した、「庭の一部」となったのだ。


 陽介は、咲がクッションを抱きしめる姿を見て、心の奥底で確信した。

 庭は、もはや「趣味の空間」ではない。「家族の生活空間」であり、「創造と安らぎの拠点」である。


 美和のクッションは、その空間を完成させる、最後の「温もり」のピースだった。



---



 夜、陽介は、ダイニングテーブルで、家族それぞれの創造的なアウトプットを、頭の中で整理していた。


 誰もが、自分の最も得意とする分野で、庭という共有空間に貢献し、「家族の創造性のポートフォリオ」を形成している。


 陽介が、仕事で常に追求していた「チームの最適なリソース配置」が、この庭と家族という「プロジェクト」において、最も自然で、最も理想的な形で実現されていた。


 誰もが強制されることなく、自分の喜びと情熱に従って創造し、その結果が、家族全体の幸福を最大化している。


 陽介の心は、深い安堵感に満たされた。

 彼が以前、仕事のプレッシャーから逃れるために、焦燥感に駆られて始めたDIYは、いつの間にか、家族それぞれの「創造性の発露の場」となり、その力を増幅させる「触媒」となっていたのだ。



---



 数日後、陽介が仕事から帰宅すると、リビングの窓から、庭の椅子で美和が読書をしているのが見えた。


 彼女は、ハンモックに深く体を預け、背中には、彼女自身が編んだモスグリーンのクッションを当てている。


 美和の傍らには、咲が持ってきたのだろう、小さなガラスの花瓶に生けられた、庭のミントの枝が置かれていた。


 美和は、静かに本を読み、時折、編みかけの毛糸に目を落とし、また編み始める。その姿は、まるで、庭の穏やかな時間そのものが、形になったかのようだった。


 陽介は、コートを脱ぎ、静かに庭に出た。美和の横に椅子を置き、腰を下ろす。彼女は、笑顔で彼を迎えた。


「お帰りなさい、陽介さん。今日はいい日だったわね」

「ただいま。ああ、今日はちょっとタフだったけど、この庭に来たら、一瞬で力が抜けたよ」


 陽介は、美和のクッションに寄りかかり、大きく息を吸った。ハーブの新鮮な香りと、ウレタンフォームとは違う、毛糸の素朴で温かい匂いが、彼の疲れた神経を優しく撫でた。


「このクッション、本当にいいな。美和の、なんていうか……『静かなる優しさ』が、そのまま編み込まれているようだ」


 美和は、編み針を動かしながら、言った。


「陽介さんが、大きなレンガや木を相手に、力強いものを作ってくれたからこそ、私は、こんな小さな、柔らかいものを作る喜びを感じられるのよ。

 外からの風を防いでくれる、ピザ窯という名の『砦』があるからこそ、内側に、こんな柔らかなクッションを置くことができる」


 美和の言葉は、陽介の「動的な創造」と、彼女の「静的な創造」が、単なる並立ではなく、「相互依存の関係」にあることを示していた。


 陽介の力強い骨格が、美和の繊細な温もりを支え、美和の温もりが、陽介の骨格に「生きる意味」を与えている。


 陽介は、美和の手元に目をやった。彼女の指先から生まれる、一本の毛糸の連なり。


「美和。俺の創造は、常に結果を求めてしまうけど、美和の編み物は、ずっと『今』を生きているみたいだ。

 急がない。間違えない。ただ、穏やかなリズムで、時間を紡いでいく」


「だって、急いだら、編み目が乱れちゃうでしょう?」


 美和はそう言って、優しく笑った。彼女のその穏やかな笑みこそが、陽介が仕事の荒波の中で、最も求めていた「永遠の非効率」の光景だった。


 この日、陽介は、彼の庭のDIYが、単なる「避難所」や「趣味の場」という初期の目的を超え、「家族全員の創造性と安らぎが調和する、完璧な生活空間」として完成したことを確信した。


 ピザ窯は、火という「熱」と「非日常」を生み出す。

 ハンモックと美和のクッションは、「安らぎ」と「日常」の温もりを生み出す。


 陽介は、美和の創造のリズム、咲の読書の静けさ、物置で翔が工具を整備する微かな音。

 それらすべての要素が、一つの大きな「家族の交響曲」を奏でているのを感じた。


 この庭は、陽介が最も効率的に、最も無駄なく、そして最も深く、「家族の幸福を最大化する」という、人生の最大のプロジェクトを成功させた場所だった。


 そして、その成功の鍵は、彼の「動的な創造」だけでなく、美和の「静的な創造」がもたらした、「温もりの調和」にあったのだ。


 陽介は、夕暮れの庭の静けさの中で、美和の編んだクッションに深く寄りかかり、目を閉じた。


 彼の心は、これまでに感じたことのない、深く、確かな「居場所」の感覚に満たされていた。


 美和は、陽介の背中越しに、編み物を続けた。

 彼女の手元にある毛糸は、庭の色を写し取り、この空間に、永遠に続く「安らぎの連鎖」を編み込んでいる。


 彼女のクッションは、庭という物理的な空間を、佐藤家にとって欠かせない、温かく、生き生きとした「生活の聖域」へと進化させた、静かなる創造の結晶だった。

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