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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、仕事感の変化

 秋の深まりと共に、陽介の会社では、次期中期経営戦略の核となる、新しいビジネスモデルの企画が山場を迎えていた。

 陽介が担当するチームは、この企画の最終プレゼンを控えており、周囲の空気は張り詰めていた。


 以前の陽介であれば、この種の重大な局面では、心臓が常にざわつき、全身の神経が研ぎ澄まされ、オフィスに泊まり込み、カフェインで思考を無理やり駆動させていただろう。


 「効率」と「結果」という二つの巨像に押しつぶされそうになりながら、ただひたすらに前進することを強いられていた。


 しかし、今の陽介は違った。


 たしかにプレッシャーはあった。プレゼン資料の詰めが甘い箇所も残っている。

 だが、彼の心は、驚くほど静かで穏やかだった。デスクの上の資料の山を見ても、胃がキリキリと痛むことはない。


むしろ、その課題を、庭で新しいプロジェクトを始める時のように、冷静な好奇心を持って見つめることができた。


(最後のブレークスルーが足りない。この企画には、まだ「佐藤らしさ」が足りないな)


 彼は、企画の骨子自体は完璧であると自負していた。しかし、この骨子を血の通った、市場を動かす提案にするためには、何か「非効率」で「人間的」な、本質的な視点が必要だと感じていた。


 それは、データ分析やロジックの積み重ねだけでは生まれないものだ。


 残業を終え、夜九時に帰宅した陽介は、疲労の色を見せない美和の笑顔と、ハーブティーの香りに迎えられた。


 家庭の空気は、美和が庭ヨガを始めてからさらに穏やかになり、陽介の仕事のストレスを瞬時に洗い流してくれる強力な「バッファ空間」となっていた。



---



 その夜、陽介は夕食と家族との会話を終えた後、書斎ではなく、庭へと向かった。


 彼は、仕事の課題に直面したとき、「解決策は、最も非効率な場所にある」という、庭で培った独自の哲学に従った。


 以前なら、この一秒も惜しい時間に、焚き火台に火を入れるなど、時間の「無駄」だと切り捨てただろう。


 しかし、今はこの「無駄」な時間が、彼の生産性を爆発的に高めることを知っている。


 陽介は、慣れた手つきで焚き火台に薪を組み、ライターで火をつけた。

 パチパチという静かな音と共に、炎がゆっくりと燃え上がり、夜の冷たい空気と、庭の闇を照らし出す。


 炎の揺らめきは、見る者の心を無の状態へと誘う、最高の「瞑想のツール」だ。


 彼は、ビールを片手に、焚き火の前に座り込んだ。背後には、家族で作り上げたピザ窯のドームが、夜の静寂の中にどっしりと鎮座している。

 そのレンガの質感と、達成感が、陽介の心に深い安定をもたらす。


 陽介は、目を閉じて、焚き火の熱を顔に感じながら、思考を停止させた。


(何も考えない。ただ、火の音を聞く。ハーブの匂いを嗅ぐ)


 ローズマリーの、きりっとした、スパイシーな香りが、秋の夜風に乗って鼻腔をくすぐる。

 その清涼感が、脳の奥深くまで入り込み、張り詰めていた神経を緩めていく。


 彼が会社で感じていた、常に情報を処理し、決断を下さなければならないという「脳の過負荷状態」が、ゆっくりと解消されていくのを感じた。


 この数十分間の「非効率な休憩」は、彼の意識を、日中の「論理的・分析的」な左脳優位の状態から、「直感的・全体像把握」の右脳優位な状態へと、静かにスイッチさせた。



---



 炎を見つめ続けていると、陽介の意識は、自然と庭の構造へと向かっていった。


 彼は、ピザ窯のドーム型の設計を思い出した。あの窯が最も効率よく温度を保てるのは、熱気がドーム全体に「拡散」し、均一に循環するからだ。


 もし、窯の中に仕切りを作り、熱を「一点集中」させようとすれば、かえって熱効率は悪化するだろう。


 そして、ハーブ棚。ミントとローズマリーは、互いに異なる香りを放ちながら、この庭という限られた空間の中で「共生」し、それぞれが最高の豊作をもたらしている。


 彼らは、互いを邪魔し合うことなく、むしろ隣り合うことで、より強い生命力を発揮しているように見えた。


 その瞬間、陽介の脳内に、閃きが走った。それは、暗闇の中に一筋の光が差し込むような、鮮烈な感覚だった。


(そうだ。今の企画は、「一点集中」しすぎている!)


 陽介の企画は、市場の「効率」を追求し、一つのコア技術にすべてを賭けるという、極めてストイックなものだった。


 それは、かつて彼自身が信奉していた「最短距離で最大の結果を出す」という、過去の自分の仕事観をそのまま反映していた。


 しかし、庭が教えてくれたのは、真の強さとは、「余白」と「多様性」から生まれるということだ。


(ピザ窯のように、エネルギーを一点集中させるのではなく、あえて「拡散」させて、多方面からのシナジーを生む構造が必要だ。

 ハーブのように、「非効率」に見える要素を共存させることで、全体としての「豊かな循環」を生み出すべきだ)


 陽介は、すぐさま焚き火を立ち去り、書斎へ向かった。彼の頭の中には、新しい企画の全貌が、驚くほどクリアに描かれていた。


 彼は、夜を徹して、資料を修正した。しかし、以前のような疲労感はない。むしろ、湧き出る創造性を、ただ記録していくという、純粋な喜びに満たされていた。


 彼が提案したのは、「効率」を追求するコア技術に加え、あえて「手間」や「手触り感」といった「非効率なユーザー体験」を「余白」として盛り込むことで、顧客との情緒的な結びつきを強化するという、斬新な戦略だった。



---



 翌週。役員が揃うプレゼンテーションの場は、張り詰めた静寂に包まれていた。


 陽介は、壇上に立ち、新しい企画を話し始めた。

 彼の語り口は、以前のような、データを叩きつけるような厳しさではなく、落ち着いて、深い洞察に満ちたものだった。


 特に、彼が「非効率の余白戦略」について語った際、会場の雰囲気が変わった。


「私たちは、常に最短距離と最大効率を追求してきました。

 しかし、真のロイヤルティは、合理性だけでは生まれません。

 私たちは、あえて『手書きのメッセージ』や『時間をかけたパーソナライズ』といった、非効率に見える『余白』を顧客接点に設けます。この余白こそが、お客様の心に響く、温かい循環を生み出す、次の時代の『熱効率』です」


 彼の提案は、既存のビジネスロジックを根底から覆すものだったが、その背後にある深い人間理解と、揺るぎない自信が、役員たちの心を動かした。


 プレゼンは成功を収めた。陽介の企画は、その斬新さと本質的な価値を評価され、主要な次期戦略として採用が決定した。


 数日後、陽介は、高橋部長の部屋に呼び出された。

 高橋は、デスクに座ったまま、静かに陽介を見つめた。その表情は、以前のような威圧的なものではなく、深い思索を巡らせているように見えた。


「佐藤。今回の企画、見事だった」


 高橋の口調は、感情を抑えたものだったが、その言葉には、紛れもない称賛が込められていた。


「特に、『非効率の余白戦略』というコンセプト。あれは、我々の業界の常識を覆すものだ。だが、私はその本質を理解した」


 高橋は、椅子に深く腰掛け、陽介に続けた。


「正直に言おう。以前、私が君の趣味を『効率の悪い家族サービス』だと皮肉ったのは、私自身が『余白』という概念を恐れていたからだ。常に埋め尽くさなければ、競争に負けると思っていた」


 高橋は、そこで言葉を区切り、窓の外の青空を見つめた。


「だが、君がこの数ヶ月間、庭で積み上げてきた活動を見て、私は気づかされた。

 君は、家族との絆、地域の交流、そして自分自身の精神的な安定という、金銭に換えられない『資産』を築いていた。

 そして、その『資産』こそが、君の思考に深みと柔軟性を与え、今回の斬新なアイデアを生み出したのだ」


 高橋は、陽介に向き直り、静かに、しかし力強く言った。


「佐藤。君の生産性は、以前とは比べ物にならない。

 君の週末の活動は、単なる趣味ではない。それは、君の仕事においても『最高の戦略』だったのだな。効率は、余白から生まれる。…この真理を、私は君から学んだよ」


 初めて、自身の「余白の哲学」が、かつて自分を縛り付けていた権威によって、ビジネスの最も重要な側面で承認された。陽介の心に、深い感動と、確信が広がった。


「ありがとうございます、高橋部長」


 陽介は、謙虚に、しかし清々しい笑顔で答えた。彼の胸の奥には、高橋への感謝と共に、この庭がもたらしてくれた、人生の根幹に対する絶対的な信頼が宿っていた。


 彼は、もはや、会社で評価されることや、昇進することだけを生き甲斐にする、孤独なサラリーマンではなかった。


 陽介は、庭活動を通じて、人生における本当の「効率」とは、いかに「非効率」な時間や、「余白」を大切にするかによって決まるという、独自の哲学を確立した。


 彼は、仕事の価値も、家庭の価値も、そして自分自身の人生の価値も、本質的な側面から見出す力を手に入れたのだ。


 高橋のオフィスを出た陽介は、まっすぐに空を見上げた。高く澄み渡った秋の空は、彼の心と同じように、どこまでも深く、穏やかだった。


(俺の庭は、俺の人生のすべてを変えた)


 彼の心は、仕事と家庭、そして自己実現という、かつては対立していた要素が、すべて一つの大きな円となって、美しい循環を生み出しているという深い充足感に満たされていた。


 庭は、彼を再び「効率」の檻に入れることなく、仕事と家庭、両方の世界で、真に本質的な価値を見出す「新しい自分」へと進化させてくれたのだった。

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