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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、妻の「庭ヨガ」

 秋の気配が深まり、陽介の庭活動は、その熱を失うことなく、家族の生活に深く根付いていた。


 ピザ窯が完成し、ハーブは近隣に分け与えられ、長男・翔は進路の迷いから脱し、新たな情熱を見つけていた。家族の誰もが、この庭の「余白」から、それぞれの「生きる力」を汲み上げているように見えた。


 陽介は、週末の夜、焚き火を囲みながら美和に向かって、満足げに言った。


「美和。最近、俺だけじゃなくて、翔も咲も、すごく穏やかになったと思わないか? この庭のおかげで、みんなストレスをうまく発散できているようだ」


 美和は微笑みながら頷き、淹れたてのハーブティーを陽介に差し出した。


「そうね。陽介さんが楽しそうなのが、一番大きな変化よ。以前は、週末になると『仕事の疲れが取れない』ってため息ばかりだったのに」


 美和は、夫と子供たちの変化を心から喜んでいた。


 家庭内の雰囲気は、以前の、どこかピリピリとした緊張感から解放され、穏やかで満たされたものに変わっていた。


 しかし、美和の心の奥底には、気づかないふりをしていた小さな「ひずみ」が蓄積していた。


 陽介は、会社での「効率」と「重圧」から解放され、週末は庭に逃避することで自己を回復できた。

 翔と咲も、学校や受験のストレスを、自転車やアート、そしてこの庭という共有空間で解消している。


 では、美和自身はどうだろうか?


 彼女は、家庭という組織において、最も「非効率」で「目に見えない手間」を担う存在だった。


 陽介が庭に没頭できるのも、翔が受験に集中できるのも、すべて美和が日々の生活の「効率」を保ち、潤滑油として機能しているからだ。


 食事の準備、洗濯、掃除、子供たちのスケジュールの管理、パートの仕事、そして何より、家族一人一人の心のケア。


 彼女の時間は、常に誰かのために消費され、彼女自身の「余白」は、後回しにされてきた。


 美和は、最近、朝起きると、背中と肩のあたりが鉛のように重いことに気づいていた。深い呼吸をしようとしても、肺の奥まで空気が入らない。


 それは、陽介がかつて会社で抱えていた、「常に効率的でなければならない」というプレッシャーと、形は違えど、本質的には同じ種類の重圧だった。


(みんなが元気になって、喜んでいる。私は、それでいい。私は、この家族の『土台』なのだから)


 そう自分に言い聞かせても、夜中にふと目が覚めたとき、理由のない不安と疲労感が、美和の心を静かに蝕んでいるのを感じた。



---



 ある火曜日の早朝。美和は、陽介が目覚める前の、朝の薄闇の中で目を覚ました。


 時計を見ると、まだ四時半を回ったばかりだ。

 二度寝を試みたが、頭の中をぐるぐると巡る「今日の献立」「咲の習い事の送迎」「パートのシフト調整」といった雑念が、眠りを妨げた。


 彼女は静かにベッドから抜け出した。リビングも、冷蔵庫も、彼女にとっては「仕事場」であり、「効率」を求められる場所だ。逃げ場がない。


 ふと、視線が庭に向けられた。


 窓ガラス越しに見る庭は、月明かりと、陽介が取り付けた小さなソーラーランタンの微かな光を浴びて、神聖な静寂に包まれていた。まるで、この世の喧騒から切り離された、別の次元の空間のように見えた。


 美和は、無性に、あの場所に行きたくなった。


(そうだ、ヨガをしよう)


 数年前、美和はストレス解消にと、通信販売でヨガのDVDとマットを買ったことがあった。結局、三日坊主で終わってしまったが、マットはクローゼットの奥に仕舞ってあるはずだ。


 美和は、ヨガマットを手に、そっと裏口から庭に出た。


 朝の庭は、予想以上に冷たく、そして清涼だった。周囲はまだ完全に夜の暗さを残しているが、東の空がごく微かに白み始めている。


 露を吸った芝生は、マットの下から冷気を伝え、彼女の足裏を刺激する。

 顔を上げると、陽介が大切に手入れしているハーブ棚から、レモンバームとローズマリーの清涼な香気が立ち昇り、冷たい空気に溶け込んでいた。


 それは、都会の排気ガスや、生活臭とは無縁の、純粋な生命の匂いだった。


 美和は、庭の中心、ピザ窯の横の芝生の上にマットを敷いた。そして、あぐらをかいて座り、目を閉じた。


 静寂の中で、美和はゆっくりと呼吸を整え始めた。


 腹式呼吸。


 鼻から吸い込み、お腹を膨らませ、口から長く吐き出す。


 最初は、吸い込める空気が浅い。胸の奥に、何か硬い塊があるかのように、呼吸が止まる。


 それは、彼女がどれだけ無意識に緊張を強いられていたかの証拠だった。


 しかし、何回か繰り返すうちに、冷たい朝の空気が、肺の奥、そして体の隅々まで染み渡るのを感じ始めた。


 美和の周りには、家の中の「効率」を求める声も、子供たちの「あれがしたい、これが欲しい」という要望もない。


 あるのは、自分自身の呼吸の音と、鳥たちのさえずりだけだ。


 美和は、ヨガの基本的なポーズを取り始めた。


 まず、両腕を大きく広げ、空に向かって伸ばす。


 そして、太陽礼拝のポーズへと入る。ダウンドッグで全身を伸ばすと、背中から腰にかけて、長年溜め込んでいたような鈍い痛みが走った。


 この痛みこそが、彼女が家庭という「戦場」で、誰にも気づかれずに抱え続けてきた緊張の物理的な具現化だった。


「ああ、こんなに体が硬くなっていたなんて……」


 美和は、その痛みを逃げずに受け入れた。痛みが発するメッセージに、耳を澄ませた。


 戦士のポーズで、力強く大地を踏みしめるとき、美和は、自分がこの家族の「土台」として、いかに力を込めて踏ん張ってきたかを実感した。


 その強靭さがあるからこそ、陽介は安心して庭に没頭でき、子供たちは自由に夢を追えたのだ。


 そして、そのポーズを解き、体を前屈させるとき、美和は、すべてを大地に委ねるように、力を抜いた。


 彼女の聴覚は、この庭の「静寂の音」を捉えた。


 遠くで、朝刊を配るバイクの音が、静かな空間の境界線を示している。

 

 しかし、その音は、美和の聖域までは届かない。庭のハーブの葉を揺らす、そよ風の音。芝生の中に隠れた小さな虫が動く、微かな音。


 この空間は、美和にとって最高の「マインドフルネス空間」となった。


 五感が研ぎ澄まされ、過去の悩みも、未来の不安も、すべてが薄いベールのように剥がれ落ちていく。


 残るのは、「今、ここで呼吸をしている自分」という、最もシンプルで確かな存在感だけだ。



---



 美和は、深いストレッチの中で、ふと、陽介の心情を理解した。

 陽介は、会社での「効率」と「結果」に追われ、精神的に疲弊しきっていた。


 彼が庭でレンガを積み、土を耕し、焚き火をすることで求めたのは、まさにこの「無心」の時間だったのだ。


 美和もまた、主婦という役割の中で、「効率的な家事」「完璧な育児」「円滑な人間関係」という、目に見えない「役割」に縛られ、自己を見失っていた。


(私は、誰かの妻でも、母でも、パートの店員でもない、私自身に戻る時間が欲しかったんだ)


 この庭は、陽介が「サラリーマン」という鎧を脱ぎ捨てる場所だったように、美和にとっては「妻・母」という役割の重荷を一時的に下ろす場所だった。


 ヨガの終盤、美和は最も重要なポーズ、シャヴァーサナに入った。芝生の上に仰向けになり、全身の力を抜き、目を閉じる。


 体の重みが、すべて地面に吸い込まれていくのを感じた。


 朝露に濡れた芝生の湿気、土の冷たさ、ハーブの匂い、遠くで鳴く鳥の声。


 すべてが、美和の存在を肯定し、包み込んでいる。


 五分間のシャヴァーサナは、美和の人生で最も濃密で、そして静かな時間だった。 


 心臓の鼓動が、静かに、しかし力強く響く。


 全身の細胞が、まるで乾いたスポンジのように、庭の清涼なエネルギーを吸い込んでいるようだった。


 ゆっくりと目を開けると、庭の風景は、先ほどとは違って見えた。


 夜明けの光が、ハーブの葉一枚一枚に命を与え、きらきらと輝いている。ピザ窯のレンガは、太陽の光を待つ静かな熱量を秘めている。


 美和は、自分が「自己への回帰」を果たしたことを確信した。体と心は、深く安定し、頭の中の雑念は消え去っていた。



---



 美和がヨガマットを片付けている頃、陽介は、アラームが鳴る前に目を覚ました。寝室の窓から差し込む朝の光が、庭を照らしている。


 陽介は、キッチンでコーヒーを淹れながら、何気なく庭に目をやった。そこで彼は、清々しい笑顔でヨガマットを丸めている美和の姿を目撃した。


 彼女の顔は、驚くほど穏やかだった。

 それは、家事に追われ、子供たちに声を荒らげる前の、緊張感のない、本来の美和の笑顔だった。

 その姿は、まるで庭のハーブの一部になったかのように、自然で、美しかった。


 陽介は、その光景をしばらく、静かに見つめた。そして、一つの重要な事実に気づいた。


(俺は、自分のストレス発散のために、この庭を作った。そして、家族を笑顔にするためだと思って、ピザ窯を作り、焚き火をした)


 しかし、陽介は、美和の抱えていた無意識の重圧に、全く気づいていなかった。

 彼が「趣味」という名の逃避行で自己を回復している間、美和は、家という「効率」の最前線で、静かに消耗していたのだ。


 美和の庭ヨガの姿を見て、陽介は、自分が庭で得た哲学が、いかに普遍的で、家族全員に必要なものかを理解した。


「庭は、家族全員の『余白』を創出している」


 それは、陽介にとっての「無心」の時間であり、翔にとっての「情熱」を確認する場所であり、咲にとっての「創造性」の源泉であり、そして美和にとっては、「自己」に戻り、精神的な安定を取り戻すための「錨」だった。


 美和は、ヨガマットを抱え、裏口からキッチンに入ってきた。彼女の体からは、冷たい朝の空気と、ハーブの清涼な香りが漂っている。


「おはよう、陽介さん。ごめんなさい、先にコーヒー淹れちゃったわね」


 美和の笑顔は、深く、そして澄んでいた。その穏やかなオーラは、家中の空気を優しく包み込む。


 陽介は、美和の額に軽くキスをし、感謝の気持ちを込めて言った。


「おはよう、美和。君の笑顔が、この家の一番の『効率』だよ」


 それは、以前の陽介なら言えなかった言葉だった。美和は、一瞬きょとんとした顔をした後、くすりと笑った。


「まったく、何を言っているの」


 しかし、美和は、陽介の言葉の奥に込められた、深い愛と理解を感じ取っていた。


 美和の心の安定は、すぐに家庭全体に伝播した。家族全体が、より穏やかで、より優しく、よりバランスの取れた雰囲気へと変わっていくのを、陽介は確信した。


 庭は、佐藤家を内側から支える、強靭な精神的な柱となっていたのだった。

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