42歳、息子と進路を語る
夏休みが終わり、九月の空は高く澄み渡っていたが、翔の心の中は、分厚い霧に覆われていた。
大学受験が現実に迫り、彼の周囲の空気は一変していた。高校二年生という年代では、学校でも塾でも、教師や友人たちの口からは「進路」「効率」「将来性」という、重苦しい単語ばかりが飛び交う。
翔が目指すのは、地域の名門大学。
それは、父・陽介や母・美和が望む、最も「効率的」で「安全な道」だった。
良い大学に進み、良い会社に就職する。それは、都会で生きる大人たちが敷いた、揺るぎないレールのように感じられた。
しかし、翔の魂の最も深い場所には、そのレールを飛び越えたいという、熱い衝動が渦巻いていた。
ロードバイクと共に駆け抜ける、プロのロードレーサーになるという、彼の揺るがない夢だ。
彼は、自分の部屋の隅に立てかけてある、艶やかに磨き上げられたロードバイクを見つめた。カーボンフレームは月明かりを反射し、まるで生き物のように見える。
(プロのロードレーサー……。その夢は、今の受験勉強の「効率」という土俵で考えると、あまりにも「非現実的」で「非効率的」だ)
名門大学に入れば、安定した未来の切符が手に入る。
夢を追えば、得られる保証は何もない。
この二つの選択肢が、夜毎、翔の心を激しく揺さぶった。彼は、まるで一本のワイヤーの上を歩いているようで、どちらに傾いても、底知れない不安の闇に落ちてしまいそうだった。
勉強机に向かい、数学の問題集を開く。問題の数字は、彼の心の混乱をそのまま映し出しているかのように、意味を持たない記号の羅列に見えた。
「将来、本当に自分がしたいことは何なんだろう?」
「この勉強は、俺の夢とは何の関係があるんだろう?」
漠然とした不安が、鉛のように腹の底に沈み込み、彼を苛んだ。翔は、受験勉強の「効率」と、夢を追う「非効率」の板挟みになり、身動きが取れないでいた。
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その夜、翔は自室で勉強に集中できず、衝動的に階下へと降りた。
リビングには美和と咲の姿はなく、静寂に包まれていた。彼は、無性に火の温もりに触れたくなった。
庭に出ると、冷たい秋の夜風が、夏の熱気を洗い流した後だった。空には、無数の星が瞬いている。
いまや、家族のレガシーたるピザ窯は、昼間の熱を蓄え、黒いドームが月光を浴びて静かに鎮座していた。その横に、父・陽介が、焚き火台を準備している姿があった。
「ああ、翔か。どうした。勉強はもう終わりか?」
陽介は、翔に気づくと、優しい、しかし深い光をたたえた目で問いかけた。その声は、会社での陽介の、鋭敏で緊張感のある声とは全く異なっていた。
それは、庭という「余白の空間」で見せる、哲学者の声だった。
「いや、あんまり集中できなくて……。父さんこそ、まだ何か作業してたの?」
「ああ。少し肌寒くなってきたからな。火を見て、考えを整理したくて」
陽介は、焚き火台に細く割った薪をくべ、丁寧に火をつけ始めた。
やがて、小さな炎が立ち上がり、パチパチという静かな音と共に、甘い木の薫香が夜空に立ち昇っていく。
二人は、完成したピザ窯の横に並んで座り、揺らめく炎を見つめた。炎の熱が、冷たい夜風の中で、顔の皮膚を優しく温める。
そのコントラストが、翔の心を覆っていた氷を、少しずつ溶かしていくようだった。
しばらくの沈黙の後、翔は意を決して、重い口を開いた。
「父さん……。俺、今、すごく迷ってるんだ」
「進路のことか?」
陽介は、炎から視線を逸らさずに問い返した。
「うん。受験、大事なのはわかってる。良い大学に入って、ちゃんと将来の基盤を作るべきだって。でも……」
翔は、言葉を選びながら、吐き出すように続けた。
「でも、俺にとって、ロードレースを続けること、プロを目指すことが、何よりも大事なんだ。勉強は『効率』かもしれないけど、夢は、誰から見ても『非効率』で、リスキーだ。
この二つが、全然結びつかなくて。何を優先すべきなのか、わからなくなった」
翔の告白を聞いた陽介は、大きく頷いた。
彼は、今、炎の中で燃え尽きようとしている薪を一本、静かに焚き火台に足した。炎は、一瞬、勢いを増し、影を大きく揺らした。
「翔。お前の言いたいことはよくわかる。俺も長い間、会社で『効率』という怪物に人生を支配されてきたからな」
陽介は、静かに語り始めた。彼の声は、炎のパチパチという音に混ざり合い、静寂の夜に響き渡る。
「だがな、翔。考えてみろ。仕事も、夢も、結局は自分の人生を前に進めるための『道具』に過ぎないんだ」
陽介は、視線を焚き火台から、背後に堂々とそびえるピザ窯へと移した。
「このピザ窯を見てみろ。これは、家族みんなを笑顔にするための道具だ。
レンガの積み方も、熱効率も、すべてピザという最高の『結果』を得るために、効率的に考えた。
だが、俺が本当にこの窯作りで得たものは、ピザという『結果』だけじゃない」
彼は、窯のレンガを指で軽く叩いた。
「俺が本当に得たのは、レンガを一つ一つ丁寧に積み、モルタルを練り、水平器の気泡が中心に来るように無心で集中する、その『過程』で感じた情熱と喜びだ。そして、その情熱を、家族や高橋さんに共有できたことだ」
陽介は、再び翔に向き直った。その目は、夜の炎の光を映し、力強く輝いていた。
「お前は、ロードレーサーという『非効率的』な夢を追いかけることが、将来の『効率的』な仕事の邪魔になると思っているんだろう? だが、それは違う」
「大事なのは、その道具が何であるか、どれだけ効率的であるか、ではない。大事なのは、その道具を『丁寧に手入れする情熱』を持ち続けられるかどうかだ」
陽介は、言葉を続けた。
その言葉は、翔の心の奥底に眠っていた真実を、優しく掘り起こすようだった。
「お前を見ていて、俺はいつも感心していることがある。お前がロードバイクを磨く時の姿だ」
翔は、自分の部屋にあるロードバイクを思い出した。
彼は、レースの後や、雨に濡れた後、何時間もかけてその愛機を磨く。チェーンの油汚れを徹底的に落とし、フレームの微細な傷を見つけ、コンポーネントの一つ一つに異常がないか確認する。
その作業は、誰から頼まれたわけでもなく、誰にも見られず、ただただ彼の「愛」と「こだわり」だけで成り立っている。
「あの時のお前は、完全に『フロー状態』にある。
数学の問題を解く時とは比べ物にならないほど、集中し、時間を忘れ、その道具と一体になっている。
お前は、効率なんて全く考えていない。ただ、自分の『好き』という情熱に突き動かされているだけだ」
陽介は、静かに結論づけた。
「翔。その、ロードバイクのメンテナンスに見られる『好きなことへの異常なまでのこだわりと情熱』こそが、お前の最大の武器だ。
それは、どんな効率的な仕事を選んだとしても、必ず必要になる、人生の『芯』だ」
「効率だけを追い求めると、道具はすぐに摩耗する。だが、情熱とこだわりを持って道具を手入れすれば、その道具は長く、深く、お前の人生を支え続けてくれる」
翔は、父の言葉に、全身の血が熱くなるのを感じた。
(俺は、夢を追う情熱が、安定した未来を築く邪魔になると考えていた。でも、父さんは、その情熱こそが、未来を築くための『エンジン』だと言ってくれている)
彼は、自分の自転車のチェーン一本にかける、あの徹底した集中力と愛情が、単なる趣味の範疇を超え、人生を生き抜く上での最も価値のある資質であると、初めて明確に理解した。
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夜空を見上げる翔の目に、迷いの霧は晴れ、星の光がまっすぐに届いた。
「受験勉強も、ロードレースも、どちらもお前の人生の『道具』だ。
お前がどちらの道具を選ぶにせよ、その道具を粗末に扱わず、情熱を持って手入れし続けられるのなら、お前は必ず、充実した人生を送れる」
陽介は、最後に、火の光が反射するハーブ棚の方を指差した。
「この庭もそうだ。誰から見ても、ただの雑草だと思われていたハーブが、今、ご近所さんを笑顔にし、俺たちに感謝を運んできてくれる。
それは、俺たちが効率を無視して、愛情を込めて手入れし続けたからだ」
「お前が自転車やこの庭で得た『好きなことへのこだわり』を、そして、その道具に向き合う『情熱』を、信じろ。
それが、お前の進むべき方向を定める、最高の羅針盤だ」
陽介の言葉は、まるで熱い炉で叩き上げられた鋼のように、力強く、そして静かに、翔の心を射抜いた。
受験のプレッシャーや、世間の「効率」という価値観に押し潰されそうになっていた翔の心は、解放され、深い安堵に包まれた。
彼は、非現実的な夢と、現実的な進路のどちらかを捨てる必要はないのだと悟った。
大切なのは、どちらの道を選んでも、「情熱を持って、徹底的に向き合う」という、自分のコアな資質を失わないことだ。
「……ありがとう、父さん」
翔は、立ち上がり、焚き火のそばで深く頭を下げた。彼の声は、感謝の念で微かに震えていた。
その夜、翔は自室に戻ると、すぐに問題集を開いた。しかし、その時、彼の心には、以前のような焦燥感や義務感はなかった。
彼は、問題集を、自分の未来という「道具」を形作るための、大切な「工具」だと捉え直した。
そして、その工具を、ロードバイクを磨く時のように、徹底的な「情熱とこだわり」をもって使いこなそうと決意した。
庭の焚き火から昇る煙は、夜空の星々へと溶けていった。佐藤家の庭は、もはや単なる趣味の空間ではない。
それは、陽介の人生を再生させた場所であり、今や、翔の進むべき道を示す、家族の精神的な「羅針盤」となったのだった。




