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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、ご近所さんとのハーブ共有

 梅雨が明け、照りつける太陽が地面を焼く季節が到来した。

 庭の空気は、熱気と湿気をはらみながらも、特有の生命力に満ちていた。


 父・陽介が丹精込めて作り上げたこの庭で、ハーブたちは、その強い日差しを栄養源とし、まさに爆発的な成長を遂げていた。


 特に目覚ましかったのは、咲がデザインに関わったレンガ積みのハーブ棚に植えられたミントとレモンバームだ。

 その勢いは凄まじく、ひと月前は整然と並んでいたはずの小さな株は、互いの領域を侵食し合い、今や棚の縁から溢れ出し、地を這うツルとなって伸び始めている。


 地植えにしたローズマリーは、もはや「家庭菜園」の域を超えていた。


 陽介の背丈ほどに茂り、その濃緑の葉は、触れるとざらりとした感触と、強くスパイシーな香りを手のひらに残す。一角だけ見れば、まるで地中海の片隅の野生の茂みのようだった。


 美和は、この豊作を最大限に活用していた。

 毎朝、新鮮なミントとレモンバームを摘んで作る特製のハーブティーは、家族の夏のルーティンになっていたし、ローズマリーは、ピザ窯で焼くパンや肉料理にふんだんに使われた。


 だが、その消費量を遥かに上回るペースで、ハーブは成長し続けた。


 ある日の夕方、美和が大きな剪定バサミを手に、溜息をついた。


「陽介さん、これ、どうしましょう? もう、キッチンはドライハーブの瓶で溢れているわ。剪定しないと、ミントの勢いが強すぎて、隣のラベンダーまで日当たりが悪くなっているけど、、、捨てるのは忍びないわ」


 陽介も、両腕いっぱいのバジルを抱えながら、頭を抱えた。


「そうだなぁ。剪定は急務だが、この『緑の命』をゴミ袋に入れるのは、どうにも気が進まない」


 陽介にとって、手塩にかけて育てた植物を捨てるという行為は、単なる「ゴミ処理」ではなかった。

 それは、丹精込めた仕事の成果を、何の対価も得ずにドブに捨てるような、自己否定に近い感覚を伴っていた。


 会社員時代、彼は「効率」と「無駄の排除」を至上命題としてきた。

 しかし、この庭で学んだのは、「無駄に見える手間」こそが、真の喜びと価値を生み出すということだ。


 その手間暇の結晶であるハーブを、「無駄になったから」と捨てることは、彼自身の「余白の哲学」への裏切りのように感じられた。


 陽介は、茂りすぎたミントの葉を指で擦り、その清々しい香りを深く吸い込んだ。


 この生命力に満ちた香りを、ゴミ収集車に託すのは、あまりにも惜しい。何とか、この「豊かさ」を活かす方法はないか、陽介は庭で一人、思案を巡らせた。



---



 その答えは、予期せぬ形で、非常に自然な流れで訪れた。


 ある週末の、まだ朝の空気が残る時間帯。陽介が、庭の隅で、茂りすぎたローズマリーとレモンバームを剪定していると、隣家のフェンス越しに、奥さんが声をかけてきた。


「佐藤さん、おはようございます。朝からすごい作業ですね。それにしても、いつも佐藤さんの庭は、良い香りがこちらまで届いてきますよ」


 奥さんは、穏やかな笑顔を浮かべている。陽介は、剪定したばかりのローズマリーの枝葉を抱えたまま、ふと思った。


(そうだ、この香りを、この生命力を、独り占めする必要はないのではないか)


 彼は、自然な笑顔を返した。


「あ、おはようございます。実は、今、妻と相談していたんですが、ハーブが増えすぎて困っていたところなんです。捨てるのはもったいなくて。

 もしよろしければ、奥さん、少し使っていただけませんか?」


 奥さんは、一瞬、戸惑ったような表情を見せた後、目を輝かせた。その瞳の奥には、素直な喜びと、少しの遠慮が見えた。


「え、いいんですか? そんな、悪いですよ。でも実は私、ハーブティーが好きで。でも、スーパーで買うと高いし、何より佐藤さんのところのハーブは、香りが全然違いますもの……」


 陽介は、奥さんの嬉しそうな表情を見て、すぐに判断した。


「もちろんです。遠慮はいりません。今剪定したばかりの、新鮮なレモンバームとミントを少しお持ちしますよ」


 陽介は、すぐにキッチンへ戻り、切りたてのハーブを、露を拭いた新聞紙で丁寧に包んだ。その時、美和が横で微笑んでいた。


「よかったわね、陽介さん。そのほうが、気持ちがいいもの」


 再びフェンスに戻り、陽介が奥さんに新聞紙の包みを手渡した。

 新鮮なハーブの爽やかな香りが、フェンスを越えて隣の敷地へと広がっていく。


「まあ、こんなにたくさん!本当にありがとうございます!早速、お昼にハーブティーにしていただきますね」


 奥さんの嬉しそうな笑顔は、陽介にとって、何百万の契約を取った時の達成感とは全く異なる、温かい満足感をもたらした。


 自分が手塩にかけて育てた「緑の命」が、誰かの役に立ち、その人の生活に喜びと潤いを与える。

 それは、家族内での消費とはまた違う、「社会的な有用感」だった。


 会社での評価や数字とは無関係な、純粋な「善意の循環」が、今、この庭のフェンスを越えて始まったのだ。


 陽介は、この「お裾分け」という、極めて非効率的で、しかし人間らしい行為の中に、自分が庭で求めていた「余白」の真の価値を見出した気がした。



---



 隣家の奥さんとのやり取りをきっかけに、陽介と美和は、ハーブの「豊作の悩み」を「共有の喜び」へと変える方法を確立した。


 彼らは、毎週末、剪定したハーブの中から特に状態の良いものを選び出し、麻紐で束ねて小さな「ハーブのブーケ」を作ることにした。


 そのブーケを、美和が選んだ素朴なカゴに入れ、玄関先の目立つ場所に置いた。

 そして、手書きのメモを添えた。


「ご自由にお持ちください。佐藤家の庭の恵みです」


 最初は遠慮がちだった近所の人々も、すぐにこの「無料ハーブスタンド」に慣れ始めた。

 特に夕方の散歩の時間帯や、子供の送り迎えの際に、人々が立ち止まる姿が見られるようになった。


「佐藤さんのハーブ、香りが全然違うわね。お肉を焼く時、いつも使わせてもらってます」

「この前のローズマリー、お魚料理に使ったら最高でした! 本当に助かります」


 陽介は、散歩中の近所の人と目が合えば、積極的に声をかけてブーケを渡し、ハーブの効能や使い方を教えるようになった。


 彼の「庭師の佐藤さん」としての評判は、地域の中で静かに、しかし確実に広まっていった。

 この交流は、単なる「ハーブの一方的な提供」で終わらなかった。


 数日後、玄関のチャイムが鳴った。

 出てみると、先日ハーブを渡した隣家の奥さんが立っていた。彼女は、少し照れくさそうに、小さなタッパーを差し出した。


「佐藤さん、この前は本当にありがとう。お礼と言うほどじゃないんだけど、これ、私の実家から送ってきた自家製のお漬物なの。よかったら、皆で召し上がって」


 また別の日には、散歩中の向かいの老夫婦が、ビニール袋を提げてやってきた。


「佐藤さん、いつも綺麗なハーブをありがとう。うちの庭で採れたんだけど、今年は柿が豊作でね。あんまり甘くないかもしれないけど、どうぞ」


 さらに斜め向かいの、幼い子供を持つ若夫婦からは、「お返しに」と、美和と咲のために焼いたという手作りのクッキーが届いた。


 ハーブという小さな緑が媒介となり、これまで挨拶程度だった近隣住民との間に、温かい「物々交換」と「心を通わせる交流」のサイクルが生まれたのだ。


 陽介の庭は、地域社会との接続点、一種の「ローカルな交換所」となった。


 交換されるのは、ハーブ、漬物、果物といった「物」だけではない。交換されているのは、互いへの「感謝」と「温かい気持ち」だった。


 この「非効率」な交換システムが、地域の人間関係を、より濃密で、心豊かなものに変えていくのを、陽介は実感した。



---



 ある夕方、陽介が庭でホースを手に、植物たちに水やりをしていると、近所の小学生たちが、賑やかな声と共に通りかかった。


 彼らは、サッカーボールを追いかけながら、佐藤家の庭の前でピタリと足を止めた。


「あ、いい匂い!」

「なんか、スースーする匂いがするよ!」

「おじさん、これ何?草?」


 陽介は、ホースを置き、子供たちの純粋な好奇心に応えることにした。

 彼は、ミントの茂みに近づき、葉を一枚ずつちぎって、子供たちの手のひらに渡した。


「これはミントだよ。よく歯磨き粉やガムの匂いになっているんだ。強く匂いを嗅いでごらん」


 子供たちは、恐る恐る葉を掌で擦り、その匂いを嗅いだ。


「うわっ、本当に歯磨き粉の匂いだ!」

「すごい!鼻がスースーする!」


 子供たちの屈託のない笑顔と、驚きの声が庭に響き渡った。陽介は、その光景を眺めながら、深い充足感を感じていた。


 会社という組織の中での人間関係は、常に「利害」や「上下関係」が絡み合い、計算と緊張感を伴うものだった。

 一つ一つの言葉に、裏を読み、相手の意図を探る必要があった。


 しかし、この庭を通じた地域との関わりは、全く違っていた。


 そこにあるのは、純粋な「善意」と「共有」だけで成り立っている。


 子供たちの好奇心は、何の打算もない。ハーブを渡し、その喜びを受け取るという行為は、極めてシンプルで、そして人間的だった。


(俺は、ただ自分の庭を楽しんでいただけだ。効率的な仕事から逃れ、自分の心の余白を埋めるために。だが、それが結果として、地域の人たちを笑顔にし、子供たちの好奇心を刺激している)


 陽介は、自分の庭が、家族だけの閉じた、プライベートな空間から、地域社会へと開かれた「パブリックな空間」としての側面を持ち始めたことに、改めて気づいた。


 彼の庭は、もはや「佐藤家の庭」であると同時に、「地域のハーブの源泉」であり、「コミュニケーションの拠点」となっていたのだ。



---



 その夜、佐藤家の食卓には、いつにも増して彩り豊かな料理が並んだ。


 美和が腕によりをかけたパスタには、庭のバジルと、近所から頂いたトマトが使われていた。

 そして、食卓の脇には、頂いたばかりの自家製のお漬物と、向かいの老夫婦から届いた大きな柿が並んでいた。


 美和が、心から晴れやかな表情で言った。


「ハーブのおかげで、ご近所付き合いが本当に楽しくなったわ。以前は、ゴミ出しの時に会釈するくらいだったのに、今では立ち話をするのが楽しみなの。特にあの奥さん、お漬物、すごく美味しかったわよ」


 陽介は、深く頷いた。口に含んだお漬物は、市販品にはない、温かく懐かしい味がした。


「ああ。『情けは人の為ならず』って言うけど、本当にそうだな。

 俺たちは、余ったハーブという『物』を配ったつもりだった。でも結局、温かい気持ちと、地域の新しい繋がりという、金銭では買えない『価値』をもらっている」


 陽介は、ふと、高橋部長との間で交わした「効率」という言葉を思い出した。


 ハーブを育て、剪定し、手作業でブーケにし、それを近隣住民に配る。経済的な効率だけで見れば、この行為は、極めて非合理的だ。


 ハーブの原価を計算し、その労働時間を時給に換算すれば、スーパーで既に乾燥・パッケージ化されたハーブを買うほうが遥かに合理的だろう。


 しかし、この「非効率的な手間」が生み出した人間関係の豊かさ、家族の喜び、そして地域社会の温かさは、金銭では決して買えない。


 陽介は、庭活動を通じて、人生における本当の「豊かさ」の意味を、また一つ深く学んだ気がした。


 豊かさとは、銀行口座の残高や、会社の地位ではない。

 それは、自分の手で生み出した「物」が、誰かの笑顔に繋がり、感謝というフィードバックとなって自分に戻ってくる、「心の循環の総量」なのだと。


 窓の外では、月明かりの下、ハーブたちが静かに揺れている。その生命力溢れる緑は、陽介を、孤独な高給取りのサラリーマンから、地域のコミュニティに愛される「庭師の佐藤さん」へと、静かに、しかし確実に変えてくれていたのだった。

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